2話 森の聖堂、草原の獣

ヴェンタス国の首都ヴィーンは、検問所を巨大な柵で囲まれている。そこを抜ければ辺り一面は緑で覆い尽くされており、そよ風が草を揺らして小さな花を踊らせた。この国が風の国と異名を打たれる由縁はここにある。果てしなく続く平原は、山に隔てられることもなく、数マイル離れた海から入り込む爽やかな風が我が物顔で駆け抜ける。野生の小動物や馬などは、穏やかな気候に警戒なく昼寝すらしているようだ。拓けた大空を見上げれば、大きな飛行船が風に流れていった。


「国が船を用意してくれれば良いものをねぇ」

「王様の密命ってやつなんだろ? 仕方ないよ」


後を歩く支援一座の二人は呑気に外気を楽しんでいるが、少年は心穏やかではなかった。

あの後、母だけでなく国王にまで念を押されたのだ。この二人を連れることで、任務の効率も上がるだろう、と。余計なお世話だと心の中で唾を吐く。一人の方が、自由に動け、敵の目を欺くことも容易なのだ。そうだというのに、頼りない男と細腕の少女を引率するなどと。何度考えても、苛立ちが止まなかった。


「……いいか、陛下と閣下のご命令で仕方なく同行を許可しているだけだ。足でまといだと判断したら、すぐさま切り捨てる」

「大丈夫! こう見えておれ、腕っ節には自信があるんだ!」


皮肉も通じない。屈託なく笑う顔に、返してやる言葉はない。男はそうであれ、少女は嫌味を嘲笑してその耳飾りを光らせた。


「あなた、国外への遠征はしたことあるの? ツテは? 私たちと一緒なら、何かと便利なものよ」

「必要ない」

「は〜、そればっかりね」


呆れ、途端に少女は興味を外へと移す。彼女が辺りを見回す中、呑気な相棒はこちらと目を合わせようともしない少年の隣へと躍り出た。


「なあ、オルグロってファミリーネームだよな? 聖騎士せいきしはファミリーネームが名刺になるって聞いたことあるけど……名前は何ていうんだ?」


少年は答えない。毛嫌いしている名を、この先に何も望まない相手に教える義理など、少年にはないからだ。むしろこれは不要な会話だと、断固として口をつぐむ。しかし男はそんなことに動じはしなかった。


「オルグロって呼ぶのはちょっとよそよそしいだろ? おれのことはカリトって呼んでほしいな!」


ため息は自然と零れた。どれだけ離そうとも、この男は無理矢理に距離を詰めようとする。それだけで、不快感は最高潮だった。それを知ってか知らずか、大人びた少女はカリトを小突く。


「聖騎士サマは下々に名前を明かしたくないんですって。あんまりしつこくしてると斬られるわよ」

「え、そうなのか? んー、じゃあオルグロって呼ぶよ! これからよろしくな!」


満面の笑みと同時に、大きな手が少年に向けられた。この男は本当に。ふいと身体ごと顔を逸らしてしまえば、行き場のなくなった手のひらの持ち主は、ゆっくりと首を傾けた。


「貴様らはいわば、下僕だ。意見は必要ない。どうしてもついて来たいのであれば、僕の行く道を辿れ」


そう述べてしまえば、どこか胸が空く気がした。カリトのような鳥頭であれど、この言葉の意味は理解が易いだろう。手のひらに収まる端末を眺めてから、そのまま真っ直ぐと進み出すが、しかし、着いてくる気配のない二人に、少年はまた振り返ることを余儀なくされた。


「おい、来るのか来ないのか、どっちなんだ」

「あら、待ってくれるのね。お優しい聖騎士様だこと。でもね、聖堂はあっちよ」


細い指で示されたのは、少年の体とは反対の方角。


「私たちが一緒で、良かったわねぇ?」


皮肉に対する挑発が向けられる。わなわなと震える拳をそのままに、少年は二人の間を無理矢理に斬った。



・・・



深い森は不自然に静まり返っていた。もともと人の寄り付かない地ではあるが、虫や小動物の鳴き声すらも聞こえない。この先に聖堂があるためか、やけに神々しい光が空から降り注いでいる。足に絡み付く雑草を蹴り分けて、オロファは鼻の息を押し出した。


「この辺りを縄張りにしている魔物がいたわよね」

「ガルムのことか。それならば既に掃討している」


ガルム。狼よりも大きなからだを持つ、犬型の凶暴な魔獣だ。人を襲い、動物を喰らう脅威とされる連中は、餌のためにヴィーン近郊まで侵略を進めていた。そのため、掃討令が放たれたのだ。少年が聖騎士となり得た任務の一つでもある。鋭利な牙を持とうとも、所詮は家畜の変体。ジグルド騎士団の前では、子犬も同然だった。


「じゃああなた、この森に来たことがあったの? それなのに道がわからないだなんて、よほどの方向音痴なのねぇ」

「……たまたまだ。たまたま道を見誤っただけだ。それに、この森に来たのは今日が初めてだ」

「そうなのか?」


カリトが素っ頓狂な声を上げる。静寂の森に響くようで、少年は睨みつけるが、男はそのままの調子で木々を見回していた。


「ガルムとは何回か戦ったことあるけど、あいつらは普通、こういう森の中を住処にしてるみたいなんだ。森と生きてるって言うのかな。だから、草原とかで狩りをしたあとも、絶対に森に帰る。そこで仲間たちと暮らしてるんだよ」

「……やけに詳しいな」

「へへ、おれさ、動物が好きなんだ! このフィルムにもいっぱい撮ってあるよ! ほら!」


少年の前に突き付けられた黒いフィルムには、うっすらと動物の群れが映し出されていた。木々を縫う光に照らせばそれは色付き、黒い獣が浮かび上がる。胸元に赤い印が滲む毛皮、これがガルムだ。


「ガルムの中でもひときわ身体の大きいのがいるだろ? これはフェンリルって呼ばれてるんだ。ガルムの群れをまとめる、ガルムたち魔狼まろうの王様みたいなものだよ」


灰色の毛皮に身を包み、ガルムたちを見守る巨狼。他のものと同じく、胸元の赤い印はあるが、それにしても際立つ色と大きさだ。


「他国の獣はわからん。魔獣の生活など興味ない」


フィルムを突き返せば、それは撮影機の中へ溶けるように収納されていった。もう少し魔獣の生態系について語りたかったのか、撮影機をいじりながら、カリトは唇を尖らせる。


「この辺りのガルムの群れにもいただろ? フェンリルはガルムのプライド、その最高峰。その群れの中で一番強いやつが、進化を遂げるんだ」

「なに……?」

「まさか、見てないの?」


その時だった。静寂は、突如巻き上がった旋風によって打ち破られる。木の枝、ちぎれた草が天に舞い上がり、そして彼らの頭上に降り注いだ。


「これは、塵旋風じんせんぷう……! ガルム特有の狩猟術だよ!」

「聖騎士ともあろう者が、まさか親玉を捕り逃していただなんてね!」

「チッ……」


直後、風は荒ぶり、カマイタチが三人に襲いかかった。目を凝らして見れば、風の塊の中に獣の牙が見える。あれはガルムの群れそのものなのだ。その神速で風を起こし、辺りを取り囲むことによって目の錯覚を引き起こす。魔獣とは時に頭の冴える生き物だ。


「一掃する。貴様ら、武器はあるだろうな」

「うん!」

「任せなさい」


カリトは大剣を、オロファは手のひらを打ち合わせる。


「……貴様は、拳闘士なのか?」


そのなりで、と訝しむ少年に、少女は鼻を鳴らすとその手のひらを風の塊に掲げてみせた。


「そんな野蛮なことはしないわよ。見てなさい」


彼女がそう囁いた刹那、何だか得体の知れない感覚を覚えた。視界が不自然に蠢くような、思わず身震いを誘われるような、冷たい陽炎が、そこに何かがあると告げている。


「これは、まさか――!」


見覚えなどない。しかし、確かに少年はそれを知っている。不可思議な現象、超常事象、これは紛れもない。


雪泥鴻爪せつでいこうそう、凍え散りなさい――!」


少女の頬に、青い文様が貼り付き、光を放つ。光は氷のつぶてと化し、そうして激しい竜巻を繰り広げた。まるでそれは氷のドラゴン。

少年は呆然と立ち尽くしていた。構えた剣を振るうことも忘れ、ただ静かに拳を握る。まるで時が止まったかのように。氷の竜巻は魔獣を飲み込み、空へと登っていった。目の当たりにするのは初めてだった。いや、目の当たりにするはずがないのだ。古代に伝わる、未知の力。天使が持つその力は無力な人間を圧倒し、大戦を困難に陥れた。その奇跡とも呼ばれる力は時として崇められ、畏れられる。彼女はそれを平然とやってのけたのだ。少年が触れることも許されていなかった、ノールクォーツの模造品で。


「魔術を見るのは初めてかしら? おばあちゃん直伝、氷魔術よ」


短い髪が、するりと一本抜け落ちた。それにつられるように、頬の文様は流れて消え失せた。耳に光る、模造品のイヤリングに吸い込まれるかのようにして。


「……貴様は魔女か」

「あら、そのフレーズ気に入ったわ」


戯ける様子もますます魔女らしい。今の魔術で群れの殆どは退けたらしい。残りの数体を睨み付ければ、視界の端で男がその大剣を振り回していた。


「うぉらあッ!」


思わず少年の顔が引き攣る。穏やかな男だと認識していたが、彼はどうにも人格の差が激しいらしい。嬉嬉として魔獣の体液を浴びる様は、どう見ても戦闘狂だ。胸の撮影機が乱雑に踊る。動物が好きなのではなかったのか。そんな言葉を飲み込んで、少年も剣を構えた。


ジグルド騎士団の型は一風変わっている、と言われる。細剣の切っ先を獲物に向け、左足を軸に――もっとも、オルグロは左利きのため、軸も左なだけで、他の団員は右足を出していたが――前傾姿勢を取る。右利きの矯正をしなかったのは、彼が特別である証だ。そうしてから右足で地を蹴れば、すぐさま対象の間合いへ潜り込むことができる。魔獣とて、間合いに入れば人と同じだった。


「はあッ!」


左腕の振りかぶりには、誰もが不慣れだ。その虚を突く戦法が、少年の常套手段。思わず退いた魔獣の毛皮を、その腕を振り下ろすことで剥ぎ、鋭利な牙をたくわえた顎を狙う。鮮やかな剣さばきは、紛れもない、彼の実力だ。


「すごい……」


自身の持ち場を終えたのか、穏やかさを取り戻した男は、目を輝かせて少年を見つめていた。魔獣の体液を振り払い、男に向けて息を吐き出す。


「残りは」

「オロファが魔術でやっつけてくれたよ!」

「そうか」


安堵の息が漏れて、思わず少年は口を塞いだ。危うく気を許すところだった。


「――下がってッ!」


二人を割く、少女の悲鳴。咄嗟に身を引くが足が縺れた。体勢を崩した少年の腕を引き、男はその場に倒れ込む。その眼前には灰色の毛皮。


「フェンリル……ッ!」


少年は歯を食いしばった。自分に覆いかぶさる男は頭を腕で守っている。巨躯の獣の牙は、そんなもので防げるはずがないだろう。一瞬のことで腕は動かない。思考は巡ることを止めやしないが、自ずと瞼は固く閉じられた。


こんなところで、誰かを盾にして、自分の取り残しのために、――終われるか!


突如銃声が空を割る。短い叫声は、獣の鳴き声だ。思わず目を見開けば、同じくした男と視線が合致した。


「……」


遠のく足音を聴きながら、誰もが静まり返る。何だ、何が起きたのだ。


「魔獣相手に油断してんじゃねえよ」


荒々しい言葉だが、女の声だった。乱暴な言葉がその声音にアンバランスな声。オロファではない。噎せ返るような埃を帯びた香りが漂う。


「あっ……!」


慌てて飛び退いた男の視線を追った。今しがた木の上から飛び降りたらしい女は、未だ煙を上げる双銃を腕のホルダーに取り付けながら、卑しく笑みを浮かべていた。その様相に、まさかと顔を顰める。黒いローブは腰で割かれているが、白いベールに施された刺繍は、まさしくヴェンタスの国章だった。つまり、あれは国の人間、むしろその最高峰機関である教会の人間なのだ。しかし、先に目を見張っていた男は、違う意味で声を上げたらしく、わなわなと拳を震わせていた。


「きみ、もしかして…… 時詠ときよみのリベラ……!?」

「やべ」


リベラと呼ばれた女は、短く舌を出すと、そのベールで顔を覆う。しかしそれももう遅い。興奮を隠しきれないカリトは彼女に駆け寄ると、四方から何度も彼女の顔を覗き込んだ。


「……時詠み?」

「時詠みを知らないの!?」


少年の呟きが聞こえたらしい。男はその目を輝かせると、女の前に膝を付き、まるでどこぞの芸人のように両腕を彼女に開いて見せた。


「ヴェンタス国が誇る、奇跡の時詠みだよ! リベラが告げる時報は、まるで天使の再臨だなんて言われるほどに澄んでいて心地が良いんだ! 彼女がいたからジグルド教会の名声は世界中に届くようになったんだよ! おれの国でも、リベラのリサイタルが放映されて、その時からもうおれファンなんだ今朝の時報もすごく良かったし、リベラが読む『約束の刻やくそくのとき』がないと、一日が始まらないんだよなぁ……!」

「よせやぃ、照れるやぃ」

「でもまさかこんなにガサツだったなんて……」

「おい、撃つぞ」


映写機越しでしか知らないからなぁ、と落胆する男の襟首を掴みあげ、女はまた乱暴に拳銃を抜く。その騒がしさに少年はまた深く息を吐き出し、眉間に皺を刻んだ。カリトの言うように、『約束の刻』たる毎日の時報を思い出せば、どことなくその声には聞き覚えがある。しかし、その清廉なイメージとは、これまたカリトと同じように懸け隔てが大きい。しかし、リベラ、その名には覚えがなかった。


「教会従事者なのに、あなたはこんな有名人も知らないのね。ま、私も興味ないんだけど」

「……僕は宣教には関わっていない。騎士であるだけだ」

「騎士…… ってことはアンタがもしかして!」


今度はリベラが食いつく番だった。カリトを投げ捨て少年へと駆け寄ると、その聖騎士たるマントをおもむろに掴んだ。


「触るな」

「アンタが聖騎士オルグロか! 閣下から話は聞いてるぜ」


弾かれた手のひらをヒラヒラと振りながら、ベールの下の無造作な蘇芳色の髪が跳ねる。それと同時に弾けた醇美な薫りが気に障り、少年はふいと視線を外した。


「ダーイン聖堂のシスターか。丁度いい、案内しろ」


これでもう道に迷うことはない。安堵の息を吐き出した魔女を横目に睨みつける。ケラケラと笑う女の高い声が、彼の苛立ちを加速させた。



・・・



背の高い針葉樹に覆われたそこは、まるで人世を遮断するかのように、切り詰める空気が流れていた。草木の香りとはまた違った薫り。人工の香炉こうろか。ノールの模型によく似た、丸い炉からは細い煙が立ち込める。そこから発せられるなんともくぐもった薫りは、先程シスターがまとっていたものと同じものだ。これがより一層、ここを異世界へと駆り立てる。


「これ……教皇さんもこの匂いがしてたよね。なんの香り?」

「アビエスだよ」

「アビエス? って、木だよな。そのへんに生えてるアレと同じ?」

「ああそうさ。アイツはいぶせば芳醇な香木になる。時を詠むのを助けてくれる優れものなんだ」


時を詠む。その言葉に、男の目が輝く。やり取りを横目に息を吐き出し、少年は聖域を見回した。ジグルド騎士団に属しながらも、この聖地へは赴いたことがない。何故今まで訪れたことがなかったのか、そう疑問に思うほどに、ダーインは母の刻印に塗れていた。ここは確かに、ジグルド教会の聖域なのだ。あの香もそう。視覚化できるほどに燻された薫りは、母を取り巻くそれによく似ていた。


「おい、書庫はどこだ」


まるで母に監視されているようだ。この空間は母そのもの。早く立ち去ってしまいたい。成果を見せつけるならばまだしも、未だ何も始まってなどいないのだから。


「へーへー、せっかちだなあ。封鎖された集会堂の奥にある。こっちだよ」


もっとも、書庫とてそれは同じなのだろうが。




「えーっと、ノールに関する書物はーっと……」


見下ろす書架は、壁を、天井を覆っていた。最上段まで20ヤードはあるだろう。見上げる女は稼働式の梯子を動かし、それをわざわざ上って探していた。古典的だ。


「……驚いた」


下段を眺めていたオロファが思わずと漏らす。相棒の様子にカリトは首を傾げるが、彼女はひとつを手に取ると息を吐き出した。


「これ。なんて書いてあるかわかる?」

「も、文字くらいは読めるよ……えーっと、『ドーンの96日』? それが、どうしたの?」

「おー、よく見つけたなー」


上から声が降る。目当てのものが見つかったのか、野蛮なシスターは梯子の中腹から飛び降りる。


「……どうもこうもないわよ。ジグルド教会は天使の文献しか置いてないものだと思ったわ」

「歴史的蔵書は全て保管してるさ。ウチは本なんて読まねえから知らんが、ドーンってのはなんだっけ?」


会話を耳に、オルグロは端末でその単語をサーチする。エラーが表示された。


「……ふうん。外には漏らさないってわけ」

「どういう意味だ」


エラーの通知音は煩わしい。強制的に閉じ込めれば、鼻で笑う少女を睨み付けた。


「これは人間の救世主の名よ。天使が現れるよりも前の、ね」


人間の救世主。少女の言い方には含みが感じられる。


「天使よりも前? へえ、じゃあすごく貴重なんだね」

「そこじゃないわよ。ジグルド教会がこれを持っていることに驚いたの。グズルーンならまだしも、人間は天使の敵よ。それ以上にドーンは……いいえ、今はそんな話じゃあなかったわね」

「なんだよ、気になるだろ」


天使の存在がこの世から消え去ったのは、古代の大戦が起因する。人と天使の争い。平和のため、博愛の天使は人の浅ましさにその血を染めた。と、オルグロは幼少から習っている。促された少女は続ける。


「ドーンがいたから、天使は生まれた。ドーンへの恨みと憎しみ、復讐のために」


表情を曇らせ、イヤリングを握る彼女の感情が不可解だった。まるで伝承をその目で見てきたかのように。


「なんだよ、天使が悪役みてぇじゃねえの」

「だから、ジグルド教会は間違ってるって言ってるのよ」


異端者の言葉とシスターの声音が怒気を帯びる。野蛮なシスターだが、やはり信仰はしているらしい。これ以上は、押し問答だ。


「……ノール封印の手立てはどこだ」


空気を変えるのは得意ではない。しかし、急く思いだけで言葉を投げた。渋々視線を外したシスターは、抱えた分厚い書物を広げる。埃臭い、薄汚れた蔵書だ。


「『オフィセル・ノール・クォーツ』……か? 言葉の意味はわからんが、ノールについて書いてあんのはこれだけだ。閣下が言ってんのも、これだと思うぜ」


乱雑に開かれたページには、まさにノールの全体図が描き出されていた。細かく矢印が横へと伸び、各部の説明が加えられている。取扱説明書とでもいうのか。


「貸せ」


知りたいことはそれでない。押し退けてページを捲り、目まぐるしく視線を動かす。封印、その文字が、見当たらない。しかし、ある一節に、思わず言葉が漏れた。


「……時をその身に宿し、約束のつるぎが五つの時を得るとき、約束の地にてノールは再び……」


そこで読むことを辞める。


「再び?」


耳を澄ませていたカリトの促しに、少年は首を横に振った。書いていないのではない、掠れて消えているのだ。古書にはよくある。


「でもそこが一番それっぽいな」


シスターが唸る。他のページへ目をやるが、彼女の言葉には頷けた。


「約束の剣……ここでも反天使項目が出てくるのね」


今度はオロファだ。反天使項目とは即ち、古代の人間を言いたいのだろう。


「約束の剣って?」

「古代の大戦で、天使と争った陸軍のその元帥、コンラット・デオラクスが用いた剣のことよ。天使の魔術を諸共せず、半透明な氷の剣は戦争を終わらせたと言われているわ」

「氷の剣ィ? それこそ魔術みてぇじゃねえか」


コンラット・デオラクス。ジグルド教会の教本でも名前は上がる。天使サイドからすれば、最大の仇であり、反する英雄信仰からすれば、まさしく人類の希望である。天使の長たる熾天使と、その血を分かって倒れた軍人。英才教育によって根付いたオルグロの知識では、卑劣な俗人といった印象である。しかし、天使と相反する元帥の愛用品が必要となれば、天使の力たるノールの封印には納得がいった。そこまで思考したとき、いぶかしんでいたシスターは再びあっと声を張り上げた。


「待てよ、氷の剣……もしかして」

「知っているのか」

「前に巡礼の一環でな、天使の墓に行ったんだよ。そのとき確か、氷の塊が中央にあったんだ。なんでこんなところにーって思ったんだよなあ」

「天使の墓……」


それもシグルド教会の管理下か。騎士団として、宗教事業とは隔壁された任に就いていた少年は知り得ない。彼女の言葉に、反天使派の少女は唸り声を零した。


「コンラットが関わっているなら、行ってみる価値はありそうね」


決まりだ。蔵書を閉じ、それを手近なテーブルへ置く。剣を握り直して扉へと体を向けた少年を見て、シスターはまた慌てて声を挙げた。


「まあ、待てって。墓場にそれはあるかもしれねえが、あそこは今ちょっと厄介なんだよ」

「厄介って?」

「さっきの魔物、フェンリルだっけか? アイツがそこに居着いてんだよ」


ちょうどいい。オルグロは笑う。先程は油断した。しかし、取りこぼしを同時に屠ることができるのだ。これ以上ない好機だ。


「案内しろ」


それだけを告げてやれば、女は苦笑してひらひらと手のひらを返した。


「……わーったよ。ここから南西に3マイル、レヴァーテ洞窟に宝は眠るってな!」

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