第10話 猫と家に帰るまでが遠足です
木の根元に転がっている、小さな黒い塊。
痩せ細った子猫が、足をもたげて横たわっていた。
顔の大きさと比べて明らかに細い胴が小さく動いているのを見て、まだ生きている事は確認出来た。これだけ近づいても威嚇も移動もしない辺りは、よほど弱っているのだろう。
「いたぞ!」
「本当に?」
静々と両手を伸ばして猫を包み込むと、反抗する体力もないのか、大人しく手の中に収まっていた。想像以上の軽さに驚きながらも、無事である事にとりあえずは安堵した。
掌に水筒の麦茶を少し出して猫に差し出すと、首を上げてすぐに反応し、顔を近づけた。水よりも匂いが独特なのでわかりやすいのかもしれない。
驚かさないように掌を顔に近づけて飲みやすいようにしてやると、少しずつだが舌を出して飲んでくれた。
独特のざらざらとした舌が掌をなでる。
以前、莉奈がペプシは麦茶が好きだという話をしていたので試してみたが、どうやら本当らしかった。もしかしたらこれがきっかけで好きになったとかそういう話かもしれないけれど。カフェインも入っていないし、少し薄めにしてあるので特に害もないだろう。
相変わらず弱々しいけれど、それでも自力で水を飲もうとしてくれているだけの気力はあるようで安心した。
「わあ、かわいい……」
「やってみるか」
「うん!」
初めて感じる猫の舌の感触をきゃーきゃー言いながらも、とりあえず麦茶を飲ませることには成功していた。これで何とか生きながらえてくれるだろうか。いや、死なない事はわかっているのだけど。
「こいつこのままじゃ死んじゃうかもしれないから、とりあえず連れて行こう」
「飼うの?」
「ウチじゃ無理かもな。とりあえずは病院に連れて行く」
「そうだね……」
もちろん、まずは本隊との合流を優先しなければならない。
ペプシのおかげで莉奈も元気を取り戻したので、若干ペースを速めて移動する。道にさえたどり着ければあとは問題ないのだけど、どうにも道が見えてこない。
女神に聞いてみたい気もするけれど、何となく癪なのでもうすこし足掻いてみる。今の所重篤な結果にならないだろう事はわかっているし。
ペプシを片手で持って、もう一方の手を莉奈と繋ぐと歩行時に不安定になるので手を繋ぐのは諦め、代わりに莉奈には俺の服の裾を掴んでもらうことにした。転んだときの支えにはなってやれないのだけど、問題が発生した時にすぐ反応出来るようにしたかった。
本当は莉奈がペプシを運びたいと言っていたのだけど、両手で包むように持った上でずっとペプシだけを見ながら歩いていたので危険すぎてすぐにやめた。
「お前にペプシ預けておくと共倒れになりそうだからダメ」
「ええー? ……ていうかペプシって?」
「あ、いや、猫が……黒いから、何となく」
「いい名前だね! そっかー。お前ペプシになったぞー。可愛いねーペプシ」
うっかり名前を口にしてしまい、猫のの名前がペプシに決まってしまった。そういえば名付け親がだれだったのか覚えていなかったのだけど、こんな経緯だったとは。もちろん当時はこんな雑な付け方ではなかったと思うし、こんなタイミングでもなかったはずだ。
「そろそろ道が見えてきてもいい頃……ん?」
「ねえ、あれ、みんなの列じゃない?」
「ああ、それっぽいな」
「やったね! 凄い! しゅうちゃん凄いね!」
一つの上り坂を越えた所で視界が急に開け、先の方に人の列が見えた。
俺たちと同じ紅白帽を被り、リュックサックを背負った子供の集団。
平日の午前に山道をガキが大量に歩くなど、学校のイベント以外にありえない。
山頂に着く前になんとか追いついたらしい。
二人で走って列の最後尾に合流すると、いなかった事に今気付いた先生が話しかけてきた。今更どうしたのとか言われてもなあ、とか思いながらもペプシを拾ったことを言い訳にする事ではぐれた事の詳細はぼかし、ついでに猫の話題で全部誤魔化した。
クラスの連中も猫の話題で終始してくれたおかげではぐれた事についてはなんだかうやむやになっていて、山頂での弁当の時間もペプシを中心とした行動や話題で乗り切った。
下りはペプシの面倒を見ながら普通に山道を降りるだけなので特に何事もなく麓までたどり着けた。そもそもが三百メートルもない山なのだから、それが普通といえば普通だ。
普通じゃなかったのは、常に数人の生徒が猫をみるために俺の周囲にいて邪魔だったという事くらいだろう。
○○○
家に帰るまでが遠足ですという定番の挨拶と共に、学校で無事に解散となった。
はぐれた事については特に問題にされる事はなかったが、一応勝手な行動は慎むようにという注意を先生から受けただけで済んだのは助かった。
「ねえ、早くおいしゃさんに看てもらおう?」
「そうだな。確かこっちに獣医があったはず」
学校から、ペプシを看て貰っていた獣医の所へ直接向かう。もちろん、今の俺たちにしてみれば、初めて行く所だけど。
名前も含めてこの辺の因果関係が全部逆になっていくのがややこしい。
ペプシはとても衰弱はしているが命に別状はないという事で、ようやく二人で安堵のため息をついた。
先生の所で一日預かってもらったので、その間にペプシの処遇を決めておかなければならない。
莉奈の家で飼う事は確定なのだけど、それでも親の許可を得たり、飼うための準備をしたりしなければならなくなるので預かってもらえたのは助かった。
「うちで飼っていいって、許してもらえるかな」
「大丈夫だろ、一軒家だし」
莉奈の両親はかなり娘に甘いので、多分猫を飼うくらい快諾してくれるだろう。
むしろ、莉奈は普段からあまりわがままやお願いを言ってくることがほとんどないのでここぞとばかりに願いを聞きまくってくれるはずだ。
やたら莉奈の家で猫グッズが揃っているのはそういう事だろうと思っている。
晩年はまったく登ることもなくなったが、リビングのやたら複雑で大きなキャットタワーは今でも残っているはずだ。
獣医の受付を出ると、太陽は既に沈みかけて、街が紅く染まってきていた。
伸びた影の頭を追いながら二人で歩いて家路を急ぐ。
莉奈はずっと楽しそうにペプシのことを話し続けている。
「前にもあったな、こんな事」
「えー? あったかな……」
「……勘違いだったかな」
「そうだよー。あのお医者さんだって初めてでしょー?」
「そうだったな、すまん」
ペプシの亡骸を二人で運んだ事が、ほんの少し前の出来事だったせいでうっかりしてしまった。この莉奈にしてみれば五年後の話だ。まさかそんな嬉しくもない未来をここで告知するわけにもいかない。
「でもさー、すごかったね、しゅうちゃん」
「何が?」
「猫が」
「猫が凄いのかよ」
「んーと、あの子見つけてから、お医者さんに見せて貰うまですごかった。あと山の中でも……すごかった」
語彙。
「適当に歩いたらたどり着いただけだし、獣医は名前だけ覚えてたんだよ。チラシか何かで」
「そっかー。でもさー、山の中は、本当に怖かったの。最初は簡単だと思ったのに、どこまで行っても山だし」
「そりゃあ山だからな」
「すっごく疲れるし。もっと平らなら楽だったのに」
「それはもう山じゃない」
「あんなにすいすいと皆の所とかペプシの所とかに行けたの、すごいね! 泣かなかったし!」
「泣かねえよ」
「すごいね! かっこよかった! 大人っぽい!」
そんなに真っ直ぐに褒められてもリアクションに困る。
何度か時間を移動して何となくわかったけれど、莉奈にとって「大人」というのは多分、かなり上位に属する褒め言葉なのだと思う。どういう条件で大人と評しているのかはわからないけど、称賛するときにはほぼこの言葉を入れてくる。
言われている立場としては、むしろ良かった事や凄いと思った事を素直に称賛出来る莉奈の方が、ずっと大人じゃないだろうかと思う。
それに、結局大人になる前に俺は死んでしまうのだし、彼女の望む姿には結局なれなかった。出来れば、その理想像になれるように頑張るべきだったのかもしれないけれど、今更な話だ。
「良いんですか、とても良い雰囲気なのに」
「なにが。ああ、そういや山でアドバイスありがとうな。一応例は言っとく」
「あってもなくてもいずれたどり着いたのでしょうけど。それはそれとして告白しなくてよろしいのですか。今なら……」
「そうだな……」
満面の笑みで俺を見る莉奈の顔を真っ直ぐ見つめてみた。
「どうしたの? 顔になにか、ついてる?」
「なんでもない」
「へんなのー。あ、早くかえろー! おかあさん帰ってるかも!」
早足で進みはじめた莉奈を追って足を出しかけて、数歩で止める。
後ろも見ずに一人で進み続ける莉奈を眺めながら、真っ赤な空を見上げた。
「戻してくれないか」
「良いんですか。恐らくはこれが最後の機会に……」
「いいんだ。頼む」
女神に頼んで目を瞑る。
目を開けた時には、また真っ白な空間に戻っていた。
次が最後になるだろう。
そう覚悟して、女神に次に行きたい時間軸を告げることにした。
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