皆、夢をみている
ほどなくして、身を隠している少年の家の界隈に大人が大勢やってきた。彼らは一様に、訛りのきつい言葉で日ごろの労を讃えあっていたから、恐らくは劣悪な環境で働かされている賃金労働者の類いだろう。この区画の外の人々は、交通の要衝としてのオアシスの住民として宿や飲食店の経営をしている者がほとんどだから、このように大勢で働きに
ということは、少なくとも追手ではない。俺たちを見て怖れを抱き排除にかかる可能性がないとは言えないが。
彼らの足音に身を固くして息を潜めていたことを知り、次の瞬間には少年のかつての恐怖を思い浮かべる。自分たちのテリトリーに知らない大人二人が切迫した表情で駆けてきたのだ、それは恐ろしかっただろう。そして、相手が子どもとはいえ大変無礼なことに、この少年の名を俺はまだ聞いていないことに気づくのだった。
張り詰めた気に押しつぶされるようにして眠りこけているバナージを、もう一度見つめる。右腕の擦り傷からの出血は、かすかに床板を濡らしているものの命の一刻を争うほどではない。呼吸も安定しているように、少なくとも俺にはみえた。
俺は横たわるバナージに背を向け、少年に向かい合う。俺は、神というものに出会ってしまった者として、天使が頭上で生涯の言動を記録しているのだと知った者として、せめてこれからは正しくありたい。道理の通らぬことを沢山してきた――それでも。
「……君」
ビクリと肩をひくつかせて、低いおんぼろなベッドから足をぶらつかせている彼がこちらを向いた。相手の名を知らず三人称で呼ぶことは、立場によっては威嚇にも等しいのかもしれない。
「すまない」
ふるふると首を振ってみせる。その様子ははやり一種の恐怖を感じられているようにもみえたが、俺はふと彼の喉に目を留める。
乱暴に縫われた痕があった。
「お前は……声を失ったのか」
間を置いての
「それでは……名前を聞くことができないな」
そう独り
棒磁石が引きつけられるように、下げてしまった俺の視線が無意識に引き上げられる。そこには、少年の目があった。
不意に夕日が窓から差した。俺の背後から少年に、矢が射られたように光が伸び、少年の顔を赤く照らした。
「あっ」
俺は思わず声を出していた。
赤く照らされても、その個性を失わない、サファイアのような蒼い瞳。それは、この辺りでは見ない瞳の色だった。
なぜ気づかなかったのだろうと思った。俺はこの少年と相対し、胸ぐらを掴んで引き上げてまで言葉を投げていたではないか。
「……とりあえず、リオと呼ばせてもらうぞ」
リオ、それはちびっことか子どもとか、そう言った程度の、本来固有名詞になりえない言葉。
少年は目を見開き、困ったように口角を上げ、そしてややあって、本当にほがらかに、優しく破顔してみせた。そして俺は理解する。この少年も、甘い汁吸って生きている肥えた豚よりはよほど、世間を知っているクチだ。この蒼い目がそう物語っていた。
青は生気のなさを想起させる。ある北方の地域では、そんな事情から、蒼の瞳を持つ者を「死者の迎え人」と呼んで忌み嫌ったという。食用として一般的に食されていながら稀に食中毒の死者を出す〝アオマメ〟への恐怖とも相互作用し、蒼い瞳の子どもはその誕生と引き換えに誰かの命を攫っていく気まぐれな悪魔の化身と結論されたという。
思い出した。この辺りの土地が、これほどまでに荒れてしまったわけを。水の湧く土地がここしかなくなってしまったことを、土地の者たちは恨んでいるに違いない。
土地を荒らしたのは、他ならぬ蒼い瞳の種族だった。妹から聞いたことを、いま心のなかで復唱する。
そうか、この少年は、この地域に攻め入って土地を荒らし、強権政治を行った後、ラーマ王国の基となった革命の一派に粛清された一族の末裔か。
「死者の迎え人」として忌み嫌われていた種族が、安住の地を求めて進撃したあと、またこのように、管理され労働に駆り出されているとは……。
背に気配を感じて、俺は振り返る。バナージが、ゆっくりと身体を起こそうとしていた。
「大丈夫か」
「はい。それより、この方々には迷惑をかけてしまいましたね」
革命軍はいつしか前の政権と同じ道を辿りつつあった。土地の者をないがしろにした征服王朝への反動で、極端に純国民を優遇し移民を排除する。それはまさしく〝同じ穴の
そんな極端な政治への、周辺諸国からの非難も相まって、この国の政府は妥協案を生み出した。それが、蒼い瞳の種族の住む区画に追手が来ないこととも繋がる。
「穢れ、か……」
政府は、卑怯なことに、対外的には蒼い瞳の種族にも職を与え生かしているように見せかけて、庇護されてきた純国民からの反発を恐れて彼らには「移民は穢れているから皮革業に従事させているのだ」と嘯いた。
この町を通る旅人たちに人気の、砂嵐の砂を一粒も通さない精密な皮のマントは、専用の工場で安月給で働かされるこの者たちの汗で成り立っている。
「農耕民族は、獣に直に触れることを嫌いますからね」
俺の思考を見透かしたようにバナージが言った。
穢れのある区画には、誰も寄り付かない。だから、俺たちは逃げおおせられた。
見れば少年は、その小さな手で器用に小物を作っていた。財布や、女性たちが使うポーチのようなそれは、明らかに商品用であるとわかるほどに、機械的だった。手作りの味を極力排すことに慣れているようだった。
少年は誰かのためにものを作ったことはあるのだろうか。搾取され、安値で買い叩かれるものではないものを、いずれ作れるようになるのだろうか。
皆、きっと夢を見ている。
人間は現実を生きるには早すぎた。
そう思ってしまうほど、人間は愚かで、因果な生き物だと、思った。
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