第1話 孤独の夢2


「近頃、通り魔が騒がれているらしい」

「犯罪者どもが暴動を起こしたばかりだってのに、随分と治安が悪くなったな」


つい最近同僚になったばかりの男たちの会話。犯罪者たちの暴動などとは穏やかではないが、それは上層部による作り話だ。


(僕たちの苦労も、知らないくせに)


横耳に挟みながら慌ただしく書類を運ぶ。この雑用も、もしかしたら口封じのためかもしれない。


「あ、おい、新入り!あんた、あの暴動のあと開発部から異動してきたよな。何か知ってるのか?」

「うっ……」


ああ、来たよ。この問いももう珍しいものではない。異動は自分の意思だった。しかし面倒なものだと、またこの吃音に頼る。


「あ、あえ、えっと」

「ダメだダメだ、こいつはまともに会話できないんだ」

「それで開発部から御役御免か。納得だな」

「うぅ……」

「もういい、行けよ。ほら、この報告書も頼むな」


積み上げられる書類。一枚一枚は軽くとも、束になれば重くのしかかる。言葉も同じだ。

これは彼の自衛。最良手段。しかし上手く進んだ試しなどない。しかし彼にはこれしかない。


背中のナップサックの中、カチャカチャと騒ぐ我が子の声に安らぎを覚えながら、上階へと足を進める。上司の顔は見たことがない。書類をひとつひとつ分別し、それらを適当な箱に差し入れるのだ。そうすれば、担当の者が音もなく印を押す。中の見えない分厚い白に包まれた箱。可、不可、了。この三言しか発しない上司を、何故信じられるだろうか。こんな疑問は初めてだ。


「ヤナギ」


背中に投げられた声。ドキリとして、思わずと紙をばら撒いた。


「……大丈夫?」

「あ、ガ、ガーベラ……ごご、ごめん。す、すぐ片付けるから……!」


散らばる紙は、彼よりも早くガーベラがまとめあげる。そうして真っ白な箱に吸い込ませれば、男に笑みを向けた。


「これのことではなくて。執行部に口の悪い人がいただなんて思いもしなかった」

「み、見てたの……ご、ごめん」

「どうして謝るの」


彼女は笑う。泣きそうな、情けない顔を作る男の額を、軽く小突いて。


彼女は強い。きっと。まだ彼女の全てを知りやしないが、自分だけでなく、彼女もあらゆる責任を押し付けられたり、詰問を受けたり、そんなこともあったはずだ。けれど彼女は何食わぬ顔で、今まで通りの任務に当たっている。雑用なんて、彼女には渡されない。


「そ、そういえば、とと通り魔が横行してるらしい、よ」


だからすぐに話をすり替えた。


「通り魔?まだ報告には上がってないわね」

「う、うん。さっきの人たちが……言ってた」

「単なる噂か、もしくは敢えて情報開示されていないか」


彼女の目が光る。ドクリ、心臓が波打つ気がした。


「も、もしかして……」

「可能性は、ないとは言えない」


それについて思考する彼女の表情は凛々しくも歪んでいる。清廉なる白に包まれた空間で、彼女の瞳は淀む。きっと自分も同じなのかもしれないなあ、と巡らせて、彼は懐の銃を握った。


無人の白箱が、カタリと動いた。




公安は主に、二人一組で行動する。片一方が悪犯に倒れた際、すぐに本部と連携を取るためだ。正義の執行に、犠牲はつきもの。それが公安の正義。


「振りかざすものが大きければ大きいほど、扱いは難しくなる」

「こ、公安学校の教えだね」


彼女は彼とのバディを志願した。そのほうが目的に当たりやすい。と、言うよりも──


「エリカと私は、その頃からの親友だった」


彼女以外のバディを新しく、など、考えたくもなかった。


「あの子は、難しいことを考えるのが苦手だったけれど」

「ガ、ガーベラは、とと得意なの?」

「得意じゃないわ。でも、考えられるようにしたいと思ってた」


もう陽は高く上っている。公安本部、摩天楼の上に突き刺さるようにして、街に影を落としていた。その影は黒ではない。白に透かされた影。光を反射して輝く万華鏡。虹色に染まるタイルを踏んで、彼女たちは中心街を目指した。


「目的や信念が何であれ、今やるべき事をする。やれるべき事をする。それが私の答え」


今日の任務は二つ。一つは街の警ら。これは毎日の習慣業務でもある。日夜犯罪が横行していないか、それの巡回だ。虹色の街を見回しながら、時折無邪気な少年少女に手を振る。そしてもう一つは、宗教団体の偵察。これには、驚いた。


「今やるべき事……ぼ、僕たちが今やるべきことは、に、任務?」

「そう。警らはもとより、宗教団体の件。おそらくイリスの教団ね。彼らを警戒する理由がわからないし、唐突すぎる。偵察という婉曲的な表現も気になる」

「きょ教団が、通り魔にか、関わってる可能性は?」

「微妙なところ」


肩をすくめる彼女。しかし、どうか関わってくれていれば、という不調法な思いをヤナギは感じ取っていた。彼女は、ガーベラは、途方もない真相を、その手に掴みたくて堪らないのだ。幾度となく発せられる親友の名から、それはわかる。


「何か繋がるといいね」


思わずすらりと言い述べてしまった。彼女が聞いていたかはわからない。顰め面で何かを思い馳せている彼女は、自分とは違う存在のようにも感じる。連なる家屋は煩わしい虹色。これは摩天楼の影ではない。純白の正義に反して、市民は極彩を好む。いや、逆かもしれない。市民が極彩を好むから、公安は純白を翳して黒点を洗い出すのだ。


「教会。使われていないと思っていたけれど」


広大な敷地が広がる。極彩の合間を縫う教会は白。どことなく、あの摩天楼と似ている気がした。おそらく歴史が近しいのだろう。朽ちた門は白が腐り、僅かに木の根が巻き付いていた。


「で、でも、イリスの教団はここに……」

「そうね。いる」


静寂の中、人の声がこだまする。住宅地からではない、この真っ白な空間から。


「歌……かな」


耳をすませば、旋律が脳を巡る。聞き慣れない宗教歌。ミサが行われているのか、ボロ屋敷の中で。


「行きましょう」


門を潜り、荒れた草を掻き分けて。ここを人が歩いた形跡はない。旋律は歪な音色を奏でていた。




「──手の鳴るほうへ佇む少年」

「太ったユリの揺れる頃には──」


高い天井を反響して空気が震える。黒と白、二つの色を全身にまとった人々は、薄汚れたがしかしどこか清浄な空間を貫く大木を囲んでいた。その根はまるで、木の彫刻。豊満な女性の木像は固く唇を結んでいる。張り付かせたそれを、信者たちは愛おしそうに撫で上げていた。あれが信仰対象なのか。


「随分とたくさんいるのね」


音色が止まる。こちらを向いた男は、彼女を見て目を輝かせた。


「やあ、いらっしゃい、マリオネット!」

「マ、マリオネット……?」


まるで無邪気に笑う男。その言葉にヤナギは顔を歪ませた。彼女も同じ。嬉々として声を上げる男を静かに睨み付けた。


「あなたが教団のトップでしょうか」


他の信者たちは振り向かない。唯一動き出した男は、浅紫のストラを揺らして信者の中を歩み出る。にこやかに笑みを張り付かせて、露出した指はいぼだらけだ。


「理事だとかいう肩書きは頂いておりますが。なに、私はただの司祭ですよ。我が教団に上下などありはしない。それがイリスの望みなのです」


女神イリス。彼女を信仰する者は少なくない。人は皆彼女から生まれ、彼女より名を授かる。そうしてこの国は出来上がったのだ、と。しかしながら、それはこの国の人間の常識であり、基盤であり、わざわざ崇めることでもない。普通はそうだ。しかし彼らは違う。信仰を掲げ、人々の心からそれが消えないようにと働くのが、彼らの務め。と、聞いたことがある。


「そう。ではあなたを教団の代表として、伺いたいことがあります」

「公安の方々からの詰問を拒否することなど、市民にはできませんよ。なんなりと」


さて、彼女は何を問うのか。飄々と作り笑いを浮かべる男と、冷たい眼差しを向ける彼女。その拳は固く握られ、腰のホルスターに押し当てていた。二人を見比べて、ヤナギは半歩下がる。自分の出る幕ではない、彼女の闘気を盛り下げてはいけない。


「この教会はいつも使っているのですか」


小手調べの取っ掛り。背の後ろで、トリガーに指を添える。


「ええ、いつも」

「ならば、この教会について詳しいのですね」

「いやあ、それなりには」


高い天井、中央塔を縦断する大樹の根。それの奥、神聖であるべき祭壇は瓦礫に埋もれて見ることが叶わない。左右に開く翼廊すらも崩れ塞がれていた。それらを見渡し、彼女は目を細める。


「入口は私たちが使った扉でしょうか」

「ええ、他にありますかな」


ほら、当たりだ。彼女の笑みをヤナギは見逃さなかった。


「ならば、あなたたちはどこから入ってきたのです」


あっと声が上がりかけるのを堪え、ヤナギは司祭に視線をくべた。張り付いた笑みが徐々に崩れ去っていく。


「……仰っている意味がわかりませんな」

「回答を拒否するのですね」

「いいえ」


男の表情が消える。ヤナギは思わずと肩紐を握り締めた。彼女は続ける。


「では質問を変えましょう。私たちが使った扉、そこに辿り着くまでの敷地は、雑草に覆われており、人が通った跡などありはしませんでした。あなたはここに住んでいるとでもいうのですか」


木の根が動いた気がした。無表情の男は肩を震わせ、首を傾げる。わざとらしい。


「そうですそうです。私はここを住まいとしております。何故ならイリスに仕える身でありますから」

「では、他の方々は」


気のせいではない。信者の足元に這い蹲う木の根は、先の歌を思い返すようにリズムを刻む。それに合わせ、信者たちは再び声を響かせた。思わず耳を塞ぐ。それほどに、不快な音波。


「──あなたの手を取りましょう」

「そしてわたしは笑います──」

「彼らはここに住んでいません。どこにも住んでいません。何故なら──」


歌声は木の根を震わせる。ポコリポコリと、グツグツと。激しい胎動、割れる床。白いタイルが持ち上げられた。信者の歌声は益々轟く。


「──あなたの顔を作りマしょう」

「そして私は笑いまス」

「笑イマス──」


プツリ。背後で音がした。リボルバーが弾き飛ばされる。ヤナギは、動けなかった。


「私が創り出したからです」


前座はおしまい。モノクロの装束を脱ぎ捨て、信者の、人間の形を真似た木の人形たちは白に群がる。司祭の周りの床は、根に覆い尽くされていた。あれが全て、人形に変わる。


「な、なななにこれ……!」

「超常現象……特異能力……まさか……!」


弾かれた拳銃を追い、ガーベラは翔ける。うねる足元、揺らされる教会は、ひしひしと悲鳴を上げていた。歪な音色は続いている。中央の木の女神、固く結ばれていた唇が解かれていた。女神のワルツに、人形は踊る。彼らは遊んでいる。彼女たちを木のあやとりで。巻き取られたリボルバーは、あと一歩で掴めるというのに、そこに辿り着くまでに足に巻き付く人形。木から生まれるマリオネット。


「ガーベラッ!こ、これ!」


姿は人形に囲まれて見えなかった。震音に紛れて漏れる叫び声に、女ははっと天井を見上げる。宙を泳ぐリボルバー。彼女のそれと同じ形式。やはり、彼は開発者だ。


「ありがとう、ヤナギ」


崩れた体制のままに、それを鷲掴む。ハンマーは起こされていた。踊る大樹に焦点を、女神の唇へ銃弾を。


「わたしハ、笑……ウ……」


迸る樹液。女神は口を開けたまま、その目を細めて固まった。動かなくなった。辺りの人形も、ピタリと動きを止め、その場でただの木像へと。まるで遊んでいたことを忘れるかのように。


「あ、あああの能力……あれが、お、親殺し……だよね」


肩で息を吐きながら、ヤナギは自身に巻き付いた木の根を剥がす。白い床はもう見ることが叶わない。全面に這われた木の根、ツタ。


「きっと、そう。親殺しは皆、こうして人に紛れているのね」


女神の木の奥、祭壇があるだろう壁。いつの間にか司祭は姿を消していた。


「……取り逃した」

「い、一度戻ろう。さささすがに、じ上層部も、何か──」


轟音に声が消される。見れば女神の唇が弧を描いていた。笑っている。木の根の振動、地面はドラム。激しいロックチューンを奏でながら、大樹は狂気に絶叫していた。


「この……ッ」

「み、耳が……ッ」


揺れる根の絨毯に平伏すまま、ヤナギは両手で耳を覆う。横目で見た女は、懸命に照準を探していた。揺れは収まらない。


(聞いてない!こんなの聞いてない!)


女の勇猛さに、彼は動揺する。激しく揺さぶられ、視界すらおぼつかない。背中の我が子たちも悲鳴を上げているようで、涙が溢れそうだった。


「憐レな少年手ノ鳴るホウへッ!穏ヤカな日々ッ!日々ッ!ヲ───ッ!!」


もうこれは歌ではない。シャウトを響かせ、女神は操る。木の根の人形。操り木偶の坊。再び彼らにまとわりつき、武器を奪い、四肢を拘束する。破かれたナップサック、我が子が散乱する。剥き出しのツタが、彼らを目掛けて尖らせた。


(もう──ダメだ──)


ヤナギは固く瞼を閉じる。視界は黒、それを伏せ、轟々と響く音だけが耳をつく。その中で、金属音が際立った。キュルキュルとレールを伝うような、耳をつんざく音。ツタの音色か、いや、違う。


「あなたたちは……」


驚きに満ちた彼女の声。こわごわと薄目を開ければ、彼もまた彼女に続いた。


「おおっと、公安がいるなんてな、思いもしなかったぜ」


若い男。白髪のポニーテールは中性的だ。彼の手首に巻き付けられたテグスを見て、先の金属音の謎が解けた。途端に外れる拘束。腰抜けと称される彼が目を逸らした隙に、戦いは終わりを迎えていた。


「これはまた……なかなかの悪趣味だね」


今度は低い声。ポニーテールの彼よりも幾分も背の高い、左目に眼帯を巻いた男。こちらは武闘派か、小型のナイフを指で遊ばせている。二人は揃って、黒い衣装に身を包んでいた。


「あなた方は、コモンリード……?」

「コモンリードを知ってる?へえ、珍しいな。けど残念。そんな新参者じゃあないぞ。オレたちは」

「エキノプスだよ。まあ、コモンリードは弟分のようなものだし、間違ってはないかもしれないけれどね」


エキノプス。聞いたことがある、マフィアの重鎮。そんな連中が何故、とガーベラの目が訴える。ヤナギは呆けたまま、動けなかった。


「エキノプスの情報網を舐めないでもらいたいな。オレたちは今この国で起きてるオカシなコトを探ってる。その一端が、ココってわけだ」

「アカネくん」


アカネと呼ばれた、陽気にひらひらと笑う彼は口が軽いらしい。笑いながら諌める長身の男に向けて舌を出すと、その手に握るテグスを解き放った。叫声の女神はそこで動かなくなる。辺りに蠢いていた人形も、根も、ツタも、ポトリと小さな種に姿を変えた。見れば女神の大樹は、その根元から切り離されていた。


「うわッ」


間一髪、ヤナギは相棒の元へと跳ねる。先まで彼がいた場所では、女神だったものがその巨躯を横たわらせていた。


「おお、ナイスナイス!見た目によらず動けるなぁ、アンタ」

「……あなたたちは、敵ですか、味方ですか」

「さあて。公安にとって、オレたち黒服は謂わば共犯だろ。それでも、いつ寝首をかかれるかはわからない」


お互いにな、と笑う彼。その手には新たなテグスが握られている。拳銃を握る拳に、自然と力が込められた。そのままヤナギを起き上がらせ、二人と二人は再び白に姿を変えた床の上を対峙する。


「……くく、そんな怖い顔すんなよな。オレたちの目的は、あの女神だ。アンタらをどうこうしようなんて思っちゃいないぜ」

「信じられるとでも?」

「おー、怖い。うちのボスより怖いぜ」


黒い男たちはすぐに武器を降ろした。テグスはするすると彼の手首の装置に納められておく。そのまま彼女の脇をすり抜ければ、大木に駆け寄った。


「げ、まだ動いてるぜ……リンドウ」

「うん」


リンドウ、呼ばれた男も続く。拳ごとナイフを大木にめり込ませ、何かが割れる音がした。ガラスのような、繊細な、何か。そうして大木も蒸発するかのように姿を消していく。残されたのは、浅黒い種。


「種……たしかヤナギ、あなたが研究していたのは」

「えっ、あ、う、うん。た、種を使ったじ、銃弾」

「種の兵器利用……キメラのチップ……」


自身の手首に目を凝らす。破れた天井から漏れる光が、そこを透かしていた。手首、血管の上の四角い影。どくりと脈打った、気がした。


「さて、お仕事完了だ。行くぞ、リンドウ」

「先方をいつまでも待たせるのもね」


足取りの軽い彼らの手には、種が握られていた。あれはなんだ、何に使うのか。気付いたときには、ガーベラの銃声が鳴り響いていた。


「……まったく。まだ何か用かよ?公安サマ」


銃弾は天井に突き刺さる。欠片が床に弾んだ。それと同時に、ヤナギはへたりと座り込む。


「それをどうするつもりですか。それは何なのです。あなたたちは何を知っているのです」


吸うと同時に吐く息。止まらない彼女の疑問に、彼らはまた笑い、その手を振るう。


「あまり深入りすると火傷するよ、お嬢さん」

「今度会ったら教えてやるよ。まあ、会うことはないだろうけどな」


白い空間から抜け出す黒。無残に荒れた教会は、扉の音をこだまさせた。残された白。緊迫の糸が切れ、彼女は相棒の隣に腰を落とす。


「……ほ、本部に戻ろう」

「……ええ」


どうにも体が重かった。それは疲労からか、謎が深まったからか。どちらにせよ、まだ何も掴めていない。彼女のほしいものは、情報は、事実は。まっさらになった教会が、いやに不気味だった。




任務の報告は、あの白い箱に書面を投じることで完了する。寸分待たずにすぐさま押し返されるそれには、赤い受領印が押されていた。事細かく起きた出来事を記載しても、疑問を述べても、見えない上司からの返事は「了」のみ。納得がいかなかった。


(あれはおそらく、親殺しの能力だった。実際に目の当たりにしたのは初めてだけれど、私にはわかる)


右手首が疼く。気のせいか、また少し腕を登ったように見える。


このチップの持ち主であったキメラは、親殺しの成れの果て。親殺しを探すには、役に立つ。司祭を一目見たときに、彼女は確信した。右手が、僅かに震えたのだ。確かどこかで同じことがあった気がする。それがどこであったか、思い出すのは難しい。何せこの右手に頼ることは、どうしても理性が許さないからだ。


(それでも、利用するしかない。私は、私を)


すべては彼女の正義のため。不可解な気の淀みを、打ち消すため。新たな悲劇を生み出さないため。




相棒と別れ、ヤナギは白い塔を登る。白い箱のその先、連なる通路の更に奥。途方もない空間を、好んで歩く者はいない。無空間を歩んでいると、ここがどこだかわからなくなる。そんな錯覚に陥る。しかし彼にとってそれは慣れたものだ。


(ここには誰もいない)


くぐもった声は特技で、人に壁を作り、螺旋の中で螺子を遊ぶ。継ぎ接ぎの袋に詰めた我が子だけが、心の拠り所。他人は他人を傷付けるもので、言葉は尖った凶器そのもので。コミュニケーションなどという現代的な偽善のせいで、自分は道を違えたのだ。そう、きっとそう。


(なんて清々しいんだろう)


大きく息を吸って吐いて。錆び付いた匂いが鼻をかすめた。看守塔は、久しぶりだ。

たった半年で、ここはやけに透き通った。白い摩天楼。獣の血は上から塗り替えられ、偽りの純白に覆われる。罪人たちの呻き声も、聞こえないくらいに荘厳だった。螺旋階段は終わりを迎え、彼は白い壁に手を触れる。カタリ、箍が外れた。空気が変わる。


「おかえりなさい、ヤナギ」

「ただいま」


拓けた空間で、穏やかな笑みを浮かべる女性。色香の溢れる彼女を、彼女よりも小さな身体で強く抱き締めた。長い時を隔てたかのように、キツく、固く。そうして唇に触れようかとするが、咳払いによって阻まれた。


「ああ……いたの」


暗い声。ここでは吃音は必要ない。蔑む瞳は、絢爛な冠を掲げる男に向けられた。


「相変わらず、貴様は無礼な男だな」

「国民を思わない、巫山戯た国王にへつらうほうが、神様に無礼じゃない」

「それもそうか。いや、私が神になれば早いかな」


男は笑う。低く卑しい笑みを浮かべて。彼はこの国の王。現王ローレル・ホリホック=ピオニア。金色の冠と真っ赤なマント、そして何より、その深い紫の瞳は純潔な王位の証。この部屋は王室と公安とを結ぶ居間だ。誰も知らない無の空間。ここへ辿り着くことができるのは、国王に見初められたものか、もしくはよほどの知恵者を除いて他にはない。それだけを置かれた重厚なソファに身を沈め、国王は顎を摩って彼を見上げた。


「それで、調子はどうかね」


諦め、ヤナギは彼女から離れると、国王の対面に腰掛ける。女の笑みは、張り付いたように消えなかった。


「……彼女を巻き込むことに得はあるの?一緒に行動してると、冷や汗が絶えないんだけど」


苦労ばかり押し付けてくれる。隣に腰掛けた女に額を寄せてから、忌々しく国の主を睨み付けた。おもむろに取り出したピルケースから、小さな種が零れる。それを奥歯で噛み砕き、国王は歯茎を見せつけた。


「エリカのことがある」


その名は幾度も耳にしている。相棒の、元相棒。確か公安学校からの同期で、親友で、思考が下手な少女。呆れたようにして、彼は笑った。


「ああ……もしかして、まだ調整終わってないの」


嘲笑に、国王は青筋を立てる。彼らの仲は一目瞭然だ。共有する事柄を除けば、互いの存在など、害虫でしかなかった。そこに割るのは、笑顔の女。


「首尾は上々です。うちの子たちが、あれの回収も済ませましたし、バックアップは取れるのではないでしょうか。そこできみの出番ね、ヤナギ」

「……きみが言うなら、仕方ないね」


ふふんと鼻を鳴らし、彼女の膝に頭を寄せる。ヤナギが想う人とは、彼女しかいない。彼女しか人間ではない。この包容力と、事務的な言葉が、ナイフに変わることはない。そうだから安心して身を委ねる。彼女の笑みには、吸い寄せられる力がある。


「ならば、それのデータ照合を約束の日までに終わらせろ、開発者」

「期待してていいよ、王サマ」


約束の日、Xデー。口に含んだ種のカスを床に吐き捨て、国王は見えない扉を開く。そこから漏れる豪勢な光は、虹色よりも艶やかだった。


「僕に全部、任せればいいんだ。ね」

「そうね」


彼女の首筋に腕を回した。




「エキノプスのアカネだ。よろしくな」

「同じくリンドウ。よろしくね」


若手を送るとは聞いていたが、まさかこのような珍妙な連中が来るとは。ビティスは目の前のポニーテールを眺め、煙を吐き出した。


「お。アンタが酔狂なビティスか。髪型オソロだな」

「……酔狂?」


老舗エキノプスから送られた監視役は三人。ポニーテールの彼と、眼帯の彼、そしてもう一人。


「姉弟ごっこに付き合う好き者。お前の外での呼ばれ方」


皮肉めいた物言い。どことなく陰鬱な少年。紫の瞳は気だるそうに部屋を見回していた。


「相変わらずの毒舌だね、リオン」


ハギが笑う。その言葉に、ビティスはボスと少年とを見比べる。ああもしかして、と顔をしかめた。


「……お前がその呼び方、やめてくれる」

「つれないな。久し振りに会えたんだ、君たちのボスには感謝をしないとね」

「必要ない」


ふいと顔を背けた先、ボスの姉が笑みを浮かべる。それにすら眉を顰め、少年はアカネの背後に隠れてしまう。背の低い彼こそが、この三人のリーダーなのだろう。


「あー、まあ、アンタらの事情はなんとなしに聞いてる。リオニーはちょいと気難しいが、なに、今回の件では気にしないさ」

「俺はめちゃくちゃ気になるが、な」


思わず言ってしまって、ボスに笑われた。なんでもこの三人は同じ父を持つらしい。同じ父、すなわち母親は違うのだ。長女のダツラ、次男のリオニー、そして三男のハギ。そう言った。どうりで似ていないものだ、と上司姉弟の謎にようやく合点がいく。こうまで血縁者が黒服にいると、彼らの父親はどこぞの親玉なのか、背筋が震えた。


「そういうわけで、まずは……リンドウ」

「私たちのボスからの書面だよ。きっと驚くんじゃあないかな」


どういう意味だ。ハギに手渡された書面を、横から覗き込んだ。主である少年の、瞳が僅かに揺れた。


「……どういうつもりだ?」


ハギを守るようにして、鉤爪を構える。彼らはくつくつと笑っていた。


「どうもこうもないさ」

「我らがボス、アスフォデルは、コモンリードとの同盟を望んでいる。さて、お返事は貰えるかな」

「……まさか、断るつもり」


三人は両腕を広げて見せた。これは真意だと、敵意は微塵もないと。自らの潔白と誠意を見せ付けるために。ハギから耳打ちされた言葉には驚いた。しかし、ボスのためならばと、彼の指をナイフで切り付ける。ポタリ、雫は書面に捺印された。


「断るなんて畏れ多い。我々はエキノプスを歓迎するよ」

「契約成立だな」


ビティスは不服だった。これではマフィアの頂点にのし上がるに時間が掛かる。同盟とは名ばかりで、ようはエキノプスの女ボスはコモンリードを支配下に置きたいのだ。そうすれば、わざわざ人員を宣言せずとも、自分たちの行動は筒抜けになる。しかし、それは連中とて同じ。ハギはにこやかに彼らを受け入れた。


返された承諾書に笑い、幼いボスの対面に腰掛ける。アカネはそのまま懐を漁ると、細かな黒い屑を机に広げた。


「同盟の見返りに、オレたちの情報を共有するぜ」

「それは……!」


何度驚かされるのか。前のめりになるのを懸命に堪え、彼は新たな仲間たちを見つめる。どこで手に入れたのか、彼らが欲しかったものを。


「……親殺しの種、か」


ボスの声は震えていた。これは動揺ではない。興奮だ。ようやく目の当たりにしたそれに、少年はひっそりと唇を舐める。ビティスも同じ。ナマモノを見るのは初めてだった。あの公安の女に寄生したチップにも、これと同じものが内蔵されている、と聞く。半年前に討伐したキメラの、動力源がこれなのだ。


「……どこで手に入れた」

「気になる?気になるよなあ」

「さっさと言え」


ケラケラと揺れるポニーテールに、苛立ちは止まない。刃を向ければ、長身の男が拳でそれを受け止めた。


「私たちは、同盟だよ。焦らなくていい。明日、君を連れていくつもりだからね」


彼が右腕か。目を配らせれば、離れたところでリオ二ーは欠伸をしていた。ここまで余裕でいられると、こちらも頭が冷える。武器を下ろし、ビティスは両手を広げた。


「連れていくったって。そんなにホイホイ取れるもんなのかよ」

「どうやらあそこは公安と繋がってるみたいでね」


彼も拳を下ろす。公安の名に、彼女が脳裏を掠めた。ああ早く、取り除いてやらねば。壁のなくなったリーダーは、ああ困ったと、情けない顔を作って首を傾げていた。


「回収し損ねた種があるんだな」


イタズラな笑みに変わる。さあどうだ、アンタの手腕を見てやろう。見え透いた魂胆に、ビティスもまた不敵に笑ってやった。

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