8月9日 ~昨日出来た幼馴染は、本当に魔法使いでした~
「おはよう健太! 今日は朱里ちゃんと――」
八月九日。快晴の朝、リビングに入るや否や、重蔵がにこやかに訪ねてきた。
健太一人ならば別にいい。
問題は、健太の隣で、懸命に愛想笑いを作っている朱里の存在だ。
「おはようお父さん。口閉じて死ね」
「据え膳を――」
「据えられてなかったから」
「拒まれたのかい? そうか……そうか……残念だ……」
毎度のことながら口を閉じるつもりもないらしい。
根の悪い人間ではないが、人をからかい出すと止め時を失うのは、重蔵の悪癖だ。
「母さん。父さんのこと殴っていい?」
「殺さない程度にね」
「ついに反抗期が……」
「この程度ですんで、マシと思ってくれ」
「あははは! そうかもしれないね。それで何の話だっけ?」
「親父の馬鹿さ加減」
「あははは!! 父さんの馬鹿な遺伝子がお前にも流れているんだよ! さぁ一緒にバカになろう!!」
常識というネジの飛んだ重蔵と健太のやり取りを朱里は無視して、
「手伝います」
朝食を作る玲子の隣に立った。
確かにこの家族にあって玲子は、もっとも一般人の感性に近い。
この家の逃げ場所としては、相応に適当だろう。
だが玲子は、朱里を見やると、やんわりと笑みを浮かべた。
「いいのよ。朱里ちゃん座ってて」
「え、でもわたしも……」
戸惑う朱里を見やり、重蔵は仰々しく声を荒げた。
「嫁にもなってない朱里ちゃんをいびるとは! 我が妻ながら、姑根性たくましい……」
「健太、お父さん殴っていい?」
「どうぞどうぞ」
「みんな俺のこと嫌いなのかな?」
「そうそう」
「え!? 母さん!? え!?」
玲子の声に、重蔵のからかい顔は、一気に絶望の縁へと叩き落されたように青く染まっている。
当の玲子は重蔵にまるで興味がないらしく、視線は、健太に向けられている。
「健太、帰ってきたら、もみじによってくれない?」
もみじというのは、玲子が雇われの施設長をしているデイサービスだ。
健太も人手の足りない時には手伝いをしている。
「ああ。いいよ」
「あははは!! なんだよかった。母さんのそうそうは、そっちか!!」
「嫌いのほうだけど?」
「え!?」
安堵の表情を浮かべていた重蔵に、玲子の放ったトドメの一矢が深々と突き刺さった。
激しく照りつける夏の朝日が通学路のアスファルトを蒸し焼きにして、夏期講習へ向かう足取りを重くする。
そよ風の一つでも吹いてくればよかったのだが、今日に至ってはそれすらない。
重蔵とのやり取りが、余計に健太の疲労を誘ったが、朱里はどこか愉快そうにしている。
「健太くんの家は、ほんとに楽しい家族だね」
「どこがだよ!」
変わっていると引かれることは多々あるが、楽しいという感想を貰ったのは初めてだ。
どこをどう見たらそんな感想が抱けるのか。
最初は世辞の類かとも思ったが、朱里の顔には、確かな羨望が浮かんでいる。
本心から思っていなければ、こんな表情は出来ないだろう。
「わたしは、ああいうの経験ないから」
「どこの家族もないだろ。家のは、みんなイカれてるんだ」
「楽しいよ。家族が居るって……」
「朱里には、いないのか?」
――しまった。
反射的に尋ねてしまった。
自分がした質問の残酷さを知り、後悔する。
けれど朱里は、微笑したまま、うなづいてくれた。
「うん。血のつながった家族はいないんだよ。養子だったんだ」
彼女の陽気な気性は、孤独を紛らわせるために身に付いたのだろう。
負の感情を塗り固めるには、笑顔が最適だ。
それが阿澄朱里の根本的な気性なのだ。
「ごめん」
「ううん。義理の両親もすごくいい人たちだったんだよ。だから幸せだったんだ。今だって健太くんのご両親と家族になれたみたいで楽しいよ。儚い幻かも知れないけど」
気休めのような同情が一番朱里を傷付けるような気がした。
単に謝罪することだけはしたくなかったが、ごめん以外の言葉が浮かばなかった。
健太、は阿澄朱里という人間をまったく知らない。
彼女が未来から健太を救うために来たという最大の秘密を知っているのに、それ以外の一切を知らなかった。
例えば朱里の好きな食べ物は何か、と問われても健太は答えられない。
彼女は、犬派なのか、猫派なのか。そもそも動物が好きなのかも分からない。
何故知らないのか?
それは聞こうとしなかったから。
彼女が好きなことや嫌いなこと。
未来では、どんな暮らしをしているか。
今までの人生で一番楽しかったことは?
逆に辛かったのは?
好きな人は?
話していれば分かるはずのことを知らないのは、健太が朱里と話すのを、心のどこかで拒絶しているからだ。
朱里が過去に来たことと、彼女の抱える闇が密接に関係しているのは間違いない。
だから彼女の領域に踏み込まなかったのか?
――違う。
阿澄朱里という未知を畏怖していたからだ。
彼女を受け入れるのが怖かったからだ。
自分は、あと五日以内に死ぬ。
朱里の存在を受け入れることは、運命を受け入れることも意味する。
今でも朱里の話の全てを信じているわけではない。
嘘なのではないかと思う時だってある。
魂が短命の因果に縛られていて、十六歳を迎える前に死ぬ。
そんな運命、誰だって受け止めたくないはずだ。
死にたくない。
まだ生きていたい。
だって、もしも桐嶋健太が死んだら、たくさんの人が悲しむ。
両親だけではない。ダンじいちゃんや春さん。他にもたくさんの人が悲しんでしまう。
だけど朱里のことも放っておけない。
「あ、あのさ。朱里……」
「どうしたの?」
言葉が続かない。
何かを言わなければならないのに、何も浮かんでこない。
それでも彼女に何かを言わなければならない気がした。
「あのさ……」
「健太くん。わたしは大丈夫だよ」
また気を使わせてしまっている。
笑顔を作らせてしまっている。
「さっきも言ったけど、素敵な人たちが私を引き取ってくれたんだよ。そのおかげでわたしは――」
朱里の声が突然止まる。
親しみやすい笑顔は消え失せ、代わりに絶望の色が浮かび上がった。
これが本当の朱里なんだと、そう確信出来た。
今まで朱里の見せた表情の中で、今浮かべているのが一番自然な表情に思えたから。
このままで居させたら彼女は、この世界から消え失せてしまう。心が壊れてしまう。そうさせないために健太が出来るのは、話題を変えることぐらいだ。
「未来のこと話してくれよ」
唐突な健太の問い掛けに、朱里に浮かんでいた影は潜み、驚きが支配していた。
「未来の?」
「もっと詳しく聞きたいんだ」
「何百年も未来じゃないからそこまで変わってないよ。それに詳しくは話せないんだよ」
「どうして?」
「そういう約束だから」
「誰と?」
「んーと……」
朱里は固く唇を結び、唸り声を上げている。
言葉を選んでいる、というよりは、どう説明すればいいのか戸惑っている様子だ。
「龍……かな?」
考え抜かれた末に繰り出された突拍子もない単語に、健太は気の抜けた声を上げた。
「りゅう?」
「そう」
「へぇー」
「信じてくれるんだ?」
「タイムスリップがありなら、龍の方もありだな。恐龍だって居たし――」
そう自分を納得させた途端、頭上からカタン、と固い音が下りてくる。
健太が見上げると、視界を茶色が埋め尽くした。
――なんだ?
正体を推察する間もなく、健太の腹にかけて重い衝撃が襲ってきた。
踏ん張りも効かず、その場に倒れ込むと、仄かな温度と、乾いた音が健太の感覚を支配する。
数瞬で脳細胞が状況を整理し、健太に理解させた。
朱里が健太に覆いかぶさり、かばってくれている。
地面には砕け散った植木鉢の破片が散乱していた。
ちょうど健太の歩いていた傍にマンションがあり、そのベランダのいずれかから落ちてきたのだろう。
悪戯や、まして風に吹かれてというわけではない。今は無風だ。
そうなれば犯人の心当たりは一つしかない。
「くっそ。これも因果のせいなのか……よ……」
「どうしたの? だいじょうぶ?」
ふと二つの豊かな膨らみが眼前にあることに気付いてしまった。
きっと雲のように柔らかく、ゴム
触れたらきっと――。
「うわあああ!!」
「なに!?」
「なんでもない!! 犯人は因果! 因果!」
「健太くん、だいじょうぶ?」
「大丈夫だ! !揉みたいとか思ってねぇし!!」
「……思ったんだよね? わたしの胸を揉みたいって」
「思ってねぇよ!? 全く思ってない!!」
「……別にいいけど」
「その目は、ちょっと軽蔑してるだろ!?」
「べつにそんなことないよ……たぶん」
「だから違うんだって!!」
「まぁ男の子だもんね……」
「だから待ってくれってば!! 違うから。全然違うから!! そんなことよりもだ!!」
健太は、朱里の下から逃げるように這い出すと、青空に向かって嘲笑をぶつけた。
「いやーまったく! 隕石と似たような手を使っといてスケールダウンか!」
「話をそらそうとしてるのは、分かるんだよ?」
「ははははは!! 因果とやらも大したことねぇな――」
挑発に呼応するかのように、マンションのベランダから次々に植木鉢が舞い降りてくる。
逃げ場を奪うように、広範囲にわたって落下する彼らを、無傷で避けきることは不可能だろう。
「因果さん! マジすんませんでしたぁ!!」
植木鉢が頭にぶつかるなんて漫画みたいな最期を迎えるのは勘弁願いたい。
これなら、いっそ昨日の隕石に殺された方が、逸話が残る分マシだったかもしれない。
――これで終わりか。
健太が終わりを受け入れた刹那、死を運ぶ植木鉢の落下傘部隊は、空中で静止した。
まるで見えない壁に固定されているようだ。
「……すげぇ……なんだこれ」
手を伸ばして、頭上の植木鉢の一つを指でつついた。
風船のように、ぷかぷかと宙に浮いている。
明らかに物理法則を無視した現象だ。
「だいじょうぶ?」
朱里は、空中で静止した植木鉢の群れに手を向けて、肩で息をしている。
桃色の頬からは、血の気が引いて青白い。
「朱里が……これを?」
「そうだよ。早く逃げて。長く持たないから」
言われるまま健太が静止した植木鉢の下から逃げ出すと、朱里が手を下ろした。
植木鉢が一斉に地面へと降り注ぎ、けたたましく砕け散った。
朱里は、深い呼吸をして息を整えている。
「朱里、大丈夫か!?」
「平気……ちょっと疲れるだけだよ」
先程よりは、多少顔色に血色が戻ってきている。
「ほんとだったんだな。魔法使えるって」
「健太くんには、ウソつかないよ」
そう言って朱里は微笑みかけてくる。
確かに朱里のそれは、魔法と呼ぶにふさわしい奇跡だ。
だが、一度使うだけでも、かなりの体力を消耗するのは間違いない。
一日の内に、そう何度も使えないだろう。
この力を誕生日までの残り四日間で何度行使することになるのか。
朱里にとって、相当の負担であるはずだ。
でも、朱里は無理をしてでも健太を守るために、何度でも力を使う。そんな覚悟が朱里から伝わってくる。
限界を超えて魔法を行使すれば、ただで済むはずがない。
自分が生き残るために誰かを犠牲にするなんて、許されるべきじゃない。
「……生き残るには、どうしたらいいんだよ」
「健太くん?」
頼ってばかりはいられない。
もうすぐ十六歳になるのだ。
自分の足で立って自分の頭で考えなければならない。
どうやって朱里の負担を減らしながら、期日である八月十三日まで生き延びるのかを。
「朱里の力だけじゃ俺は、助けられないって昨日言ってたよな。それが今よく分かった。だからどうすればいいのか教えてくれ」
「……健太くんを助けるためには、魂を縛る因果の原因を知って取り除かなければならないんだよ」
「つまり、ただ生き残るだけじゃだめなのか?」
「というか、生き残れないと思うよ。期日が迫れば、それだけ修正力は強大になる。わたしたちの力だと、いずれ抗えなくなっちゃう」
「だから、原因さえ取り除けばどうにかなるんだな?」
「そうだよ」
「原因を取り除くのに、どうしたらいいのかっても分かんねぇけど、一番の問題は――」
「健太くんの魂が経験した輪廻。その中のどこで因果が発生したのか、だよ」
「生まれ変わる前の俺に何かがあったんだよな。なら家系図でも見てみるか」
「無駄だと思うよ」
「なんでだ?」
「健太くんのご先祖様が何かしたわけじゃないんだよ。君のいくつか前の前世に、何かあったんだと思う」
「そうか。俺の前世が俺のご先祖様とは限らないってことか……」
現代の技術で自分の前世が誰であったのかを調べる術は存在していない。
もしかしたら朱里のように特別な力を持っている人が他にも居て、前世について調べてくれるかもしれない。
だがそんな超能力者が実際に居る可能性は低いし、居たとしても四日以内にその人物に辿り着くのは天文学的確率だ。
「じゃあ……どこの誰かも分からない前世のことを俺たちだけで調べるっていうのか?」
「そういうことだよ」
朱里は、あっさりと言ってのけるが、健太にしてみれば
まして、それを四日以内に達成するというのは――。
「途方もなくね?」
「案外そうでもないよ」
健太の不安を塗り潰すように朱里は不敵に笑んでいる。
「何か手がかりがあるのか?」
「あなたの魂は、この街に囚われてるの」
「どういう意味だ?」
「あなたは、何度転生を繰り返してもこの街で生まれて、この街で死ぬんだよ」
「俺は生まれ変わってもずっとここに住んでるってことか?」
「うん。実は、わたしもこの町出身なの」
「朱里も?」
「わたしは、この町には特別な何かがあると思うんだよ。だからこの町の歴史を調べれば――」
「俺の前世に関する事件が見つかるってことか」
辰原と健太の前世が関係していることまで分かっているのなら、スタートラインとしては上々である。
しかし、ここで健太の中にある疑問が生じる。
朱里は、どうやって、そこまでのことを調べたのだろうか?
未来に健太の死亡記事などがあることは理解出来る。
しかし、どうやってそれらの点を線として結び、ここまでの推論を得るに至ったのか。
「でも、朱里はどうやってそこまで調べたんだ?」
「執念……かな」
「執念って?」
「きっかけは偶然。図書館であなたの写真を見たことがあるの」
「俺の?」
「辰原図書館だよ。今年の春に――」
「ああ! 写真撮られたな。そう言えば」
五月頃、町の歴史を調べる社会科の授業で図書館を訪れたことがあった。
その授業風景を図書館の職員が写真に収めていたのである。
図書館の広報に使うと、その職員は言っていた。
恐らく未来でも、その写真が残っていたのだろう。
「そして私たちの時代には、ある都市伝説があるの」
「どんな?」
「辰原町には、十五歳で亡くなる人が定期的に表れる」
「十五歳で亡くなる人が……まさかそれって」
「健太くんの生まれ変わりの人たちのことだよ」
「もしかして都市伝説の始まりが俺ってこと?」
「そうだよ。あなたの写真、顔は違うのに、何故か雰囲気が彼にそっくりで……びっくりした」
――彼?
「彼って?」
「なにが?」
「彼って誰?」
何気ない質問のつもりだったが、
「それは……あの……」
朱里は、答えられずに、戸惑うばかりだ。
――ああ、きっと触れちゃいけない部分なんだ。
知りたくないわけではない。
けれど、身勝手な好奇心を満たすよりも、彼女を気遣う方が大事に思えた。
「悪い。気にせず続けてくれ」
「ううん。ごめんね」
呟いてから朱里は、無理矢理作っていると分かる笑顔で続けた。
「そこから調べたら都市伝説が本当だって分かった。私の時代では健太くんのことまでしか辿れなかったけど、さかのぼれば、もっと前からあるはずだよ」
「確かに、この時代なら、朱里の時代よりもっと古い資料があるかもしれねぇな」
ここまで手掛かりがあるのなら、夏期講習を受けている場合ではない。
誕生日まで四日間。生き延びさえすれば勉強は、いくらでも出来る。
サボったにしても、それが命のためならば両親や担任の先生も許してくれるだろう。
「講習サボって……行ってみるか図書館」
「うん」
二人の足は、学校のある東ではなく、辰原図書館のある西南へと進路を変更した。
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