祈らない聖職者コウキの悪魔祓い奮闘記
逆立ちパスタ
翠川コウキという男
01. 「ロストバゲージ……?」
「……様。お客様、到着いたしましたよ」
既に他の乗客たちが立ち去った機内で、女性CAが一人の青年の肩を揺すっている。アイマスクを付けて眠りこけている青年は、ようやっと目が覚めたのか呻きながら頭を掻いた。その手でアイマスクを首元までずり下げ、視線を宙に彷徨わせている。寝ぼけていた意識が緩やかに浮上したのか、迷子になっていた視線は自身の肩を揺さぶるCAに向けられる。
青年の目が覚めた事を確認したCAはほっと一息つくと、肩から手を離し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「お休みのところ申し訳ございません……」
「んぁ……? え、もう着いたの?」
「はい。十五分ほど前に着陸いたしました」
マジかぁ、と青年は独り言ちて頭を掻きむしった。まだはっきりしない意識で辺りを見渡しているが、そこには座る者のいない座席たちが整然と並んでいるだけだ。
「すいませんね……今降りますから」
「いえ、足元にお気を付けください」
へらりと笑いながら、青年が出発の準備を始める。CAは青年と似たような笑みを浮かべて自身の仕事に戻っていった。青年はCAの背を見ながら張り付けていた作り笑顔を剥がす。しばらく座りっぱなしで凝り固まった背中をほぐすように、大きく伸びをした。エコノミー症候群対策のために何度か席を立ったり屈伸を行ったので心配こそないが、それでも長時間同じ姿勢でいるのは肉体よりも精神的な疲労を青年は感じた。
何も感じ取れない無表情に戻った彼は、そそくさと頭上の収納棚から自分のリュックサックを取り出す。アイマスクを仕舞って、パスポートや携帯などリュックサックから必要な荷物をいくつか取り出していると、座席前に取り付けられたポケットに未記入の出入国カードが覗いているのが見えた。
「あー……しまった」
これは飛行機を降りたすぐ後に必要だったはずだ。入国ゲートで時間を食うと他の乗客にも迷惑がかかる。青年はため息を吐いて誰に言うでもなく呟いた。
「……しゃーねえな。歩きながら書くか」
リュックサックの口を閉じ、肩にかけて大きなあくびを一つ。機内清掃を行いたいCA達の「あの客、まだ帰らないのか?」と言いたげな視線を受けて青年はのんびりと歩みを進めた。
未記入の出入国カードを握り締めないようにそっと持ち直し、青年はリュックサックに引っ掛けていたサングラスを装着する。
某年七月二日、午前十一時三十五分。青年―翠川コウキ―はおよそ五年ぶりに日本の地を踏んだ。
日本の夏は暑い。これはコウキの経験則である。
「あっちぃ……相変わらずこの国の夏は最悪だな……」
額に滲む汗をハンカチで拭いながら、コウキは顔の半分を覆い隠す大ぶりなサングラスの下で顔をしかめた。空港内の空調は問題なく効いているはずだが、それでもむせ返るような湿気は誤魔化せていなかった。
「向こうに帰りたい……日本人だからってわざわざ夏に行かせることないだろあのクソ司祭……」
悪態をつきながら、コウキは自分のパスポートを開いた。そこには、様々な国の出入国スタンプが所狭しと並んでいる。斜めになっていたりど真ん中に存在を主張していたりと、捺し方に各国のお国柄が出ているそれは彼の海外出張の足跡だ。随分と働き者だ、とコウキは自嘲するように鼻で笑う。
まだスタンプが押されていないページを開いて、そこに未記入の出入国カードを置いた。携帯しているボールペンで、歩きながら器用に必要事項を記入していく。
コウキが入国ゲートに到着した時には、既に審査待ちの客で長い行列ができていた。自分が乗ってきたローマ発成田着の便の客ではない。他の国際便とタイミングが被ってしまったのか、とコウキはげんなりした。思わず出そうになったため息を抑えながら、仕方なく最後尾へ並ぶ。日本行きの飛行機だけあって、やはり乗客は日本人が多かった。審査が短くて済む日本人用のゲートですらこの人だかりだ、恐らく他国籍の人間はもっと待たされるに違いない。
日本の審査官は優秀なのか、列は思いのほか早く進んでいた。これならそんなに長く待たされることはないだろう。
「つか夏休み前なのに人多すぎだろ……なんだよこれ」
ため息は抑えられても悪態は我慢できなかった。そもそも、この大人数に揉まれるのを歓迎できるほどコウキは人混みが得意ではない。むしろ嫌いな質だ。コウキは周囲の人間から発せられる言葉や仕草といった情報たちをできるだけ絶とうと、記入漏れがないか確認するように出入国カードに視線を落とした。
「次の方、どうぞ」
いつの間にかコウキの番が回ってきた。コウキはかけていたサングラスを外してシャツのポケットに引っ掛けながら、ゲートで待つ女性職員の下へとゆっくり歩いた。
差し出したパスポートを受け取った職員は、パソコンのモニターを見やりコウキの顔を確認する。パスポートに使った野暮ったい七三分けの証明写真と今の風貌はあまり似ていない。言及があるかと思ったが、職員はコウキの顔を何度か見るだけで何も言わなかった。
出入国カードを確認しながら、職員は質問を続ける。形式通りのやり取りに今更緊張することもなかった。
「入国目的は?」
「目的っていうか帰国っす。夏休みなんで戻ってきました」
「お住まいは海外で?」
「そっすね。永住権持ってるんで今はローマに」
「……はい、ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」
「そいつはどうも」
”NARITA”と書かれた丸いスタンプが押されたパスポートを受け取り、悠々とゲートの向こう側に足を進める。自分が乗ってきた飛行機を搭乗券で確認し、預け入れた荷物がターンテーブルに乗って流れてくるのを待つ。
荷物の運び入れが遅れているのか、指定されたレーンはまだ動いていなかった。コウキよりずっと先に降りていたはずの乗客たちも、苛立ちながら今か今かと荷物を待っている。最後尾のコウキが来てもまだ荷物が運ばれていないのだ、先に入国審査を抜けた乗客はさぞかしやきもきしている事だろう。
コウキはターンテーブルから少し離れた壁にもたれかかり、ポケットからスマホを取り出して電源を入れた。インターネットに接続してメールを確認すれば、彼を亜熱帯もかくやと言った灼熱の日本に送り込んだ司祭からも連絡が来ている。顔をしかめながら、コウキはそのメールを開封した。
≪親愛なるコウキ。これを読む頃には日本に到着しているだろう。日本には私の友人がいる。話は通しておいたから、しばらく彼女のところで厄介になりなさい。くれぐれも問題を起こすんじゃないぞ≫
余計なお世話だ、と思った。何が起きても顔色一つ変えない司祭の憎たらしい無表情を思い出しながら、コウキは眉間にしわを寄せる。今までトラブルなど数えるほどしか起こしたことのないコウキからすれば、まるで自分がトラブルメーカーだとでも言いたげなメールはこの上なく腹立たしい。そんなに問題を起こした覚えはない。尻拭いをさせた記憶はあるが、それももう終わった話だ。しつこい奴め。
後述されていた住所は、恐らく司祭の友人とやらの住んでいる場所だろう。コウキは成田空港からその友人とやらの住所までルートを検索する。成田エクスプレスに乗ってJRで行ってもなんら問題はないが、荷物を抱えて長距離を移動するのは本意ではない。タクシーにでも乗れば金はかかるだろうが手っ取り早い。領収書を切れば、恐らく交通費くらい教会が何とかしてくれる。
と、そんなことをぼんやりと考えながらスマホを弄っていると、ようやくターンテーブルが動き始めた。ようやくか、と姿勢を正してコウキはスマホをポケットに入れ直す。
ターンテーブルに近付き、預け入れていた大型のキャリーケースを待った。コウキのキャリーケースはかなり見た目が派手だ。だから見れば一発で分かる。今日日革張りのキャリーケースなど珍しくもないが、そこに張り付けられた大量のステッカーは見る者の目を引くだろう。しかも、ただのステッカーではない。どれも黒地に白いイタリックで大量のアルファベットが書かれているものだ。これ見よがしに豪奢な十字架のマークまであしらわれているそれは、見方を変えれば日本の霊符のようにも見えるだろう。あながち間違いでもないのでその印象を訂正することもない。
次から次に、見覚えのないトランクたちが流れて行った。パステルな色合いの小ぶりなものから武骨なスーツケースまで、その種類は多岐にわたる。
流れていく預入荷物たちを眺めながら、ぼんやりと回転寿司に思いを馳せているコウキをよそに、突然ターンテーブルが動きを止めた。
「は?」
故障かと訝しんだが、そんな知らせは電光掲示板は愚か、アナウンスにも流れていない。コウキのほかに荷物を待っていた乗客たちは皆無事に自分の荷物を受け取ったようで、いつの間にか姿を消していた。受け取り忘れの荷物がプールされている場所に向かっても、目当ての荷物はない。ターンテーブルの上に吊られた電光掲示板からは「ローマ発成田着」の文字は既に消え、新しく「バルセロナ発成田着」と書かれていた。
つまり。
「え、いや、まさか」
コウキの額を、たらり、と冷や汗が流れ落ちた。一人静かに焦るコウキなどお構いなしに、係員たちは次の荷物の用意をし始める。いやいや待ってくれ、あの中には仕事で必要な道具が一揃い入っているんだが。そんなコウキの思いなど知らないように周りの人間たちは関税に向かっていた。リュック一つといった軽装備で立ち尽くしている人間などどこにもいない。
今まで何度も飛行機を利用して国境を跨いだ経験はある。治安が悪い空港を使ったことももちろんあったし、そういったところでは細心の注意を払って荷物の管理をしていたつもりだ。だが、まさか、とコウキは顔を青くした。
まさか、平和ボケに染まり切って、誰もが生真面目に仕事をこなす、この日本で、こんな事態に巻き込まれるとは。
「ロストバゲージ……?」
思わず、と言ったように口からこぼれた言葉は、誰に聞かれることもなく空港の雑音に溶けて消えていった。
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