アデルバートの冒険

実茂 譲

プロローグ

少年と少女

 春の星座が小さな脱出行を見守っていた。

 山稜から森を抜けて、一本の川がゆるやかに流れている。

 川辺の闇深い茂みがかさりと音を立て、毛羽立ったマントを身につけた旅装いの少年が現れた。用心しいしい、桟橋までの道を見回している。

 誰もいない。

 物音はどうかと耳をすませば、水がちゃぷちゃぷ鳴っている音しか聞こえない。

 少年はランタンにかぶせておいた厚い布を取り払った。

 桟橋につながれていた手漕ぎボートがぼんやりと照らし出される。

「今だ、はやく」

 少年が手招きする。

 茂みがかさつき、白い寝巻きにケープを羽織った少女がひょっこり顔を出した。

 ためらいがちに、おずおず歩く少女の手を少年が引っ張る。

「はやく行こう! ほら!」

「でも、アーサー。わたし、やっぱり……」

「じゃあ、あきらめちゃうのかよ!」

 彼らが逃げてきた庭園のほうから十個以上の丸い灯が左右を探るように動き回っている。

 ――おーい、どこだあ!

 ――さがせ、さがせえ!

 呼び声がこだましてきた。そんなに遠くはない。

「さあ、はやく!」

「う、うん」

 少女を乗せると、少年はオールで桟橋を突き、ボートを静かに滑らせた。

 水草が船底をこする。ウグイが一匹、ぴしゃんとはねた。


 二人を乗せたボートはそのまま大運河に合流した。

 両岸は崖が切り立ち、森を茂らせている。人家の気配といえば、ときどきボートにぶつかる仕掛け網くらいのものだった。

 少年は自分のマントで少女をくるみ、手製のアルコールランプで温かい飲み物を作ってあげた。

 少女はマグを両手で握り、飲み物を吹き冷ましながら、河岸に目を向けた。崖が段々低くなり、やがて石垣に変わった。釣り人小屋と森、工場の水車を代わる代わる通り過ぎ、ボートは巨大な跳ね上げ橋の下をくぐった。

 岸辺に大きな町が見えた。真夜中の三時だというのに、川岸の飲み屋は浮かれ騒ぎ、少女の聞いたことのない賑やかなフィドルが手拍子に合わせて聞こえてくる。少年は船を指さして一つずつ名前と役割を教えていく。

「あれは釣り舟、平底船、穀物を運ぶ手漕ぎボートにゴンドラ、あれはスループ船」

 少年が一本マストの船を指差した。甲板に赤いランプと洗濯物を下げて、船員と踊り子がダンスを踊っている。

「ねえ、アーサー。あれはなにしてるの?」

「あれは船乗りが町に寄ったら必ずやる渦巻きダンスだよ。ああやって右手同士をつないで、ぐるぐる回るんだ」

「楽しそう」

「踊ってみる?」

「う、うん。……できるかな?」

 それから二人は町を通り過ぎるまでの三十分、見よう見まねの渦巻きダンスを踊ってみた。小さなボートだったので危うく転覆しそうになるが、二人はおかまいなしに笑い合い、はしゃぎあった。あんまり騒ぐもんだから、船縁でパイプをふかしていた通りがかりの商船航海士が驚いてパイプを川に落としてしまったくらいだ。

 踊り疲れた二人は身を寄せて敷物をしいた舟底に寝そべった。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。

 うつらうつらする。

 川幅が広がっていくにつれて、風に潮の匂いが混じり始めた。

 閉じがちの瞼に光を感じ、二人は身を起こした。

 空と海。夜を払いきれていない青い世界が広がっていた。

 潮風が朝靄を拭い、水平線からあんず色の空がにじみ始める。

 突然、剣のように鋭い光が海から空へ突き出された。

 それが太陽だと気づく。

 光はますます大きくなり、空は桃色に、海は黄金色に、世界は輝きと命に満ちていく。

 昇る太陽を背に、少年が自信たっぷりに言った。

「どうだい、初めて城を脱け出した感想は?」

 少女は小さな声で何かつぶやいた。

 声を聞き取ろうと少年が顔を近づける。

 少女の手が、腕が、肩が少年に寄り添い、唇が頬に触れた。

「ありがとう。連れ出してくれて」

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