蜂蜜とバター

羽田とも

はじまり

 ベルの音が鳴り響く。

 頭上に置いてある目覚まし時計を止める。カーテンの隙間から光が射し込み、ちょうど私の目の上を通過している。キラキラしていて眩しい。

 扉越しから聞こえる「早く起きなさい」と言う母の声と「いってきます」と言う父の声。それに答える母の声は聞こえない。しかし、妹の声は聞こえる。

 「あと少しだけと」

 私はそう言ってベルを止めて、再び布団の中へと潜り込む。温もりを残した布団は、些かに心地良くて目覚めた事すら忘れるほどに、何度も夢の世界へと誘われるようだった。二度寝で死ねるなら本望とすら思えるほどだ。

 「なに、まだ寝てるの」

 そう言って無断に部屋へと入ってくる妹は母の声を真似ているようであった。ドタドタと近づき私の布団をめくり上げる。露わになった私の胸部。いくら日差しが入っているとは言え少し肌寒く感じた。

 「お姉ちゃん、遅刻するわよ」

 妹は相変わらず母の声を真似ている。「わかったから勝手に入って来ないでって言ってるでしょ」と私は妹に叱りつけるわけでもなく、寝ぼけ眼のまま声を丸めて伝える。「はいはい、ごめんなさい」妹が答える。

 「返事は一回でしょ」と母が遠くから注意をする。

 こうして、いつもの朝が始まるのだ。


 妹は部屋を後にして、取り残されたのは騒音が過ぎ去った静けさと私だけであった。

 よっこいしょ、と呟き上体を起こす。量販店で買ったグレーのスウェットは首もとが弛み、遠回しに言ってもだらしない。しかし、こう言うのはこれくらいが丁度良いのだ。着心地もよくなり、肌と擦れ合う心地も最高に良い。買った当時は少し違和感があったのだが、如何せん当時付き合っていた彼とのお揃いと言う事もあり我慢していた。その甲斐あって、ここに落ち着いた。と言っても、今はそのお揃いにしていた人とも離れ離れになり早二年が経とうとしていた。

 布団からゆっくりと出て、思い出深いスウェットを脱ぎ捨てる。ベッドの横には姿見が置いてあるのだが、パンツ一枚の私の姿が写っている。決してスリムとは言い切れないが、くびれもあるし、乳房もしっかりとしたモノが二つ揃っている。身体の事はほぼ完璧だと自画自賛する。ゆっくりと身体から顔へ視線をずらすと、そこにはなんとも言えない顔がある。毎朝これをみる度に「はぁ」と溜息がこぼれ落ちる。こぼれる、と言うより雪崩のように落ち行くレベルである。


 大学自分は輝いていた。サークルにも入り、アルバイトもし、勉強もそこそこにして、所謂青い春を楽しんでいたのだ。早めに知ったアルコールのせいで少し痛い思い出も幾つか作ったものの、それでも楽しく元気に過ごしていた。

 時折その当時の写真を見返すのだが、我ながら、我の顔幸せか、とツッコミを入れたくなるほどなのだ。


 だが、しかし今はどうだ。


 社会人となり早数年、意気揚々と大人ぶって肩で風切り歩き行くアスファルトジャングルは、夢にも描いていたものとは逆のモノであった。

 毎朝通勤は満員電車。仕事は慣れないヒールのせいで足を痛めながらも飛び込みの生命保険の営業し、職場に戻れば私より若い上司に怒られる。帰りは行きたくもない飲み会へと連れて行かれ、年下の私より若干可愛い女の子は「私、アルコール飲めないんです」なんてかまととぶっている。その飲めないアルコールが私の所へ回ってきて飲まされる。自棄酒に近いが、こんな時ほどアルコールが強くてよかったと思える事はない。昔の痛い思い出も、こうしてみれば努力の証。報われた結果とでも言って自分を慰めておこう。

 そうして、日々疲れていく。


 顔はそのせいで張りと潤いが見る見るうちになくなっていって、次第にはオアシスを求めて彷徨う羽目になるのではないかと心配になる。いや、私の場合肌の心配はしなくてもいいか。若いし、なんて。

 昔から化粧は薄目で肌には気を使っていた。幾らかダメージを食らっても蓄積されてきた栄光の肌たちは負けるわけがない。


 ブラジャーを身に付ける。よし、と言って部屋を出る。顔を洗うため洗面台へと向かうが、先客がいたようだ。妹だ。歯磨きをしている。

 「ちょっと、早くしてよね」と私は言う。

 「ふぉんなふぉとひぃわれても」と歯磨き粉を口の周りに付けながら、こちらを上目遣いで見ながら反抗する。五歳児にして、女の武器を使ってくるのだから、将来が不安で仕方がない。

 口を濯ぎ、顔をタオルで拭いた妹は「もう少しお姉ちゃんが早起きすればいいのに」と言う。そしたら、ゆっくりとお顔を洗えるのに、と付け加える。生意気になったものだ。私は歯ブラシに歯磨き粉付けながら

「はいはい、ごめんなさいね」と言う。すると、遠くから「返事は一回でしょ」と言い返される。


 顔を洗い終わり、食卓に移動する。

 「食パン焼けてるから好きなもの塗りなさい」

 母は背中を見せながら私に言う。ベーコンの焼ける良い匂いがしてくる。

 机の上には、ピーナツバター、ストロベリージャム、マーマレード、そして蜂蜜とバターが置いてあった。

 私はトースターから食パンを取り出し、白いお皿の上に乗せる。コップには、冷蔵庫から取り出したオレンジジュースを注いで、いつもの席へと座る。

 バターをトーストの真ん中に切り落として、その上から蜂蜜をトロリと垂らす。ゆるりゆるりと流れる黄金色したそれは食欲もそそる事ながら、見た目にも美しさが完備されている。

 「はい、半熟目玉焼きとベーコンよ」

 母はそう言って、料理を出してくれた。私の朝食の出来上がりだ。

 「ちょっと、服くらい着なさいよ」

 私の姿を見て母は訝しい顔で言う。いいでしょ、朝食くらい戦闘服じゃなくて自然のまま食べたいのよ、と答える。母は首を傾げて、妹がいる部屋へと移動した。


 甘い甘い蜂蜜とこんがり焼かれたトーストを一口齧り、ふわっふわっの空間を口の中で感じながら「嗚呼、美味なり」と思う。半熟目玉焼きとベーコンの香りに目を取られ、トーストを一度皿に置く。フォークで卵の黄身を割り、ベーコンに巻き付けるようにして食べる。とろりとした黄身とジューシーなベーコンが口の中で何度も手を取り合って激しく踊り狂う。

 「嗚呼、美味なり」

 言わずにはいられなかった。

 そうして、トースト一枚と半熟目玉焼きとベーコンを食べきり、私は自室へと戻る。

 戦闘準備開始だ。


 ハンガーに掛けているスーツを身にまとい、ビシリと着こなす。この辺が少し「大人になったな」と思う瞬間でもある。着慣れていく、と言うよりも、着こなしていく感覚である。

 メイクも手慣れたもので、あれやこれやとセッティングされた小道具たちを、あれやこれやと私の顔というキャンパスに、あれやこれやと描かれていくもんだから、あれやこれやと私は大人の顔になっていく。


 目の周りを綺麗に整えながら昔のとある日を思い出していた。

 レンタルショップに行き、タイトルだけの勢いで借りた「ティファニーで朝食を」の映画を見ながら、ヘップバーンは理想の大人だと感じたし、いつかきっと私もこんな大人になってああだこうだとなって、なんて事にもなって、酸いも甘いも大人になるのだと信じていた。

 そんな夢物語を語りに語っていた。殺伐とした未来と確実な空想が入り交じり、出来損ないの道ばかりを作り上げてきた。

 だからと言って後悔はしていないのだ。

 これもまた人生であり、私も流されるように生きていて実は流している生き方をしているのかも知れない。人にはどう見られているかわからないが、私は私なりに案外楽しいし、辛いときも辛いが脳内では「どうにかなるさ、私だもん」と思うことも多い。


 愚痴ばかり出るのは仕方ない。夢物語と現実の落差があまりにもありすぎたのだから、だからといって逃げる事は決してない。

 幸せっていうのは自分の心が決めるのだ。

 誰がどうとか、そんな話をしているのではなく、私は私で幸せだと思って今を楽しんでいる。

 そう思う日々が数年続いている。これを前向きと取るのか、それとも後ろを振り返ったまま歩いているのかと問われたら、正直私も悩み所ではある。

 疲れた顔をしている私が私を見ている。化粧しても、心の化粧はできないのだから仕方ないのだけれど。疲れてるな、私。と、思う。


 幾つかのポジティブな思案は幾つかの現実により少しずつ砕かれていく。それでも、何度でも砕かれた物で作り直していく。そうすることで、少しでも前を向けるようにしている。


 「お姉ちゃん、先に出るわよ」

 母が扉越しに声をかけてくる。妹を幼稚園に送り届けて、その足で自分もスーパーのパートへと向かうのだ。「鍵だけきちんと締めて行ってね」と言われ、私は「はい」と短く返事をする。それよりも玄関の扉が閉まる音が先に聞こえた。もう一度小さく返事をした。


 出勤する準備も整い、いよいよ私も出掛ける時が来た。今日もなんとなく憂鬱だけど平凡な一日が始まるのだ。

 玄関先で、そろそろ買い換え時のヒールを履いて、下駄箱に備え付けられている鏡を見る。コートをきちんとボタンで止める。肩まで伸びた髪の毛をゴムで止める。ポニーテールにし、鏡向かって「いってきます」と言う。返事は返って来ない。

 口の中には、まだ蜂蜜の香りが残っている。良かった最後に齧ったのがトーストでと思った。

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