死なない世界
弓月 泙
第1話
銀色の雲で覆われた、淀む空の元。
たくさんのビルが建ち並ぶ中で、ひときわ高いビルの屋上ーー落下防止用手すりの向こう側に、男は立っていた。
男は全身を灰色のスーツで包み、手すりには革の鞄が立てかけられている。
年齢はおよそ五十代半ばだろうか。短身という訳でもないが、決して長身とも言えないような背丈をしていて、全体的に頭髪は薄く、頭頂部には髪が存在しない。
「………………」
男は下を見下ろすと、ゴクリとつばを飲む。
下にはたくさんのギャラリーがいて、ポツポツとパトカーの白い車体と赤い点滅が見える。
今は後ろにある手すりに寄りかかっているが、男がひとたび重心を前方に向ければ、そのまま落下していくだろう。
それでも、男の両足は震えていない。
「そこの君! 今すぐこんなことはやめなさい!」
足下から、拡声器のこもった声が聞こえてくる。
「嫌だ! 私はもうこんな人生こりごりなんだ! だから、邪魔しないでくれ!」
男は、全力で叫ぶ。それこそ、声帯が張り裂けんばかりに。
「そんなことを言ったって、君が死んだらいろいろな人に迷惑がかかるんだ。話しなら聞くから、降りてきなさい!」
「私が死んだところで、だれも困りはしない!」
涙を一切流すこともなく、警察の言うことに耳を傾けることもなく、男はそう言い切る。
それは、おおよそ事実だった。男には、家族というものがおよそ存在しない。
妻には裏切られ、子を設けることもなく、ここまで一人で生きてきた。
両親も、とうに死んでいる。
「我々が困るんだ。死んで、良いことはないだろう」
「生きていても、良いことなんて何一つ無いじゃないか! 生きるくらいなら、死んだ方がましだ!」
男がそう叫ぶと、それからしばらく何も言葉が返ってこなかった。
男はすかさず飛び降りようとするーーが。
「そこの君! 少しだけで良い、私たちに話してみてくれないか」
鍵を閉めたはずのドアをこじ開け、そこから三名の警官が突入してきた。
その警官達は、男から数メートル離れた位置で立ち止まり説得を始めようとする。
「や、やめろ! こっちに来るな! それ以上こっちに来たら、すぐに飛び降りるからな!」
男は身体を半回転させ、警官のほうを向くとそう言った。
「わかった、絶対にそっちには行かない。約束しよう」
三人のうち、真ん中の警官が言った。恐らく、この中で一番偉いのだろう。
「一体どうして、こんなことをしようと思ったんだ」
「全部が嫌になったからだ。私はもう、こんな人生こりごりなんだ!」
「それでも、君はまだ死ぬような歳ではないだろう」
なだめるようにして、真ん中の警官が言う。
両脇の警官は一切言葉を発することなく、ただいつでも動けるように身構えている。
「お前に何がわかる。見るからに私よりも若ぞうなくせに、説教でもしてるつもりか!」
「説教なんてしてるつもりはない」
「いや、している! みんなそうなんだ! 私が少し冴えないからって、年下ですら私を馬鹿にして!」
「馬鹿にもしていないじゃないか。きっと、会社で日頃から良くない扱いを受けていたんだろう? 一度、すべて私に話してみないか?」
そう言いながら、一つ前に歩みを進める警官。
「く、来るな! 来たら飛び降りる!」
「飛び降りても、なにも解決はしないぞ」
「いいから、放っておいてくれ!」
「そんなこと出来るわけがないだろう! ーーもういい、彼を確保しろ!」
先ほどまでおとなしく説き伏せていた警官が、突然大声を出した。
時計をちらちらと見て、耳元にあてられたイヤホンを手で押さえている。
「ですが……」
両脇の警官が、困惑の表情を浮かべた。
「構わん、どうせ構ってほしいだけで、飛び降りるつもりはないんだ。一人にこんな時間をかけていては、次の現場に手が回らん。やれ!」
警官二名は、互いに顔を見合わせる。そして頷くと、勢いよく男の元に走り出してきた。
見るからに屈強な体格をした、二人の警官。このまま捕まってしまっては、飛び降りる事は出来ないだろう。そう考えて。
男はすかさず振り向くとーーーー勢いよく飛び降りた。
「飛び降りたぞーッ」
その叫び声と共に、女性の甲高い絶叫や、力強い怒鳴り声が男の耳に入ってくる。
たった数十秒の時間が、とても長い時間のようにも感じられて、男はそのまま目を瞑った。
すると、暗闇の中に、一人の男が映し出された。
映像の中の男は、失敗と成功を重ねながらもゆっくりと成長している。
時には親に叱られ、時には上司に叱られ、しかしその両親は亡くなり、上司も定年で退職していった。
その映像は、今飛び降りている男自身の人生そのものだった。
ーーーー最期に飛び降りる所まで、そっくりそのままに。
「ありがとう」
男は、そう呟く。
それから、全身を凄まじい衝撃が襲うまでに、そう時間はかからなかったーー。
「ーーはい、治療は終わりです。装置を解除するので、少しお待ちください」
突如暗闇の中で、若い女性の声が聞こえて。男はふと、我に返る。
横たわっている男の体中から、ペタペタと何かが剥がされる。
次に、頭からなにか重く窮屈なものが外された。
それが外されると同時に、真っ白な蛍光灯の明かりが目に入った。
ひどくまぶしくて、それでもどこか心地良い光。
「どうでしたか、少しはすっきりしましたか?」
男が横たわっているベッドの右横から、今度は男性の声が聞こえてきた。
男はゆっくりと身体を起こすと、その声の主ーー白衣を着た医者のほうを向いた。
「ええ、とてもすっきりしました。いつも、ありがとうございます」
「いいえ、すっきりしたのなら何よりです」
男の礼に、医者は爽やかな笑みを浮かべて返す。
「それでは、またいつでも来てくださいね」
「はい、ありがとうございました」
男は再び丁寧に礼をして、そのまま出口の扉に向かって歩いていく。
去り際にチラリとベッドの左横に目をやると、そこでは看護師が大仰な機械を掃除していた。
見るからにメカニックで、近代的な機械。
いつ見ても、男にはその使い方がまるでわからない。
「それでは次の方、どうぞ」
扉を出てすぐにそんな声が聞こえて、スーツを着たサラリーマンらしき男性が扉の中に入っていく。
男はそれに見向きもせずに、そのまま歩き続ける。
VRが日常に浸透して久しいこの時代。国は、安全の範囲内で感覚までも共有できるVRを開発し、それを自殺対策として医療に使用する事を正式に認めた。
数十年前まで社会問題となっていた自殺率だが、治療が普及した今現在の1年間における自殺者数は10万人あたり0.02人にまで落ち着いたという。
死なない世界 弓月 泙 @telun0601
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