空みる創作少女
前田千尋
第1話 古本屋での話
天井を見ていた。
仰向けになって寝っ転がり、ぼうっと見つめる。だんだんと、天井のシミが人の顔に見えてくる。
「はあ……」
今日で何回目かわからないため息を
そうだ、今は親のもとで暮らしているのだ。つまりは何も考えず生きていても、とりあえず最低限度の生活は保障されているのである。だったら、その恩恵をありがたく頂戴し存分に利用してやろう。そうしてごろりとしながら天井を見つめるのである。
「……」
至って静かだ。自分の吐く息と、外から聞こえる僅かな電車の走行音以外は、無音といってよかった。静寂が、心に沁み込む。それが心地よかった。
「はあ……」
もはや自分はため息を吐くためだけに生まれてきたのだろうか。そう錯覚してしまう。それでも面白いかもしれない。ため息を吐くだけで人は一生を過ごしていけるのか、壮大な実験が今、始まる。
「あほか……」
自分に呆れる。明日は転校先の高校の初登校だというのに、何をやっているのだろう。きっと、他の同年代の若者は千葉にある夢の国に遊びに行ったり、アルバイトに勤しんでいたり、色々とやっているんだろうな。
僕がやっていることといえば、朝は起きてただテレビ番組を流し見し、昼間は外に出て少し近所を散歩。そして夜はこうして意味もなく天井を見つめる。
「……ニートだってこんな生活してないだろうよ」
せめてゲームとか、自分の趣味を行っているはずだ。勝手な想像だけど。しかし、僕には趣味がない。かつてはあった。他人に誇れるくらいには、どっぷりハマって造詣もそれなりにあった趣味が。けど、もうそんなのは捨てた。
捨てたんだ。
おかげで、何の彩もない灰色な生活を送っているけど。
「……」
むくりと起き上がる。べつに理由があったわけじゃない。ただずっと天井を見ているのも飽きたので、起きた。
「よっこらせ」
まるで中年男性のような声を漏らし立ち上がる。そういえば、と、あることを思い出した。まだ開けていない段ボール箱があったんじゃなかったっけ。どうせやることがないんなら、それを整理しようと思った。
僕は今月の頭くらいの時期に、この地へ引っ越してきた。
神奈川県横浜市泉区。相鉄いずみ野線がメイン路線として存在しているこの地域は、『ヨコハマ』のお洒落な港町とは違った景色を見せてくれる。泉川と境川という二つの川が流れ、その周りを林が点在している。海とビルが魅せる青と銀のコントラストと比べ、こちらはグリーンカラーが印象的だ。横浜市といっても、すべてがコンクリートのジャングルなわけじゃない。落ち着いた、緑に囲まれたところだって存在するということを、思い知らされた。
藤沢市と限りなく近いこの地域では、先述した泉川と境川が途中で合流し、そのまま相模湾へと流れ込んでいく。その付近は湘南地域であり、江ノ島が海に浮かぶ。北はヨコハマ、南は湘南とメジャースポットに挟まれた場所、そんなところである。
自分の部屋の明かりをつける。引越したマンションは狭かったけれど、父と二人で暮らすには十分にも思えた。どうせ自分なんか寝転んで自らの存在を空気に溶かせることしかしていない。
前は、東京にいたころは大きい一軒家に住んでいた。父と母の共稼ぎだったし、かつ母の稼ぎが多かったから。もう、母はいない。あの人は、家族じゃなくなった。
まあ、もうそんなのは過去のことだ。どうでもいい。それより、あったあった。これだ。
部屋の隅に、段ボール箱が放置されている。引越してきて荷物の整理はだいぶ終わっていたけれど、これだけ開封するのを忘れていた。
なんでこれだけ手つけていなかったんだっけ。そう思っていたけど、ガムテープを引きはがしフタを開けると、理由がわかった。
本が、入っていた。引越す前に大体のものは処理したが、捨てきれなかった十冊の書籍が、眠っていたのだ。小説、漫画、図鑑……一昨年まで、夢中になって読んでいたものだ。
「はあ……」
またかよ。自分でもそう思うが、今度は特大なため息だ。さっきまでのとは格が違う。
どうしようか。本棚を置く気はない。だからといって、段ボール箱に入れたまま部屋に置きっぱなしにしたくもない。本とは、完全に縁切りしたい。
「よし」
決めた。確か、近所にあったと思う。
古本屋に、売りに行こう。
本は消えるし、金はもらえるしで一石二鳥じゃないか。
実行に移さない手はない。
財布とケータイを持ち、ちょうどいい大きめの紙バッグを、廊下に置かれている引っ越し準備の残骸から見つけたので、それに本を入れ玄関に向かった。
ドアを開け、鍵を締める。春とはいえまだ夜は体感温度が低くかんじる。さっさと目的地へと行こう。そう考え、横の階段を駆け下りていった。
「ダメだねえ」
開口一番がその一言だった。
「え?」
「売れないよ、本は」
今僕がいるのは歩いて二十分ほどの場所にある、全国でチェーン店が展開されている古本屋のその地域にある店舗。その中の買い上げカウンターにて、中年男性である店員と対峙していた。
「なんで、ですか?」
「君、今何歳?」
「十五ですけど」
学生証だって出しているじゃないか。
「十八歳にならないと、物は売れないんだよ。保護者同伴だったらいいけどね」
まさか、そんな規則があったとは。親がいればいいということだけど、まだ父は仕事から帰っていないだろうし、いたとしても、今ケータイから電話して疲れた体でわざわざここまで来てもらうってのも……いかんなそれは。
「ダメ、ですかねえ」
「ダメだよお」
「それだったら、金いらないんで、引き取ってくれるだけでも」
「そういうサービスはやっておりません」
「いいじゃないですか、そこは。こっそりと」
「君声大きいよ。何がこっそりと、だ」
「お願いします。お願いします」
「君も頑固だなあ。ダメいうとるのに。また今度親と来なさい」
「……」
「君のがん飛ばしは迫力ないな」
そう言われて、さすがに諦めることにした。「わかりました。お仕事中すみませんでした」とだけ一応言っておいた。内心は「チッ、くそったれ」って思っていたけれど。心の中だったら人は何を思っても自由なのです。
買い上げカウンターの前から去って、ふと横を見る。小説の棚があった。
一瞬、胸が小さく踊った。興味が出かけて、その棚の列に行こうとする。けれど、その足はすぐに止まった。過去の記憶が、思い出されてきた。
本を読みなさい 本はね、人生を豊かにしてくれるのよ。 あら、読書感想文書いたの、見せてみなさい……駄目よこんなんじゃ、書き直し ほらね、お母さんの言うように直したら、金賞とれたじゃない! 今度はこれ読んでみなさい ちょっと待ってて、今仕事の電話しているの え、なんでこんな遅いかって? 忙しいのよ最近 うるさわね、仕事だって言ってるでしょ‼
――ごめんさない、もうあなた達とは一緒にいれない
キーンと何かがつんざくように頭に響き、頭痛が襲ってきた。最近、ずっとこうだ。過去を思い出すと、頭が痛くなる。
やめよう。
そうだ、もう本とは極力関わらない生活を送るんだ。
僕は向き直り、出口に向かって歩きだした。
目の前に、大量の本を抱えた客がいた。
文庫本からハードカバー本まで、多種多様な装丁の書籍をゆらゆらと今にも崩れそうになりながら抱えていた。ぶつかったら百パーセントやばいことになる。右肩を引っ込め、体を横にするようにして衝突を回避した。
ふう。よかった、ぶつからずに済んで。あんなに買うなんてよっぽどの本好きだな。過去の自分でもあそこまではさすがにしない。
結局、売ろうとした本はそのまま全部持って帰ることになってしまったが、仕方ない。おっちゃん店員の言う通り、後日父と一緒に行こう――
どさどさっ
嫌な予感がする音が耳に届いた。振り返ると、案の定支えきれなくなって崩れた何冊もの本が床に散らばっていた。落とした客が慌てて拾おうとする姿が見える。だが、落ちた本に手を伸ばすとさらに手から残りの本が崩れ落ち、ひどいことになっていた。
僕は辺りを見回してみる。店員は先ほどのおっちゃんは見当たらず、若い店員――たぶん大学生のバイトだろうか――が一人、棚の整理に夢中になっていて、困っている客の存在には気付いていないようだった。
他の客は読書に集中。きっちりはしているけど親切ではない。そんな日本人の様がよく現れているなあ、そう思った。
まだ本を全部拾い切れていなかった。見たところ自分と同年代の女子だ。にしてもなんであんなに買い込もうとしているんだろう。あれだけ買ったら、こうなることくらい予想はつくだろうに。
「はあ……」
ため息ついたけどもう何も思うところはない。僕は出口に向かっていた足を、店内側へと向きなおした。
彼女のもとまで近づき膝を曲げる。
「あ、すみません」
床の本は全部拾い、もう三冊くらいこっちに寄越してくれと伝えたのだが。
「いいですよ。自分で持ちます」
彼女は断った。しかし、僕は言った。
「また落としますよ」
「……でも、申し訳ない」
「気にしないでください。善意ではなくて、単に気になるから手伝ってるだけなんで」
そう伝え直すと、彼女は。
「すみません……じゃあ、お言葉に甘えます」
そう述べて、僕に本を寄越してくれた。五冊ほど。
「……」
僕の両手は本で一杯になり、彼女は残った三冊の本を余裕のある手でしっかりと持っていた。
まあ、持つって言ったのは自分だからな……
何も言わず、彼女と一緒にレジに向かった。
「ありがとうございました」
そう言いながら彼女は店前の自販機でかったペットボトル飲料を僕に差し出した。「お礼です」とのことで、ありがたくごちそうになった。250mlのミルクティー。僕の好きな午前茶の方だ。
「その本、全部読むんですか」
思わず訊いてみると、「それはそうですよ」と返された。
「好きなんですね、本」
「はい、大好きです!」
彼女は途端に目を輝かせた。
「私、物語が好きで好きでたまらなくって、あ、自分でも少し書いてたりするんですけど、とにかく読むのも書くのも好きで、それに今はたくさん読まなくっちゃいけなくて、大変だけどまたそれが――」
よくもまあこんなにぺらぺらと喋れるもんだと感心した。息継ぎもしていないと感じるくらい、彼女は物語への情熱を一気に語った。
しかしその直後、ふとよみがえった記憶があった。
そうだ、自分もかつてはこうだったじゃないか。
読んだ本の感想を誰かにいつも聞かせていた。友人や先生、そして父、母に。今はもう、そんなことは完全にしなくなってしまったけど。
人は誰だって他人と好きなものを分かち合いたい。感動が共有できればそれほど嬉しいことはない。だから趣味や好きなことに熱弁をふるう。魅力を発信したいから。
自分も、そんな人間だったのだ。
「あなたは、好きですか? 本」
僕の顔を覗き込むようにして訊いてきた。女子の顔が間近にあって、少したじろぐ。
「……い、今は、そんなに。今日も、売るためにここに来ましたし」
まあ、無理って言われちゃいましたけど。そう言うと、彼女はまるでご馳走を目の前にした子供のように僕の紙袋をまじまじと見つめてきた。
「あのう、でしたらその本」
「持てるんですか? 無理でしょ」
彼女は自分がすでに持っている、大量購入した古本が詰まっている袋を見つめた。そしてもう一度僕の紙袋に視線を移す。
「イケます!」
「無茶すんなっ!」
出会って三十分も経っていない相手に向かってツッコんだのは初めてだった。
「あ、すみません」
「いいですよ、気にしないでください。そうですよねー、明らかに無理ですよねー」
彼女は後頭部を掻く仕草をした。何だか面白くて、可愛らしい人だな。
いつの間にか胸がすっと晴れていた、そんな気がした。
その後、彼女とはしばらく会話して別れた。重たそうな袋を両手で抱くようにして持ち、去っていった。
ズボンのポケットが震えた。ケータイに父からの電話だった。
「もしもし」
『お、
「古本屋にいる。ごめん父さん、すぐ戻るよ」
『おう、そうかそうか。いや、どこにいるんかなって思って。焦らず帰ってこい』
僕はケータイを折りたたむ。ポケットにしまい、歩きだした。
夜風が優しく僕の頬にあたる。明るすぎず暗すぎない、そんな街中の道路横の歩道をゆっくりと歩いた。
これが、僕と
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