8月10日 ~色々ありすぎて悩みが尽きません~

 八月十日。


 朝の日差しは、容赦なく降り注ぎ、道路のアスファルトから立ち上る熱気でむせそうになる。

 春頃、今年の夏は、涼しくなると的外れな予報をしていた気象予報士が恨めしい。

 健太は、弓道用の道具一式を持ち、一人で学校へ向かっていた。

 朱里はいない。

 彼女がいないのには理由がある。

 今朝の事だった。


「おはよう。朱里」

「…………」

「朱里?」

「うん……おはよう健太くん」


 布団から起き上がった朱里の顔は、真っ青になっていた。


「どうしたんだ!? 大丈夫か!?」

「だいじょうぶ。ちょっと頭が痛いだけだよ」

「病院行くか?」

「平気だよ。少し休めば治るはずだから」


 本人は、そう言って譲らなかったが、真っ青な顔で痛みをこらえる姿は、大丈夫だとは思えない。

 昨日まではあんなに元気だったのに、一体何があったのか。


「とにかくゆっくりしてろよ。俺、今日は弓道部の朝練あるから、もう行くよ」

「じゃあわたしも」

「大丈夫だよ。一人で」

「だけど……健太くんに何かあったら」

「いつも以上に気を付けるって。とにかく体調が整ってから、ゆっくり来いよ」


 さすがに体調の優れない朱里を無理させたくない。

 昨日は、夏期講習をさぼっているし、部活の朝練まで遅刻すると内申点が悪くなりそうだ。

 それに、これからどんな困難が待ち受けているか分からないのだから、朱里に頼りきりになるのではなく、自分の身はある程度自分で守れるようにならなくては、とも思った。

 健太が一人で、いつもの通学路を歩いていると、商店街のアーケードに差し掛かる。


「ケンちゃんー」


 聞き馴染んだ声に、健太は顔を上げた。


「おはようー」

「春さん」


 まだ七時半だというのに、両手いっぱいに買い物袋を提げている。

 辰原町の商店街には、早朝から開いている店もあり、春さんは時たまそういう店に出かけて数日分の買い物を済ませてしまう。

 彼女曰く、朝の方が身体を楽に動かせるらしい。

 健太は、春さんの手から荷物を全部受け取って微笑んだ。


「家まででいい?」

「ありがとねー」


 ほっこりとした笑みを春さんも返してくれる。

 健太が朱里を置いてきたのは、朝練だけが理由ではなく、春さんの早朝の買い物に間に合わせたくもあったからだ。

 もしかしたら、もう二度と春さんと会えなくなるかもしれない。

 それならば大切な人たちと、出来るだけ多くの時間を過ごしたいと欲が出てきた。


「悪いわねー。まだ学校まで少し時間あるでしょー? よかったらお茶飲んでいってー」

「うん……」


 一緒に居ない方がいい。

 いつ健太に災難が降りかかるとも分からないのだから。

 でも、別れの時間が迫っているかもしれないと思うと、わがままを振り切ることが出来なかった。


「ありがとう。ごちそうになる」


 春さんが住んでいるのは築五十年の平屋である。

 一人住まいには、少々手広で使っていない部屋も多い。

 荷物を運び終えた健太が縁側えんがわに座って待っていると、春さんが麦茶の入ったコップをお盆に乗せて持ってきてくれた。


「まったく歳は取りたくないわねー」


 コップを渡しながら春さんは、健太の隣に腰掛ける。

 健太は、掌に伝わる冷気を楽しんでから、麦茶を一息に飲み干した。


「この前は、歳を取るの良いって言ってただろ?」


 健太がそう言うと、春さんはお盆を抱きしめながら頷いた。


「そうだわねー。歳を取ることは怖くないのよー。ただ私は、どうしてこんなに長く生きているんだろうってー」


 春さんの目は、遠い空の奥を見つめるようだった。

 先立てしまった友への哀愁が瞳の底できらめいている。

 時折、悩んでしまう。

 年上を励ますには、どんな言葉をかければいいのか。


「そんなの……春さんが丈夫だからじゃない?」


 気の利く台詞が浮かばない十五歳の語彙力が恨めしい。

 一世紀生きている人間を励ます言葉など紡げるはずもなかったが、春さんは嬉しそうに唇を緩ませている。


「時々思うのー。何かお役目があって生かされてるんじゃないかってー」

「お役目?」

「そうなのー。でもねー」


 春さんの表情から、いつも賑わっている微笑みが消え失せた。


「そうでなかったら、百年も無為に生きてるだけなのかなってー」


 百年という時間の重さに想像が及ばなかった。

 膨大なうねりを生き、たくさんの人を見送り、時代の変革すら見届けている。

 健太が彼女と同じように生きたのなら、出会えるのだ。

 未来の時代を生きる朱里とも。


「死ぬのは怖くないのー。意味もなく人生が終わるのが怖い。百年も生きちゃうとねー。それだけが怖いのよー」


 長く生きてきたからこその畏れ。

 いつ終わるのか分かってしまった恐れ。

 健太と春さんのそれは性質が異なるが、しかし終わることを見据えているのに違いはない。

 だからこそ伝える言葉あるとするなら――。


「意味はあるよ」


 春さんが居たからこそ、健太の人生は楽しかった。

 だから、因果に負けることを名残惜しいとも感じているのだ。

 自分が死ぬことで両親や春さんを悲しませたくないから生き延びようと思ったのだ。

 彼女が生きた意味はきっとある。

 無駄にしないためにも、その意味の一つである健太は、生き延びなければならない。

 だから、これは自分へのエールでもある。


「俺、春さんと居て楽しいもん」

「ありがとう。ケンちゃん」

「あ、居た!」

「朱里」

「もう……勝手にどっか行かないでよ」

「悪い。学校行くか」


 朱里と一緒なら何とかなる気がする。

 大好きな人たちを悲しませないためにも。


「じゃあ春さん。俺もう行くね」

「ええー。またねー」


 絶対に生き延びてみせる。

 健太は、自身に固く誓いながら朱里と共に、春さんの家を後にした。

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