女神の審判

高城 真言

序章 罪咎

0話 陸軍中佐、神樹の森にて

陸軍は苦戦を強いられていた。今や、人々が自由に使える土地は一つしかない。氷の大地、クエビテラ。それを囲う海、そしてその先にある異大陸は、既に敵の手に堕ちた。敵、即ち天使。天使は時の女神の加護のもと、純白の翼で宙を舞い、人間では扱うことのできない魔力を操る。そして降伏を余儀なくされた人間たちを隷属させることで、空と海とを支配していた。真っ白な雪に包まれた極寒の地で、残された人間たちは空を仰ぐ。厚い吹雪の隙間から見える僅かな太陽の光だけが、彼らの希望だった。最早、最後の土地が奪われるのも時間の問題。人々は絶望していた。その絶望が、天使たちの喜びだとも知らずに。しかし、永久に続くかと思われた人間の衰退に、一筋の光が差し込む。


女神が突如として天に消え去ったのだ。


女神の加護を失った天使たちは混乱し、魔力の制御にも乱れが生じ始めた。そのほつれを見逃さない男がいた。残留陸軍元帥コンラット・デオラクスだ。彼は決して天使に屈することをよしとせず、その鋭く冷たい闘志は天使幹部の翼を凍てつかせたとまで言われる。そして彼は、予てから信頼を置く仲間達と共に、天使の園エリュシオンへの進軍を目論んでいた。しかし、元帥コンラットは無謀なことはしない。エリュシオンには天使たちの頂点に君臨する、熾天使ネゼルヴァが待ち構えているのだ。ネゼルヴァの魔力は強大だ。彼一人で人間たちを追い込んだと言っても過言ではない。そして、そんなネゼルヴァや天使たちの魔力の根源は、天使の石と呼ばれる、魔力の素ティッドを含んだ宝石だ。その宝石に抗うためには、ティッドを抑え込むための集積装置が必要となる。

コンラットの妹、レガット・デオラクスは天才的な発明家であり、また科学者であり、考古学者でもあった。彼女の指揮のもと、研究者たちはティッド集積装置の製造に精を出した。しかし集積装置完成のためには、特別な鉱石が必要だった。天使の石と対に存在する、カナンの石。天使を断罪するために最古の神が産み落としたとされる、対魔力鉱石だ。クエビテラの霊峰にのみ存在すると言われており、それが存在するために天使は未だクエビテラを手に掛けられないのだとも。

霊峰へは何度も捜索隊が派遣された。しかし、行けども人間たちは、深く神秘的な霊峰を前に不思議な力によって追い返されてしまう。そこで、そういった造詣の深い人間が改めて選出された。残留陸軍に属する研究者たちだ。普段は家屋に引きこもり、書物ばかりを睨みつける人間たちを動かすのは至難の業だった。そんな彼らを引率するのは、同じく研究者であり研究筆頭であるレガットと、そしてアイータだった。


アイータ・エックス。女性のような名であるが、れっきとした男である。彼はレガットの幼馴染であり、親友であり、部下であった。そして、元帥コンラットの許嫁の弟でもある。しかし冴えないのは、親友が天才的であり、姉は元帥の許嫁且つ軍の幹部であるために、その陰に隠れてしまっているからだろう。ファミリーネームを表すエックスマンは、古来の家柄である。だというのに、片一方の彼には日も当たらない。だが、アイータにとってそんなことはどうでもよかった。未知の土地へと赴ける探究心が、彼の関心を占拠していたのだ。天使に対しても、彼は他とは違った興味を抱いている。その生態がどういったものなのか、人間との違いは何かという、これまた探究心だ。


道すがら、気怠そうに作戦を説明するレガットを横目に、アイータは霊峰の裾に広がる深い森にその紅蓮の瞳を奪われていた。


「アイータ……聞いてんの?」


レガットが溜息混じりに彼を見れば、揃いの軍服をまとう研究者たちは目を見開く。研究者たちはアイータのことを知らない。反して、レガットは研究者たちにとって羨望こそ不明だが、有名すぎるほどの有名人だった。残留陸軍元帥の妹であり、常人で考えられない突飛すぎるが的確な研究を成就させる天才的な野蛮人。それが彼女の称号だ。そんな彼女がアイータの名前を呼び、そしてそれに対して彼は笑って軽く受け流している。驚愕するには、充分すぎる状況だった。


「ごめんごめん。なんだった?」

「何回も説明したくないんだけど。ま、いいわ」


目を丸くしたままの研究者たちを見回して、レガットは咳払いを落とす。細められた瞳は、兄である元帥によく似ていた。


「いい? 何度も言うようだけれど、霊峰を取り巻く神樹しんじゅの森は何度も捜索隊が押し返されるほどに、おそらくティッドがうごめいているの。遭難した人もいるって話よ。けれど、ティッドがあるということはそれを餌にするカナンの石が存在する証明にもなる。これはチャンスなのよ。天使のアホ共に泡吹かせるためにも、とっとと探し出すわよ!」


研究者たちの恐怖と歓喜が入り混じった悲鳴が上がる。神樹の森。世界樹とも呼ばれる細く長い木々が深く生い茂るこの森は、きっと大昔から存在している。しかし、その神秘さの中に潜む狂気が、これまで人を寄り付かせないでいたのだ。研究者たちの間では、そんなことは常識だった。そこへ今から乗り込む。探究心や好奇心を持つ者は歓声を、保身一心の者は悲鳴を上げる。当たり前のことだった。


「んで、知っての通り今夜はダスクだし、一個部隊で探してたららちが明かない。夜に飲み込まれかねないからね。何個か小隊を設けるわ。まずは私をリーダーとする部隊ね。ま、私についてくれば迷うなんてことはまずないから安心なさい。それから、ベック・トキスの部隊と……」


次々と部隊を仕切る為のリーダーが名指しされていく。研究者であれば一度は聞いたことのある名ばかりだ。それほどまでに、殆どの研究者たちがここに招集されているのだ。


「最後に、アイータ・エックスの部隊ね」

「ん? 俺?」


また一つどよめく。アイータとしても、これは想定外だった。彼は研究者の中で秀でているわけではなく、軍の階級もさほど上に立っているわけではない。おそらく、この中には彼よりも上級の者がいるだろう。しかし、幼馴染の頼みならば、断る理由はなかった。


「赤い瞳のエックスマン……? まさか、アストレア中将の……!」


先とは違う困惑した声が聞こえた。視線が痛い。アストレアは彼の姉の名だ。その美貌と包容力が相まって、陸軍の女神とも呼ばれる女性。俄然がぜん、研究者たちのアイータを見る目が変わった。


「ふう……」


比べられることには慣れている。というよりも、それすらもどうでもよかった。今は目の前に聳える山に対する興味しかない。アストレアの名前に釣られてか、アイータの部隊を志願した男たちを引き連れ、彼は誰よりも早く奇妙な森の中へと進んでいった。




神樹からはくぐもった甘い香りが漂っていた。こんな雪の中にありながら生息する不思議な昆虫も多く、まるでこの空間だけが世間から取り残されているようだ。目新しいものを見つけると、その都度アイータは足を止めるが、研究者たちはアストレア効果もあってか彼の奇行に口出しをしない。それはそれでつまらなく感じるアイータだったが、しかし、彼らをいないものと考えれば造作は無い。ふんふんと鼻唄を刻みながら、樹から樹へと視線を動かせば、今度は奇妙な花も見つけた。花からはとめどなく蜜が流れ出しており、そこにはまた大小様々な昆虫たちが群がっていた。


「全部が全部、未発見のものばかり……研究者ばかり集まっていると、争奪戦すら起こりそうだね」

「い、いやいや! 我が部隊が発見したものは、すべて中佐にお譲りしますよ!」

「おや、いいのかい? それならばこのおかしな虫は、イクスアームと名付けよう」


中佐。アイータの軍階級のそれであるが、その称号で呼ばれることは慣れていない。中佐という階級を持ちながら、彼は部下を取ったことがないのだ。だから大佐であるレガットの下に就いている。


「え、ええ……で、ですから、あの、アストレア中将のことを少しお聞きしたいなあ……なんて」


ああ、これか。と、アイータは息を吐き出す。昔から姉は人に好かれ、特に男性のファンは後を絶たなかった。その度にアイータはその取り巻きたちに質問責めにされる。煩わしいが、姉が好かれていることは誇らしかった。姉がそれを迷惑に思っておらず、喜んでいるのであれば、だが。


「何が聞きたいんだい?」

「あ、ええと……お、お好きな食べ物とか……」


有り勝ちな質問だ。面白くない。適当に答えてやれば、それだけで男たちは歓声を上げていた。人間は単純で、面白くない。もしかしたら、自分は天使なのかもしれない、などと自嘲しては幼馴染に呆れられていたことをふと思い出し、アイータは噴き出した。


「あ、あの……?」

「ああ、ごめんね、なんでもないよ」


そう、彼らには関係の無いことだ。彼らには興味すら沸かない。目の前の神樹を撫で、目線を上へと移すと、摩天楼のような霊峰が目に留まった。そうだ、今からあそこに行くんだ。興味はあれに注いでいればいい。頭を左右に振って、一歩踏み出したとき、突如背後で悲鳴が上がった。


「ガ、ガンドだッ!」


声のほうを見れば、研究者の一人が尻餅を付き、わなわなと震え上がっていた。指差す先には、白い鱗で覆われた大きな物体。彼らよりも頭二つほど大きなそれは、鱗に埋もれる小さな目を光らせ、人間たちを見下ろしている。


「森のガンド……か」


腰に据えていた剣を抜きながら、アイータは呟く。他の研究者たちは、武器こそ装備しているものの、それは飾りのようで、どうやらこのモンスターに立ち向かえるのは彼だけらしい。充分だ、と口角が上がった。


「近頃運動をしていなかったからね。レガットに叱られていたところなんだ。運動不足解消に、付き合ってもらうよ」


男達の間を蹴り、大蛇の懐へと飛び込む。風圧で誰かの帽子が飛ばされたが、そんなことを気にしている暇はない。剣を横に寝かせ、払うように振り切れば、剣先から斬撃が飛んだ。


「はあッ!」


大蛇の腹部をそれは滑り、硬い鱗を引き裂いた。その光景に、研究者たちが「おお」と声を上げる。すぐさまアイータは次の手のために後ろへ飛べば、そばにいた研究者にぶつかった。


「邪魔だよ」

「す、すみません!」


大蛇の大きな尾が振りかぶる。咄嗟に剣で受け止め、アイータは溜息を吐き出した。


「運動はすべきだろうけど、俺は早く霊峰の頂に辿り着きたいんだよね」


そのまま尾を弾き返せば、剣先を大蛇に突きつけ突進する。衝撃で大蛇が倒れたのを見て、アイータは剣をまた横に寝かせた。しかし、今度はそれを動かすことはせずに、手のひらをかざす。


「森の主には、炎が良いかな? さて……」


まるで宙を滑るようにして、ざわざわと肌を走る何か。それはある、と五感が訴えようとも、脳は全く知覚していない。しかし、男は確かに握りしめた。あっ、と研究者たちの視覚が捉える。軍の長衣を揺らす剣士の手の甲、その青白いパレットに赤い文様が浮かび上がったのだ。


「燃えろ――」

「!」


小さな破裂音。それと同時に、剣から小さな炎が滲み出し、小型爆弾のようにして大蛇へと放り込まれた。その巨躯を瞬間的に包み込み、そして消失する。アイータから発せられたのか。研究者たちは大蛇が消失した焦げ跡と目の前の男とを見比べ、震え上がる。


「……ああ、魔術を見るのは初めてかい? 研究者なら、やりたくなるだろう。天使の石を、コピーしたのさ」


自身を凝視したままの男たちに剣をちらつかせ、剣の柄には埋め込まれた半透明の宝石のようなものを見せつけた。静かに微笑む彼を見て、研究者たちは肩を飛び跳ねさせ、次第に悲鳴が零れる。


「あ、あ、あんたは! 天使の仲間か! アストレア中将の弟っていうのは、我々人間を狩るための嘘だな! よ、よくも、騙したな!」

「わ、我々は天使にく、くくく、屈しない!」

「天使? 嘘? そんな冗談を言っている暇はないんだけどな」

「やはり赤目は奴らの仲間だったか!」


彼らを宥めようと振り返ったが、その言葉にアイータの表情は曇る。研究者たちは彼を指差したまま、パクパクと泡を吐き出していた。諦めて、白い剣を腰に納める。


「う、うわああ来るなああ!」


その動作にすら悲鳴を上げる彼らに、溜息を吐き出して手を振れば、男たちは一斉に立ち上がり、そそくさと森の入口へと逃げていった。残された男はやれやれと頭を掻き、息を吐き出す。白い息を追い掛けて、うっすらと消えゆく手の甲の文様を見つめた。


「……まあ、いいか」




独り、深い森を進み続けること幾刻。とうとう森は拓け、霊峰へと通じる山道が目の前に現れた。なんとなく拍子抜けだが、しかし、アイータは興奮を抑えきれないようで、山道の入口に備え付けられたアーチをくぐった。その瞬間、ピタリと風が止む。今まで神樹から醸し出されていた甘い香りも消え、それどころか、音すらも無いように感じた。


「……イレギュラーな事態、か。大好物だよ」


くすりと笑えば、そのまま山道へと進む。遮る冷気を感じなくなったため、重苦しい軍服はその場に脱ぎ捨てた。現れた白衣は彼の正装か。山道では純白が汚れていく。

真っ直ぐに山の傾斜に沿って延びる道は、どこまで行っても霧が深く、最早これが雪道なのかもわからない程に景色が霞んでいた。この山のどこかに、カナンの石があるのだ。自分の剣に植え付けられた擬似宝石が、おそらくカナンの石の波動を探知できるだろう。そっと柄に手を添えれば、中腹に差し掛かったところで、擬似宝石が僅かに鼓動を始めた。なるほど、とアイータは静かに笑う。


「やっぱり、頂に宝はある……ね」


歩み続ければ、睨んだ通りに擬似宝石の鼓動は大きくなっていった。手のひらでそれを感じながら、アイータは黙々と進み続ける。目の前を延々と続く薄ぼけた道を睨みつけつつも、好奇心は最高潮だった。ここに幼馴染たちがいればもっと楽しいのに、と口を尖らせながら。レガットの部隊はどうなっただろうか、と後ろを振り向いたとき、山道に入ったときの違和感がようやく明確となった。背後に道がない。霧が濃いだけか、否。ここから先は引き返すことが出来ない、この霊峰は彼にそう告げているのだ。


「上等だよ」


好奇心、探究心に勝るものはない。目の前の道も、消え去りそうなほどにボヤけていたが、アイータは歩みを止めなかった。手のひらに包まれた鼓動が一層激しくなっているのだ。彼の求めるものはすぐそばにある。そう確信して、右手を前に突き出した。コツン、と何かに当たる。見えないそれを握り締めると、瞬間、辺りの霧が拓け、いつの間に辿りついていたのか、霊峰の頂から臨める森の情景が広がっていた。はっとして握り締めた右手を開くと、漆黒の石がそこには収まっていた。


「これが……カナンの石」


傍から見れば、地面に転がるなんてことのないただの石だ。しかし、アイータには分かった。剣の上、手のひらの下で震える擬似宝石が悲鳴を上げているから。思わず零れる笑いを堪えきれずに、その石を高く掲げた。


「なるほどね、捜索隊がいくら探そうともわからないはずだよ」


まじまじと眺め、白い雪に反射させるようにその石の模様を隅々まで観察した。ふと、アイータはある一点で目を止める。


「これ……晶洞しょうどうになってる。ということは……カナンの石の正体は、若しかして」


そう推察を走らせていたときだった。強い振動と共に、身体を持ち上げられる感覚が襲ってきた。思わず膝を着き、取り落としそうになったカナンの石を胸ポケットにしまうと、ゆっくりと辺りに気を張る。地震か、と耳をすませるが、第二波はなかなかやってこない。体制を立て直そうと立ち上がったとき、突如空間が黒に飲み込まれた。


「ダスク……! もう、そんな時間だったのか」


漆黒に包まれた世界。星のひとつも見えないほどの闇夜。通称、ダスクの夜。奪われた視界をもがいていると、足元にヒビが刻まれた。不運は続く。地割れだ。


「うーん、これは……ちょっとマズイ」


誰に言うでもなく呟き、笑いながら重力に身を任せた。地割れに巻き込まれた、と思ったがしかし、不思議と恐怖や痛みがない。徐々に小さくなっていく真っ黒な地割れの入口あたりを見つめ、小さく溜息を吐き出した。


「エックスマンの呪い……そんなもの、信じていなかったのにな」


ゆっくりと瞼を閉じる。脈打つ鼓動と、奇妙な浮遊感。この感覚には、どこか覚えがあるような気がした。それは夢の中か、若しくは争いの最中か。不明確な事柄を思い返すことは効率的ではない。気を失おうとする脳に、全身が支配されていく。閉じゆく瞼に何かがチラつき、どこからか声が聞こえた気がした。


アイータ・エックス中佐。よわい21歳。神樹の森にてその消息を断つ。


『さあ、物語を始めましょう』

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