第8話
「雪花、行くの?」
身支度を整えて紫水楼の門を潜ろうとしたところで、雪花は萌萌に呼び止められた。
「姐さん、」
「…これ、美月のお墓に持って行ってほしいの」
萌萌は手にしていた白菊を雪花に差し出した。
美月の死から数日。萌萌は気丈に仕事をしてはいたが、どこか落ち込んでいるのは分かっていた。花街で数少ない友人を失くしたのだから仕方がないだろう。
美月の遺体は身請け先の男に引き取られ、亡き両親と同じ墓に埋葬されたそうだ。
普通ならば、花街で生を終えた女達に墓などない。寺院に投げ込まれ葬られる。個人の墓なんてものはない。それを考えれば、両親の元へ帰れたのはせめてもの救いだろうか。酷い場合なんて、この花街の四方を囲む堀に死体が放り込まれることだってあるのだ。
「分かりました」
雪花は、ここを動けない萌萌の代わりに花を受け取る。
「何か分かったら教えてね」
「勿論」
そう頷いて雪花は一人、花街を後にした。
あの後、すぐに会合が開かれて下手人探しが始まった。雪花を含めた、花街と外を行き来出来る何人かは事件の捜査に当たらされている。そして花街の治安強化のため、各妓楼から用心棒達が駆り出されて巡回に当たっている状況だ。
もちろん憲兵も動いているだろうが、生憎彼等をこの花街で生きる人間は信用も信頼もしない。街での事件ならいざ知らず、花街で生きる人間の命は軽く見られている。それに下手人が逃亡して数日が経っている。何の進展もないところをみると、この先、解決の見込みはなさそうだ。とりあえず、の捜査をして終わりだ。といっても、素人の雪花達が出たところでどうなる問題でもないが。
(せめて、何か糸口でも掴めたらな…)
とりあえず、雪花の担当は若旦那と彼の周辺を調べることになっている。…身請け先の男から何か有益な情報が得られるとは思わないが。
ともかく彼に会いに行って、この花を供えてくるか、といつもと違って賑やかな街中を歩く。
数日後に各国の要人を招いて会談が行われるためだ。これはその前祝いだそうで、すでに小さなお祭り騒ぎになっている。
ちなみに本日、江瑠沙の新しい女帝が到着するそうで、一目見ようと人々が港に押しかけているとかなんとか。なんでもすごい美女らしい。
雪花と風牙が訪れた時には、確か男が君主だったはずだが、あっというまに情勢は変わったようだ。
(呑気なもんだよなぁ。下手したら戦になってたっていうのにさ)
ま、平和で何よりだと思いながら、若旦那の店の場所が記された紙を頼りに歩いていく。
途中で腹が減ったので、そのあたりで売っていた花林糖を買って食べながら。
若旦那の店は仕立屋の大店だそうで、街の人に聞いたらすぐに道順を教えてくれた。身請けするはずだった妓女が亡くなったという噂は広まっているようで、皆すでに耳にしていたようだ。
雪花は商家が集まっている一角に辿り着き、その中でもひときわ大きい店の門を叩く。
だが、中はひっそりとしていて返事がない。
「留守なのか…?」
店の賑やかさもない。休業している様子だが、門は開いていたので雪花はひっそりと中へと足を進める。
「あのー、誰かいらっしゃいませんか?」
表には人の気配をまったく感じない。雪花は庭を通って、裏にある住居へと回ることにする。手入れされた庭には小さな池があって、鯉が物欲しそうに口を開閉させている。その側には沈丁花がたくさん埋められていて、甘い匂いが鼻をくすぐる。もうすぐ春が来るのか、と思いつつもまだ寒さは残っていて、かじかむ指を擦り合わせながら中へと進んでいくと。
(…いるじゃないか)
縁側に火鉢を置いて、ぼんやりと宙を眺めている男がいた。
美月の身請け人になるはずだった男———徐宇呈である。着流しに羽織を着て、髪を纏めることもせずに背に流している。そして昼間から酒を煽っており、沈丁花の香りに酒の匂いが混じっている。
彼は雪花が現れても、特に驚く様子は見せずに目でちらりと認めるだけだ。
「…どちら様で?」
生気のない目で、興味がなさそうに。けれども一応尋ねてくる。
雪花は知っている、その面を。生きた屍のようなそれは、まるで昔の自分と同じだから。
「流苑の者です。玄雪花と申します」
「…ああ、貴方が。男衆に引けを取らない女衆。ということは、美月の事を調べているのか」
「はい」
「…憲兵にも話したが、美月は人に恨まれる様な人間ではなかった。それは確かだ」
「付きまとっているような男も?」
「その辺りは喜雨楼の人間がよく知っているだろう?」
「でも、一応と思いまして。美月さんから聞きましたけど、貴方は彼女と幼馴染だったそうですね」
「…それが何か関係あるのか?もういいだろう、そっとしておいてくれないか。僕なんかに構う暇があったら、さっさと下手人を見つけてくれよ。彼女のことで、僕は全てを失ったんだ。美月、なんで美月が———。あぁ、もう死んでしまいたい」
彼は掌に顔を埋め、背を丸めてただ嘆く。深い絶望に身を絡めとられている様に。
雪花は嘆息すると、頭を下げてその場から立ち去ることにした。
(本人があれじゃ、しばらくまともに話はできないな…)
さて、ならば次はどうするかと考えていると、入り口に見知った人物が佇んでいた。
「あれ、貴方は確か———」
「…おや、貴方もいらっしゃっていたとは」
風呂敷を手にした道興が、驚いたように目をまん丸くさせていた。
「私は会合の使いです」
「ああ、お調べに」
「はい、貴方は?」
「私は喜雨楼からの使いです。ちょうどこの辺りに用事がありまして、ついでに美月さんの遺品を届けて欲しいと。…といっても、彼女は質素だったんでしょうね。荷物はこれだけだそうです」
道興は風呂敷に包まれた木箱を雪花に見せる。
「彼は中にいらっしゃいましたか」
「あー…。いるにはいるけど、まともに話ができる状態じゃないですよ。もう死にたい、って言いながら酒飲んでたし」
そう教えてやれば、道興は困ったように店を見上げた。
「…困りましたね。私もそう時間がないのですが。…なら、ここに置いていきましょうか」
「ええ、それがいいかと。気づいてくれるでしょう」
道興は軒先に風呂敷を置いて、雪花と二人で店を後にする。
「店は閉めたままなんですね。仕事でもしてるほうが楽だと思うけど」
有名商家がひしめき合っている中で、徐の店だけが静かだ。
何気なく呟いた雪花の言葉だったが、道興が反応を示して雪花を振り返る。
「貴方は知らないのですか?」
「え?」
「若旦那はあの店の経営権を売って、美月さんを身請けしたそうですよ」
「そうなんですか?え、でもそんな事ができるんですか?ご両親があっての若旦那でしょうに」
「ああ、ご両親は亡くなっていますよ。馬車の事故で一年ほど前に。それで彼が跡を継いだんですよ。皆、慣れた呼称のまま彼を“若旦那”と呼んでいたので、混乱しますよね」
「そういうことか…」
「それで身請けした後は、二人でまた新しい商売を始めるつもりだったらしいです。美月さんも、もともとは商家の娘だったそうで」
「!」
彼女が商家の娘だったとは。ということは、彼女が花街にいた理由はあらかた想像がつく。
「彼女は借金のかたに売られたんですか?」
「そのようで。詳しくは知りませんが、借金を抱えたご両親が無理心中を図ったようで。ですが、美月さんだけが火の海から助けだされたそうですよ。そしてあの妓楼に引き取られたと」
「…」
助けられたといっても、美月にとってはどうだったのだろうかと考えられずにはいられない。
家族を亡くし、花街で生きることを余儀なくされた子供姿の美月が頭に浮かんでしまう。
(生きても地獄、だったろうな)
商家の娘だったなら、それなりの生活を送っていたはずだ。さぞ辛かっただろうと思うが、雪花はそれを口に出すことはない。
花街で生きる女達は、皆それぞれ理由があってあの場所に居る。辛く苦しい思いをしたのは美月だけじゃないからだ。
「それで、あそこで幼馴染であった彼と再会したんですか」
「ええ」
「…若旦那からしたらやるせないでしょうね。店を手放してまで娶ろうとした彼女が死んでしまって」
道端に残る雪に視線を落としながら雪花は呟いた。
「…あの。気になっていたんですがその花は?」
「あ、」
雪花が手にしたままの白菊を、道興が不思議そうな目で尋ねた。持っていた事をすっかり忘れていて、しまった、と雪花は呟く。宇呈に肝心な墓の場所を聞くのを忘れてしまった。
「いや…。彼女と付き合いのあったうちの姐さんから、お墓に供えてほしいと頼まれていたんです。でもお墓の場所を、彼に聞くのを忘れちゃって。…引き返すかな」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。隣町の天門寺院を尋ねればすぐに分かります。私も先ほど訪ねてきたばかりなので」
「そうなんですか。よかった、助かりました」
「いえいえ。それでは私はこれで」
「はい」
雪花は道興と別れると、隣町を目指すべく歩調を速めた。
上を見上げれば、空には薄雲がかかっていた。
◇◆◇
隣町といっても、歩けばかれこれ半刻はかかった。寺院に到着した雪花は、中にいた年配の僧侶に声をかけた。
「あの、すみません。最近こちらに埋葬された、美月さんという方の墓石を教えて頂きたいんですが」
「ああ、それならこっちだよ」
寺院の裏に霊園があり、中でもひときわ大きい墓石の前に案内された。
石には謝家と刻まれている。道興がおいたのだろうか、雪花が手にしている同じ白菊が供えられている。
「あんたもみっちゃんの知り合いかい?」
「私はただの花街の関係者で。えーと、みっちゃん?」
「わしは幼い頃の彼女を知っていてね」
「そうなんですね」
雪花も花を供えると、墓前の前で両手を合わせた。
「まさか、こんな早くに死んでしまうとは。下手人はまだ見つかってないのかい?」
「はい。私達も調べてはいるんですが」
「そうかい…」
彼は墓を悲しげに見下ろしないながら、白い息を吐いた。
そして彼は、雪花に美月の昔話を教えてくれた。
———…彼女のご両親はとても優しい方で。謝家は代々続く染色家でね。腕もいいし、彼らの店の品は評判がよかったよ。だけど、美月ちゃんが生まれてしばらく経ってからかな。城下に店を出そうとして、地面師に騙されたんだ…。借金抱えて、首が回らなくなってしまって。終いには家に火をつけて焼身自殺を図ったんだ。幸いみっちゃんだけが助け出されたけど、彼女は花街に売られてしまってね。まさに生き地獄ってやつだろうね…。それでまた、今回の出来事だろう?でも、彼女にとったら身請けされるよりかはよかったのかもしれないね…。何せ相手は徐家の坊やだろう?え、どういう意味かって?いやいや、あくまで噂だけどね。地面師を両親に紹介したのが、反物を扱っていた徐家だってね。それに借金で首が回らなくなった謝家から、従業員を助けるっていう名目で引き抜いたんだよ。燃え落ちた謝家とは変わって、徐家は一流の染色人を手に入れることができて羽振りがよくなって。しまいにゃ城下に店を移したって話だよ。まぁみっちゃんら子供同士は幼くて、親の事情なんて知らなかっただろうけど。まさか、再び両家の子供が出会うとはねえ…。よく徐家の両親が許したもんだ。え、二人は亡くなった?そうなのかい。…裏では悪い噂ばかりあったからね、あの二人は。天罰がくだったのかもしれんね。だが身請けを了承したってことは、みっちゃんは知らなかったんだろうね。こんな言い方をしたらいけないだろうけと、同じ親からすれば、仇の家に嫁がなくてよかったよ。それで徐家の坊主はどうしているのかお嬢さんは知っているかい?…え、店を手放した?そりゃ、因果応報ってやつだね。ああ、いけないいけない。掃除が途中だった。雨が降る前に早く帰った方がよいよ。
そう言っていそいそと戻っていった僧侶の背中を見送りながら、雪花は首を傾げ、そして唸った。
(…仇が若旦那の両親?)
なんだろう、このはっきりとしない感じは。深い霧の中に迷い込んでしまったようだ。
いったい何がどうなっているのか。
先の僧侶の話が本当ならば、美月は親の仇とも知らずに、その若旦那を慕っていたのか。
ふと、萌萌を訪れてきた時の美月の様子が思い浮かんだ。
萌萌に小突かれながら、照れ隠しのように手で顔を隠していた美月。
あの時の彼女は微笑んで———。
(…あれ。どんな風に笑っていた?)
何故か、あの時の彼女の顔が靄にかかったようで思い出せない。
最後の彼女の顔は思い出せるのに。
彼女はとても美しい表情をしていた。愛しくて、嬉しくてたまらない様な———。
(何か、引っかかる…)
何が、どう引っかかるのかはわからない。でも、何か見落としているような。
雪花は花街への帰路を急いだ。
風牙なら、何か分かるかもしれないと思いながら。
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