8月8日 ~今日出来た幼馴染から余命宣告されました~
昼休みになり、健太は校舎の裏手で、壁に背を預けてコーヒー牛乳のストローを噛みながら、夏らしいぶ厚い雲と殺人的な日光が同居する空を眺めていた。
その隣には、芝生の上にハンカチを敷いて、朱里がしゃがみ込んでいる。
ハムスターのように忙しくメロンパンをかじっていたが、唐突に健太を見上げた。
「授業中、上の空だったよ?」
「いつもだ。幼馴染なら知ってんだろ」
「そうだね」
こうやってぽつりと二つか三つ言葉を交わすと、数分は互いに口を開かない。
健太にとっては居心地の悪い沈黙を、朱里は気にしていない様子だった。
見ず知らずの人間と居るのに、こんな風に和めるのだろうか?
記憶喪失。
その可能性が現実を帯びてくる。
そう考えた方が町中の人間の認知が変わってしまったとするよりも、よほど現実的である。
もしも忘れてしまっているのだとしたら、朱里をどれほど傷付けてしまったのだろうか。
クラスメイトの反応を見ても普段から仲が良かったらしい。
もしかしたら付き合っているのか、その手前か。
それなりに深い仲だったようにも思えてくる。
もしも自分のことを舞香や広瀬に忘れられてしまったら?
受けるショックの大きさを、容易く思い描けた。
「なぁ……お前さ……」
「お前じゃなくて、名前で呼んでほしいな」
「……朱里……俺、記憶喪失になってんのか? 朱里のこと、どうしても思い出せないんだ……」
健太の問いに、朱里の唇に、桜色の微笑が咲いた。
「当たり前だよ。わたしたち初対面だもん」
「あぁ!? 今なんて!?」
「うん。初対面」
「いやいや!! もう一辺言ってくれ……」
「だから初対面」
「は?」
「挨拶が遅くなりました。初めまして阿澄朱里です。よろしくお願いします」
「これはこれはご丁寧に。こちらこそよろしくお願いします。桐嶋健太です」
これが普通の出会いならば、美少女相手なのだから喜んで挨拶を返すだろう。
しかし健太の胸中に湧くのは、煮立ったヘドロのような黒い憤怒の念であり、血流に乗って掌へと蓄えられたそれを握り込んだ。
「じゃねぇんだよぉ!! 阿澄朱里!! 自己紹介も済んだところで、一発殴っていいか!?」
「駄目だよ。女の子には優しくしないと」
「じゃあ!! 平手にしとくからさぁ!!」
「……そういうプレイがしたいなら……まぁ別にあれだけど」
「Mなのか? 馬鹿なのか?」
「両方だよ……Mで馬鹿な女の子。それでいいよ」
「なんだそりゃ!?」
「運命に抗って、わがまま放題な女。わたしは、そういう変なやつなんだよ」
彼女は勝手に納得しているが、健太にしてみれば、よかったことなんて一つもない。
健太が記憶喪失になったなら、現実的な範疇の悲劇で済んだ。
しかし健太と阿澄朱里が初対面で、町中の人間の認知が変わっているのなら、もはや常人の考察が及ぶところではない。
「どういうことか説明しろよ!! これが夢っていう理由以外で、だ!! もし夢ならもうやけくそで今すぐあんたを押し倒す!!」
「初対面の女の子を?」
「夢なら何しても自由だろ!?」
「たしかに……」
「こんな可愛い女の子が目の前に居るなら、そりゃ手も出したくなるわ」
「夢じゃなかったら……どうする?」
往々にして夢というものは、夢だと自覚出来るものだ。
痛みを感じるから夢じゃないなんて定番を試すまでもなく、
「ねぇ、どうする?」
挑発的に微笑む朱里に、健太の欲情は栓が抜けたように、しおれていった。
「……可愛くても得体の知れないのは願い下げだ」
「そっか。残念」
「何が残念だ!」
「ごめん。もうからかったりしないよ」
「で……朱里の正体は?」
「今日出来た健太くんの幼馴染だよ」
「まさか……ほんとに魔法が使えるなんて言うなよ」
「使えるよ」
自称魔法使いの自称幼馴染は、そうあっさりと言ってのけた。
ここまで堂々とされると、反論する気力が削がれてくる。
「それで?」
「それでって?」
「自称魔法使いさんの目的はなんだ?」
健太が飲み終えたコーヒー牛乳のパックにストローを押し込むと、朱里も残ったメロンパンの端っこを一口で放り込んだ。
「わたしはね。あなたを助けに来たんだよ」
「助けに? なんで?」
「助けたいからだよ」
「それで魔法使いは、どこから来たんだ? まさか宇宙からとか?」
「未来から」
「未来って……定番すぎて安っぽいわ! まだ宇宙の方がいろいろとマシだろ!」
「そうかな? どっちでも同じだよ」
「正義の味方ってのは、往々にして宇宙からやって来るもんだ! もしくは悪の組織に改造されるとか、実はものすごい種族の末裔とか」
「それはそれで王道すぎだよ。わたしは、未来でも宇宙でも大差ないと思うけど」
「じゃあ、どこでもいける的なドア出してみろ!!」
「そっちタイプの、ものすごい科学技術のある未来じゃないんだよね」
「じゃあどんな未来だ!? なんにせよがっかりだ! 便利道具も出さない末来とか完璧外れ枠じゃねぇか!」
「確かに、そうだね」
朱里は、苦笑して、健太を見つめてくる。
瑞々しい瞳を直視するのが気恥ずかしくて、健太は視線を空に浮かぶ雲へと逸らした。
「笑いことじゃねぇ! じゃあ聞くけど、どれぐらい未来なんだよ?」
「八十年弱?」
「割と近いじゃねぇか! がっかり感倍増だ!!」
「そうかな?」
「そんな直近なら当たり馬券教えてくれ。大金持ちになってやる」
「競馬は知らないよ。ごめんね」
「レーザー銃とかレーザーソードとかある?」
「……なんで武器の話なの?」
「ロボットが料理作ってくれんの? 全自動自動車で車の免許いらない感じ?」
「基本的な生活水準は、この時代と変わってないかな。あと車は免許持ってないと乗れないよ」
「なんで?」
「非常時は、自分で運転出来ないと困るでしょ? あなたやこの時代の人が想像してるほど、なんでも人工知能任せじゃないんだよ」
「魔法は誰でも使えるの?」
「使えないよ。私だけの特別なんだ」
「やっぱ詐欺師だ。未来がそんな夢のないもんだとは思えねぇ」
「戦後に書かれた未来予想図がこの時代で現実になってる?」
「……車は空飛んでねぇな」
「レーザー銃もないよ。数十年で人間変わらないってことだよ」
「やっぱ詐欺師だろ。未来は、夢と希望にあふれてるもんだ。今と大して変わらないなんて信じられるか」
「じゃもういいよ。詐欺師でも」
「いいのかよ……」
「わたしは、なんでもいいんだよ。あなたを守れたら」
呟きながら朱里の表情から光が消えていく。
輝くものが常に浮かんでいた表情は、今では深淵に沈んだようだった。
平凡に生きている人間が浮かべられる表情ではない。
健太は、ほんの少しだけ阿澄朱里という人物の地金を知ることが出来た。
性根が明るいから笑顔でいたのではない。
常に笑顔を浮かべていないと、感情のよどみに塗り潰されてしまうのだ。
「安心してよ。あなたを助けたら、あなたの前からいなくなるから」
――そんな寂しい顔で言うなよ。
そう伝えたかった。
けれど優しい言葉をかけると、逆に彼女を傷つけそうで怖い。
だから健太は、何も気づかないふりをして、質問を続けることにした。
「助けるって何から?」
「今朝のあれだよ」
「トラックのこと?」
「あれで健太くんは、死んでたはずだったんだよ」
「……まじかよ」
「まじだよ」
朱里は、未来から来た人間で、死の運命から健太を守っている。
その話が真実だとするのなら、ここに朱里が居る限り、まだ彼女の役目は終わっていないということになる。
健太の生死にかかわる事態が、これからも起きることの証明。
自分を守ってくれる存在が、同時に脅威を知らせる存在でもある。
彼女が居なければ脅威から身を守れず、彼女が居る間は脅威が訪れ続ける。
それは、いつ終わるのか。
そして次は、いつ起きるのか。
せめて心構えだけでも、しておきたかった。
「じゃあ次は?」
「分からない」
「は? なんでだ? 未来人なんだろ? 助けたい相手の情報なら調べとけよ!」
「言ったでしょ。あなたは、あれで死ぬ運命だったんだよ。でも、私がそれを変えた。変えられた運命は、その事実を修正しようと襲ってくる」
「つまり変えたから、この先がどうなるか分からないってことか?」
「そういうこと。この先は誰も知らないんだよ。だって健太くんに先なんて存在しなかったんだから」
「じゃあどうすんだ?」
「どうなるかは分からないけど、未来を変えるのは簡単じゃないってことだね」
運命に抗う。
未来を変える。
漫画や映画で散々聞かされてきた陳腐な台詞が、現実となって健太の喉元に突き付けられている。
平凡な人生を演じるモブキャラから、一転して主人公に抜擢され、生存を賭けた舞台に上がることとなった。
戦わなければならないのなら、せめて終わりがいつなのかを知りたい。
目標もなく、戦い続けるのは針山を素足で歩き続けるようなものだ。
「いつまで続くんだ? いつまで生き延びれば、俺は救われるんだ?」
「ちょうど今日から五日間だよ」
「五日!? 余命五日ってことかよ!?」
「私が来なかった場合、余命マイナス四時間だったけどね」
五日しか時間が残されていないと言うべきか。
五日も、この奇怪な状況が続くと言うべきか。
どちらに転んでも最悪というより他になく、さらに気になるのは――。
「五日って八月十三日? 俺の誕生日の?」
「そうだよ。あなたは十六歳を迎えることなく、死ぬ運命にあるの。ちなみに今年の八月十三日は、金曜日。不吉だね」
「さらっと言うな! さらっと!」
健康な十代の少年が五日間生き延びる。
この日本においてそれは、苦もなく達成し得る目標だ。
しかし落命が運命付けられた状態で過ごすとなれば、その日々は尋常ではないだろう。
「それで大丈夫なのか?」
「何が?」
「いや、だから俺は大丈夫なのか?」
「多分ね」
多分とは言いつつも、朱里の語気からは、自信と確信が感じ取れる。
不安が拭えたわけではないし、話の全てを理解し切れてはいないが、それでも彼女を信頼するより他にないだろう。
現に一度命を救われているのだから。
けれど朱里を信じるのなら、新たな気掛かりも出てくる。
「でもなんで俺は、十六歳前に死ぬんだ?」
「あなたは、短命な因果に縛られてるんだよ」
「因果ってどういう意味だ?」
健太が尋ねると、朱里はスマホを手にした。
「因果。原因と結果。または仏教の考え方で前世の悪い行いが現世に影響を及ぼすこと――」
「言葉の意味じゃねぇ!!」
「要するに、あなたの魂を因果が縛っているってことだよ」
「今度は魂と来たか」
魔法にタイムスリップ。そして今度は魂だ。
空想の産物だと考えていた物が、
そしてこれを馬鹿らしいと笑い飛ばしてしまえないのが、桐嶋健太の現状だ。
「ていうか前世の俺が何かしたとして、どうしてそんなもんに縛られてんだ? どんだけのことしたんだよ前世の俺。そもそも前世ってあるもんなのか?」
「うーん。前世で相当色々あったみたいだよ」
「何やらかしたんだ……前世の俺」
「何をしたかはともかくとして」
「そこ、すげー知りたいんだけど。そこ、すげー重要なんだけど」
「因果を断ち切れない限り、あなたは十六歳を迎える前に、死に続ける。たとえ何度生まれ変わったとしてもね」
「じゃあ俺は、どうすればいいんだよ。誕生日まで家に籠ってればいいのか?」
「それだけじゃ健太くんの因果を断ち切れないよ。まずは原因を取り除かないと。だから力を貸してほしいんだよ」
「力を貸すって……守ってくれんじゃないのかよ!?」
「わたし一人の力じゃ無理なの。だからこそわたしは、あなたの幼馴染として――」
「待った。疑問があるんだ」
「疑問って?」
「どうして俺の朱里に対する認識が変化していないんだ」
それはずっと抱えていた疑問だった。
朱里が魔法を使えるのなら、どうして健太の認識だけ改変しなかったのか。
そうしてしまった方が困惑する健太を守るよりも、ずっと楽だったのではないか。
「試してみたよ。でもダメだったの」
「つまり、やろうとしたけど失敗した?」
「そうだよ。健太くんの魂を縛る因果のせいなのか、それとももっと別の理由があるのか」
詳しい理由を尋ねても、おそらく無駄であろう。
朱里自身が、肝心の詳しい理由を知らない。回答をぼかしているのが、その証拠だ。
朱里も健太の身に起こることについて、全てを把握しているわけではない。
「朱里も全てを知ってるわけじゃない。だから俺も俺自身を守る必要があるってことか」
「うん。リミットは、あなたが十六歳になるその日まで。どんな脅威が襲って来るのか、私と一緒に考えて、切り抜けてほしいんだよ」
「魂を縛る短命な因果ねぇ……」
朱里の話は筋が通っている。だが、完全に信用するには至らなかった。
未来・魂・因果・魔法というキーワードを絡めて、それらしく作ったストーリーのようにも思える。
家族や町の人の認識が変化しているのは不可思議だが、それだけで朱里の話を全面的には信用出来なかった。
魔法なんて現実感のない方法ではない、何らかの手段があるのかもしれないし、トラックに轢かれるところを助けられたのも、たまたまという見方も出来なくはない。
健太の中で、信用と不信の間を針が揺れ動いている。
「正直言って……朱里の話を全部は信じられな――」
健太の言葉を遮るように、朱里は、突如健太を抱き寄せた。
「ちょっ!? 朱里、いきなり何すんだ――」
朱里の行動に戸惑ったのも束の間、背後から爆音の奔流が健太の背中を叩き付けた。
振り返ると、先ほど健太が立っていた地面には、赤黒く焼けたかぼちゃ大の石が埋まっている。
「なんだこれ?」
「隕石じゃないかな」
「因果の仕業?」
「因果の仕業だね」
「こわっ!」
「信じるつもりになった?」
隕石まで降ってきたなら信じるしかない。
今朝から起きている出来事は、健太の常識を完膚なきまでに打ち砕いた。
混沌とした状況の中で唯一信じられるのは、朱里の健太を守りたいという願いだ。
「……信じることにする」
「ほんとに?」
「……ああ。ここまでされちゃ信じるしかねぇだろ」
健太が頷くと、朱里からほんのりとした微笑が綻んだ。
今まで見せた笑みの中で、もっとも儚く見えた。
だからこそだろう。
健太には、それが無理矢理に作っていた今までの笑顔とは違うと、心の底から湧き出した笑顔なのだと思えた。
朱里を信じるのなら、彼女の境遇も信じるより他にない。
見ず知らずの少年を救うために、過去へとさかのぼる。
たった一人で、自分が生きてきた時間の全てを投げ捨てて。
そんな少女ならば、せめて優しくしてやりたいと。
「それじゃあ改めて名前を教えてくれ。俺は、桐嶋健太」
「阿澄朱里です。桐嶋健太くん、よろしくお願いします」
今日から五日間。生き延びるための戦いが幕を開けた。
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