百合の惑い

しおり

百合の惑い

「チョイとそこ往く別嬪さん、靴磨きに用は無いかい」

 帝都では名高いと或る寺、初夏の青葉の影が落ちかかる卵塔場の近く。足を止めたのは、涼傘ひがさを差し掛けたひとりの貴婦人姿。黒い洋装は貴なる身分のように見えるけれども、伴は無い。青竹のように背が高く、紫の風呂敷包みを提げ、柳のようになまめかしい、腰を絞った舶来のドレスを着ていた。その時丁度、いしだたみを駆けるつむじかぜ。其の拍子に翻った裾からは、鋼鐵の紐を編み上げた無骨な軍靴が、ほんの一瞬みえた。飃ののち、た両足を隠した開きかけた朝顔の形をしたスカァトは、印度更紗か黒繻子か。……ほんのすこぅし、迷ったように、洋装の佳人は辺りを見回した。

「其所の洋装の御嬢さんサ。今日は風が強いよ、折角の靴に砂埃がついてしまったらいけないよ」

 再度声を上げたのは、木陰にござを敷いて鞣した皮や端切れを取り揃えた、若い靴磨きだった。髪は長く、扮装いでたちこそ貧しいが、さわやかなおもてをして、山吹のようにあたりが明るくなる笑みを浮かべていた。大きなをのべて、ここに腰掛けろと云うように、木陰に置かれた木箱を示している。

 声を掛けられた貴婦人姿の人物……つまりは錺百合彦かざりゆりひこは、足許を隠す黒いスカァトに眼を落として、少し迷う素振りを見せた。

 靴磨きの若者は気づいていないようだが、先ほど風に覗いた軍靴では、磨くも何も無い。しかし、百合彦は莞爾にっこり微笑んだ。

「それじゃ、御願いするよ」

 木箱に腰掛けて持ち上げた裳裾から覗いたは、銀に輝く薔薇の附いた西洋の飾り靴。

 此の奇術に気づかなかったのか、若者ははいよっと元気に返事をして、百合彦の靴を磨き始めた。布を幾枚も使い分け、靴先や装飾も怠りなくまめやかな手附きで拭っていく。っとその作業を見守る百合彦に、彼は朗らかそうな口調で話し掛けてきた。

「こいつは滅多に御目にかかれない上等な靴だよ、別嬪さん」

「有り難うね。英國エゲレスちょっと前に流行った形だそうだが、そうやって誉めて貰えると一層輝くようさ」

「へえ、そうなのかい。えげれすってなァ、外ツ国だろ。そんなとこの靴を履いてるとは、そちらさんは名有りのお姫様ひいさまだね」

 百合彦の、女にしては大きすぎる靴を丁重に持ち上げながら若者は言った。百合彦は薄っすらと紅を引いた脣に笑みを刷き、木洩れ日を逆光に背負った仄暗いかんばせを傾けた。

「お姫様とは、嬉しいことを云って呉れるね。確かに、名は有るが」

「……奇麗にめかしこんで、

 百合彦は、暫し黙って手元の紫の布に眼を落としていた。やがて深く一息、ゆっくりとその結び目をほどく。

「姉上の墓参りにね」

 現れ出でたのは夏の夕暮れのような紫の小鶏頭に花火のような黄や白の菊、佳い薫りが切ない色紙で束ねられた線香。若者は吃驚おどろいたように眼を見開き、首を竦めた。

「悪いことを訊いてしまったね、別嬪さん。……」

「その呼び方はしてれよ」

 針のようになった踵まで磨きあげる若者に、百合彦は眼を伏せて淋しそうに呟いた。

「姉上が逝ってしまったのは十三年も前のことだよ。もう、共に過ごした日々とおんなじ位経って居る」

 裾がまた翻る。磨きあげられた靴は銀細工のように輝き、靴先は敷石を蹴って固い音を立てた。靴磨きの若者は、人懐っこい──けれどどこか、うろんな笑みを浮かべた。

、宜しいので?」

 ハッと百合彦は顎を上げた。清しげな若者の眼が、其のときばかりは、能面の孔のように底知れぬ色を湛えていた。

「……眼が良いね、お兄さん。こいつだけで充分さ、御代は幾らかな」

 云われた額に少し色を附けて渡すと、百合彦は流れる仕種で傘を開き、青葉の蔭から心なしか早足で立ち去った。「次もご贔屓に」と掛けられた声に、しゃんと背筋を伸ばした。磨かれた靴がいしを蹴り、硬い音を立てた。

 樹から幾らも往かぬうち、帝都では其れなりに名高い寺が見えてきた。夏百合が莟を天に向ける青草の茂みに囲まれた石段を昇れば、もはや慣れ親しんだ卵塔場。並ぶ卒塔婆の文字も覚えるほどに百合彦は通っている。墓石はぐるりと樹立こだちに囲まれて涼しいが、その鬱蒼としたあおぐろい雑木の蔭からは、絶えず不思議な葉ずれの音色が聞こえてくるので、どこかこの世とあの世のはざまのような冷気が漂っていた。

 錺の墓まで辿り着いて一息ついたところで、ふと、眼の隅に見慣れぬ色彩が引っ掛かった気がして、百合彦は傘を傾げて夏空を仰いだ。

 果たして、高い高い梢には、たったひとつ、紅い桃燈ちょうちん。緑と青と土の色のなか、一際目立つ其れが、風が吹いて、ひゅるりと揺れた。桃燈も揺れ、どこからか、しゃらん、と鈴の音がする。樹木きぎの間に緒をわたして、わらべの鳴らす銀の鈴。

 百合彦は、釘で打たれたようにその場から動けなくなった。腕が震え、鈴の音をよく聴くために傘が下ろされる。

 しゃらん。

 招くように、今度は少し近づいて音が鳴った。吊るした緒が風に吹かれたのでなく、人が手に持って鳴らしたような音だった。其れを聴いた途端、百合彦は思わず口許に手を宛てた。

「姉上」

 くちびるから、幼い頃の声が漏れた。

 応えるように、また鈴の音がした。今度は少し間遠で、ふと焦りを憶えた。ああ、遠くなる。

 しゃらん。

 懐かしい音。

 また。

 しゃらん。

 遠くなる。

 軈て、鈴の音が聴こえなくなって、不意に矢も盾もたまらなくなり、百合彦は駆け出した。重たい風呂敷と涼傘が、割れた甃に落ちた。

 募る夕闇のなか、時おり聴こえる鈴の音を追って墓石や卒塔婆の間を走った。そのうちに、掃除もされて奇麗に調えられていた墓所から、何時しか壊れかけた名無しの墓が点在する斜面に差し掛かっていた。名前の無い小さな墓石が賽の河原のように辺りに転がって居る。倒れた朽木を跨いで、崩れ掛けた段に磨かれた靴の先を掛けると、ぱらぱらと砂が落ちた。百合彦は、勢い良く夕暮れの濡地ぬれつちを蹴って、暗い雑木林へと消える細く曲がりくねった石段を駆け上がった。

 足先から海に浸されるように暗闇が迫った。点々、点々と揺れていた野花も次第に姿を消し、スカァトをたくしあげた百合彦の靴先で、磨いたばかりの銀の薔薇だけが狐火のように闇をはしった。

 全き暗夜やみのなか、階段を昇っていく。

 夢にるような感覚にとらわれながら、百合彦は、生まれ育った錺の屋敷を思い出していた。靴越しの感触はいつしかえかけた石段の其れでなく、固い木の板になっていた。脚の下で鳴る、とん、とん、という板の音は、生家に在った高楼の、鈴の緒を渡した紅階段と、よく似ていた。

 風が吹いている。百合彦の頬を撫でる、死んだ女の手のような風。切り揃えた前髪か揺れて眼に掛かり、視界が覚束なくなる。スカァトが脛に纏いつき、歩きづらくなった。風は弄ぶ。びょうびょうと、あかるく、淋しげで、つめたい春の風。

 その風に混じって、弓を引く音がした。

 百合彦がおもてをあげた瞬間、矢が的に突き立つあの清澄な音が耳の奥にこだました。刹那、己れを囲む闇の向うの景色に思い至る。

 桜の森の、的場。

 桜の只中に在った錺の屋敷、紅と黒のあの美しく、浮世離れした屋敷。桃燈と鈴が囲む、夢の森。

 其の的場には、いつも姉がいた。からだを包む音が、記憶を呼び起こす。びょうびょうと、弓を引く音、びょうびょうと、矢を射る音。何も見えぬのに、其れが、風が桜の森を渡る音だと判った。

 甲高い小児おさなごの声がする。

「あねうえ、あねうえ」

 風すら切り裂く弓矢の音が止む。ややあって、若くすずしい女の声がした。

「百合彦。お花の稽古は終わったのかい」

「おわったよ、でもぼく今日は弓のけいこの方がしたかったの」

「そうか、まあ私の弟だものな。……」

 姉と弟らしきふたりの談笑が、幻燈機のようにゆらゆらと、闇夜やみの桜が織りあげた帳の向うで、穏やかに…空耳のように淡く、遠く、……聴こえてくる。

「あねうえ、あねうえは矢を射るのが巧いと、先生からおほめいただいた」

「おや、それは有り難い。……だが、先生とは、華道の小川先生だろう。本当にそんなことを云ったかね」

「うん。女だてらに、刀も馬もけいこをしている、と。女だてらに、とは、如何どういうことなの」

 桜を浚う風が吹く。百合彦は耳を塞ぎたくなった。姉は幼い弟にこう返す。余りに遠く朧だが、優しく、低く、懐かしい声。

「……女には相応しくない癖に、と云うことだな」

 いらえる声を、飃が空へ、桜の渦の中へ巻き上げ、掻き回した。其の風は百合彦の頭も掻き回し、ふっと気が遠くなった。

 瞬きの後、音も薄膜も消え、四辺は冴え冴えとした闇ばかり。あたりを見渡しても、天地も判然はっきりとしない全くの暗闇である。

「……何だ、今のは」

 茫然と突っ立って、思わず呟いた。低く、掠れた声は二十七の己れのものに相違ない。然し、先刻さっき聴いた小児おさなごおんなの声は。…

 墓地の青い林に迷い込んで、孤狸にでも化かされているのか、と百合彦は足許に眼を落とし、磨かれた靴で黒々広がる闇を踏みつけた。雑木林に駆け込んだのに、砂利や泥の感触もなく、唯虚空から、木のきしむ音がするばかりである。

「……さては、騙の罠だろうかね。癪に障る」

 百合彦は常から浮かべている笑みを消し、人形のように冷然とした素顔で吐き捨てた。

 既に、墓地で鈴の音を聴いた時点で術中に在ったのだ。奇妙だと解っていながら抗えなかった、恐らくそこまでが罠なのだ。

 爪先で暗中を探ると、階段は未だ続いているようだった。振り返ってみても下は無く、復たあの桜の風と、弓矢の幻聴が思い返されて、引き返す気にはなれない。昇りつづけるしかない。百合彦はう夢うつつのさかいを疾うに失なっていた。

 行先に、ぼんやりと何かが見えるが、桃燈ではない。鈴でもない。近づいて見て、やっと其れが四角いものであると判別できた頃には、凌雲閣も斯くやと云うほどまで来ていた。

 見上げる高さには、舶来の絵葉書ポストカァドが、闇に浮かんでいる。みえない壁に貼り付けられたように、紅と白の薔薇を画いた其れが、中空に忽然とある。

 其れを認めた途端、百合彦はその場に立ち竦んだ。

 絵葉書の前に、二十歳を幾らか過ぎた女がたたずんでいる。百合彦には見慣れた深緑の軍装の、後ろ姿だけを見れば、男のようにも見えるが、其の背筋のすっと伸びた立ち姿、見忘れるはずもない。

「姉上」

 呼ばわった声は、やはり十余りの小児こどものように細く震えていた。

 此れは、姉が錺の家を継いだ日の景色だ、と百合彦は思い出していた。父の死を以て髪を断ち、軍服を着た姉の後ろ姿を見つめていたのは、幼い己れなのだ。

「姉上、いって仕舞うの」

 己が咽喉のどからとは思えぬ声が、遠くに響く。

「百合彦」

 姉は悠然ゆっくりと振り返りかけて、後もう少しで眼が見えると云う處で不意にた前を向いて仕舞しまった。男のように短く刈った黒髪の透間から、紅い耳飾りの房が揺れた。

「女って云うのは、此の薔薇とおなじなのさ」

 顔の見えない姉は窓辺に歩み寄ると、舶来の絵葉書ポストカァドを光に翳した。百合彦は其の、棘やら蕚やらの細かな意匠に見いった。

「薔薇の絵は、皆こんな風に描いてあるだろう。真ん中に筒、それを幾重にもかさねて、十二単か着物の襟かのような花びらが、蓮の蕾のように先を尖らせて密やかだ。

 だが、本当に野に咲く薔薇は、こんな咲き方はしないものだ。もっと、いっぱいに開ききり、しべをのばして、光を浴びている。皆が絵で愛でているのは、未熟な咲きかけの花。十四、十五の娘だ」

 蘂をさらして満開になり、軈て花びらが落ちるのを待つ野生の薔薇に、人は見向きもしないのだと。

 百合彦に向き直った姉は、弟とよく似たかんばせで、きっぱりと宣言する。

「私は開ききった。此の身に光を享けて、錺の家を、道を生きていく」

 太陽を浴びた姉の、軍服の深緑が、紙の上の薔薇の葉よりも鮮烈あざやかに、百合彦の眼に灼きついた。一言一句、百合彦の脳裡に刻み込まれた、姉の決意。錺の薔薇そうびが、己れが目指してきた背中が、今眼の前に在る。

「こいつは幻術のたぐいだ」

 強張る舌に、何とか言葉を乗せた途端、風が吹いた森の中のように周囲の闇がざわめいた。この暗夜は虚無でなく、何かが其所に。察した百合彦は、数歩下がって姉と距離をとった。と、墨に硝子珠を落として沈んだように、その姿が揺らいで消える。あ、と思わず洩れてしまった声は幼い頃のままだった。

「……幻など。直ぐに消えるさ」

 己れにそう云い聞かし、百合彦は、絵葉書も姉も消えた頭上の闇へ向かって一歩踏み出した。

 脚や指に纏いつく、射干玉ぬばたまの闇が凝り、見えない妖しの森が広がっている。満開の野ばらの白が、夜空の星のようにあちこちでぽつりぽつりと光っている。姉の肌のように白く、百合彦の青褪めた頬と同じ色をしていた。花びら。不吉な、過去の気配。……

 百合彦は昇りつづけた。スカァトを摘まんで持ち上げ、一足ずつ急な段差を、上へ上へ上がりつづけた。天へ向かっているはずなのに、地獄への途を歩いているような爰地ここちがした。

 実際の高楼ならば、更に十階も昇った頃だろうか。瞼の直ぐ上を白が過り、はっと眼を瞠目みはった。

 桜が、花びらだけはらはらと落ちてくる。梢も、花房もみえぬ。ただ、白く不吉な花びらだけ。咲きみだれて溢れた花びらが、なみだのちいさな滝のように、階段の上より、あとからあとからほろほろと落ちてくる。そのなかに、幾つか薔薇のそれが交じっていることに百合彦は気がついた。屈み、膝を附いて拾った薔薇の花びらは桜のそれより肉厚で、人の肌のようなぬくもりがあった。

 白かったそれが、だんだんと薄桃色になり、軈て紅になっていった。おびただしい白と紅の洪水が袖や襟から入り込み、からだを舐るように張り付いた。両手で振り払って掻き分け、天を見上げて皮肉げに微笑した。

「お出でなすった」

 行く手を圧し潰すような桜のむこうに、人のかたち。

 十二単のごとく広がった真白の裳裾。波打ち際のように白い絹の重なりが、亡霊のように輪郭をぼやかして立っている。婚礼の白無垢だ、と気づくと、其れが揺らめきながら、少しずつ下ってきた。段々の小さな滝のように、花びらと一緒にするすると裳裾もおりてくる。百合彦は思わず身構えて、それから息を呑んで棒立ちになった。

 其の白無垢の中には、からだがなかった。空っぽの、ぬけがらが中空に突っ立っているのだった。

 虚空にゆらゆらと浮かび、花房が風に散らされるように其の形が頼りなく揺らぐ。その袖や帯や裳裾から、ぽと、ぽとと血が滴り、闇のなかに紅い斑点を浮かび上がらせた。ひゅるり、と風が吹き飛ばすように白無垢と百合彦をなぶる。蹌踉よろめきながら紅の沁みる裳裾にとりすがって、百合彦は叫んだ。

「姉上。姉上なんだろう」

 重みが掛かった途端に、ぐじゅりと着物の形がひしゃげる。姉の真っ赤な白無垢が、腐った薔薇のように崩れていく。闇にきえていく。

「姉上。待ってくれ」

 泪と声を吸った白無垢は、やはり空っぽだった。虚空から、真紅の血が垂れていた。白と紅の薔薇の花びらだけが、血を吸った襟からはらはら溢れた。

 白無垢を抱えあげようとしたが、血をおもうさま染み込ませた布地は重たく、百合彦の腕ですら持ち上がらぬほどに柔らかく地に広がって鉄の臭いを放っていた。仕方なしに、百合彦はその襟や袖に手を掛け、胸元に引き寄せると、ずるりずるりと裳裾を長く引き摺って、昇り出した。

 磨かれた靴が音を立てる。抱えた白無垢を引きずり、階段を登っていく。絹から溢れる血は真っ赤な薔薇となって、百合彦の軆を濡らした。

 荷を抱えたぶん、少し目線を下げて注意深く昇っていた百合彦は、ふと頭上が仄かにあかるくなったような気がして顔をあげた。

 階段の上に、花の帷をめぐらして、白い桜が咲いている。幹は見えぬ、朝靄のような花の雲だけである。隙間からは変わらず濃密な黒ばかりがのぞく。……魍魎ばけものの無数の眼のように。

「幻だ」

 云いながら膝に力を込める。百合彦はよく解っている。化かされるのは、心の奥底で其れを望む心が消えぬからだ。然し、望んだとて叶うものか。こんなのはゆめまぼろしだと、姉にも、姉の屍にも二度と逢えぬと、何よりもよく解っている。

 なのに、なぜ、消えぬのだろうか。

「姉上は死んだ。十三年前に騙に殺されたのだ。僕が今背負っている此れは、幻だ。

 姉上は死んだ。僕が姉上の跡を継いだ。錺の名は百合彦のものだ。姉上は、薔薇そうびの姉上は、独りで立ち、独りで闘い、死んだ。だから、僕も、独りで立つのだ。幻など知らぬ。僕が望む幻など在りはしない」

 ざわざわ、ざわざわと、無数の眼が一斉に瞬く。嘲笑うように、言葉と裏腹に白無垢を引き摺っていく百合彦を視て、口々に問う。

──ならば。

──ならば。

──あの男は誰だ。

 百合彦は俄に天を振り仰いだ。色を失なった脣が、声無く震えた。髪が張りつく白い頬を、冷汗が伝う。

 花の向う、またも立ち姿。

 つめたい風が吹き、全身が総毛立つ。薄墨桜が吹き散らされ、花靄が消えていく。ずるり、と、汗で白絹が滑った。

 闇に広がる桜の下には、墨染の衣をまとった、男の後ろ姿が見えた。

 丈が高い、百歳の老人のような白髪の男である。真冬の森のように、闇のなか、不吉な銀色にかがやくその白い髪は、どこか炎のようにも見えた。

 百合彦は足を止めた。踵の下でぎしりと板が軋む。白無垢から立ち上る血の匂いが生々しく鼻をついた。

 男は、少しだけ軆を此方へ向ける。鼻筋が見えるか見えないか、というほどに肩を引いた其の姿勢から、男が何かを胸に抱えているのが判った。

 何處からともなく闇夜に風が吹き、男の白い指の隙間から、が宙を舞った。

 男は首を抱いている。

「姉上……」

 百合彦は呟き、もう一歩段に爪先を掛けた。ぎしり、と、軋みが大きくなる。男は振り向かぬ。足許には雪のように桜が降り積もり、生々しい湿り気と情感を踏んだ靴越しに脳髄までしみとおらせた。ぞわり、と背筋が粟立つ。

 記憶が甦る。

 嵐の前触れのような、つめたい風。しゃんら、しゃらしゃらと、青白い月に重なる、散りゆく桜の花びら。

 憶えている。

 あれは触れようとしたら切れて血が噴き出しそうな月をした、春の夜。黒く沈んだ甍の波、人の眼には見えぬ宵闇の中空を駆け、森の向こうへ姉の首を持ち去った、獣。

 姉の愛した、獣。

 男は、此方を振り向いた。百合彦は一瞬、炎で軆が膨らんだような気がした。

 若く、美しく、悲しげなかんばせ。雪の色した白髪には似つかわしくない、姉と似合いの、どこかしら性というものを超越したような端正なる面立ち。

 そのとき、っと血の臭いがする風が吹き、狼の牙のように、無数の花びらが剣呑な銀色にきらめいた。その花びらの刃が一斉に舞い上がって百合彦をめしいらせ、咄嗟に彼は腕で右眼を被った。

 男はその一瞬で花風を蹴り、猛々しい仕種で跳躍した。黒い羽織が翼のように翻り、その裏地の鮮紅からくれないが左眼をいた。

 百合彦は段差を飛ばして駆け出し、叫んだ。

「姉上の首を返せ!」

 闇の向こう、はるか高い高い頭上に黒と紅がはらはらと舞っている。血飛沫のようなそれが頬を掠めて、首許に落ちた。

「お前が姉上の首を持っていった! 桜の森の外、闇夜の彼方に、僕の姉上の首を!」

 ぽつねんと見える紅に向かって、百合彦は叫んだ。白無垢の襟を掴んで引き摺りながら、何れ程はやく駆けようとも、墨染も、黒髪も、すべてが遠ざかってしまう。人には追えぬ、獣の足だ。

「答えろ、獣よ、桜の鬼よ!

 姉上は、お前を愛した。一度は捨てた女の愛を、お前に捧げようとした。お前は、そんな姉上を喰い殺したのだ。

 愛が、姉上を殺したのか!」

 喉も裂けよと叫んだ拍子、ふらり、と足が縺れて軆が倒れかけたとき、遂に男を見失なった。紅は闇に消え、跡形もない。残るは散り桜ばかりなり。その桜の敷き詰められた階段の上を、百合彦は病人のように気力だけで昇っていった。然し、一歩ずつ上がるにつれて、引き摺る白無垢が、ずしり、と重たくなっていき、軈て引き摺っていくことが不可できなくなった。百合彦は足を止め、一呼吸置いて、昏い闇の広がる背後を振り返った。

 白無垢のなかに、軆が入っている。

 緋色の半襟からは、喰いちぎられた痕が開ききった薔薇のようにくたりと拡がっている。そこには黒々した闇と骨がちらりとみえるばかりである。

 百合彦はがたがたと肩を震わせ、やっとのことで囁いた。

「姉上、薔薇の姉上」

 血潮にそまった白無垢がぞろりと雪崩れた。袖がうごめき、白い指が空を掻いた。頭がないから、顔がわからぬ。姉が、どんな顔をしているのかわからぬ。

「姉上は何と云ったんだい。最期に、何を」

 首がない姉の軆に、百合彦は肩越しに必死で呼び掛けた。絢爛な帯が緩み、銀糸のきらめく白無垢が、階段のしたに雪崩落ちていこうとしている。百合彦は腕を伸ばして、その重たくて柔い塊をひしと抱きしめた。

「姉上を殺した男に、何と云ったんだい」

 答はない。白無垢の屍は、不意にまた力を失なって、くたりと萎れた。

 百合彦は、血の紅が滲むほど唇を噛み締めた。

 紅と白の裳裾が広がる、眼下の闇のなかから、みえない手がのびてくる。それらは、海の藻草や、亡者の腕のように、百合彦の足や薔薇の屍を掴んで夜の底へ引きずり下ろそうとしてくる。百合彦は周章あわてて薔薇の白無垢を自分の方へ引き寄せ、立ち上がった。

──錺の女武者が、騙に殺されたと。

──あの男装の。それはまことに……。

──女の身で弓もて、闘いつづけるからだ。

──二十五も越えて、貰い手もおらぬ板額御前。

──愚かな。

──愚かな。

──女の身でつつもて、闘いつづけるからだ。

──女ならば、家など継がず、嫁いで子を産み、貞淑に、人を愛して生きればよかったものを。

──女などに、名跡させるものだから。

──可惜あたら命を。

 百合彦は怒りと憎しみに震えながら、闇の底を睨んだ。蠢く手、手、手……蒼白い桜と月の色をした、無数の手……。

 首のない軆を背負って、桜を踏みにじり、百合彦は階段を昇り始めた。

「姉上を嗤い者にはさせぬ」

 血に濡れながら、百合彦は昇り続けた。足首を伝った血が、階段に道筋を画いた。磨かれた靴が濡れる。真っ赤に染まる。愛と憎しみによく似た、誇りの流す血潮であった。

「姉上は、つよい。女だてら、などではない」

 女としての生を捨てたと影で囁かれた姉。靭く、鋭い、満開の野生の薔薇。

 歯を喰いしばって、真夏の百合のように背筋を伸ばす。先の見えぬ闇を見据え、一歩ずつ昇っていく。

 錺の誇りを継いだ姉を、女を捨てたと嗤った者どもに。

 愛に殺された愚かな女だとは、言わせぬ。

 紅の裳裾が百合彦の足にまとわりつき、やがて金や銀や紫の、美しい天上の華を画きはじめた。この世のものとは思えぬほど、美しい衣裳。錺の誇り。男の戦装束をまとい、女の花盛りを装う生き方。

──薔薇の跡は誰が継ぐ。

──弟だ。錺の、長男だ。

──あの。

──男の癖に、女の恰好をした。

──狂女きちがいのように、気味の悪い目をした。

──あの、男娼のような……。

 脣から滲んだ血が、靴の先にぽとりと垂れた。眉間が燃え上がるように熱く、脳が沸き立つようだった。怒りで震える軆を抑えて、唯まっすぐに胸を張る。

 嗤わせぬ。

 この魂だけは、ぜったいに。

 ぽと、ぽと、と垂らした血が胸元や膝に落ち、黒に吸い込まれた。声はまだ耳許で聞こえ続けているし、手は足首を掠めて姉の裳裾を曳いていこうとする。

「姉上は、愛に死んだ。誰も知らぬ、遅き秘めた恋心ゆえに死んだ。

 愛とは、なんだ。

 恋とは、なんだ。

 色や、情とはちがうのか。それとも、すべてはおんなじなのか。男の愛と女の愛はちがうのか。其れなら、姉上の愛は何だったのだ」

 血で真紅に染まった脣で、純粋な呪詛のように百合彦は喘いだ。薔薇を吐くがごとく、詞と一緒に血が落ちる。

 遠くで、星より小さな光が瞬いた気がした。其れは須臾しゅゆより猶短く、桜の花びらがひらめいただけかもしれなかった。然し、奥歯を噛み締め、血が滲みた靴で踏ん張る。倒れてなるものか。此のような、あとさきも見えぬ、幻ばかりの幽明境も判らぬ暗闇で。

 抜け出さなくては。

 光へ。

 思いを血のように滴らせ、百合彦は昂然とおもてを上げる。

「あの日から、僕には愛がわからぬ。恋がわからぬ。色が、情が、心がわからぬ。

 だが、僕は、錺の当主として、生きなければ。愛を知らずとも、立ち続け、闘い続けねばならない。其れが我が名の天命だ。

 野に咲く薔薇のように、真夏の百合のように。愛を知らぬ此の身を、名跡と誇りで飾るのだ……!」

 針の穴から洩れるような光が、徐々に近づいてくる。螢火のように小さかったそれは、だんだん大きくなって、花びらはその光に流されて、背後の闇の底へ滝のように落ちていく。それにつれて、取り巻く黒い夜は、泥のように百合彦の軆にねっとりと纏いついてくる。箱に満たされる水のように迫ってくる暗闇から、百合彦は半ばまろぶように抜け出た。

 瞼を射る澄んだあかるさのなか、暗闇の途の最期に固く瞑っていた眼を開ければ、そこは見慣れた墓地の入り口であった。頭上には蔭をつくる樹冠、梢から洩れいづるは夢のような白い光。

 甃をちらちらかすめる木洩れ日を浴び、目映さにぼうっと眼を細めて、百合彦は立ち尽くしていた。どこまでも散った桜でつくられたように、淡く美しい景色だった。足許に落ちる、白無垢と彼の脣から滴る血ばかりが鮮烈あざやかであった。

 今よりもしっかりとした石段に、未だ数の少ない卒塔婆。旧い記憶にある寺や卵塔場と同じだ。

 そして、記憶にある姿がもうひとつ。

 まだらの光落ちかかる木陰に、姉の背がみえる。首はきちんとついている。髪が最期の記憶よりも大分短く、白いうなじが見えていた。

 姉はなにも敷かずに木箱に腰掛け、まだ幼い小児こどもが、その靴を磨いている。百合彦の背中の白無垢は、いつのまにか空っぽであった。

「なあ、少年」

 姉が親しげにかけた声に、百合彦は身体が甘ったるく麻痺したような気がした。沁みいるような懐かしさと、身を切るような淋しさ。なんと慕わしい、燃えるような心!

「お前は奇麗な眼をしているな」

 小児の顎に触れ、瞳の奥を覗き込むように両眼を真っすぐ見つめる。照れた子は「めはいいよ。とおくのものもみえるもの」とだけ云い、直ぐに眼を逸らして、復た真剣に靴を磨き始めた。姉は意味を取り違えた小児の言葉も気にせず、続けた。

「眼が良いからか、腕も良い」

 誉められ、小児は擽ったそうに頬を擦った。耳が紅くなっていて、手には力がこもっている。

「お前の磨いた靴ばかりみていたくなるから、道に迷ってしまいそうだ」

 そこまで云われ、小児は、甃の土で汚れた顔をあげて莞爾にっこりした。その爽かな面差しに、アッと声をあげて百合彦は立ち竦む。あの白いかんばせを、己れは知っているのだ。

「かぶんなおほめのことばを」

 大人の言葉を聞き齧ったのだろうおさない口調に、姉は唇を綻ばせる。百合彦はふらつきそうになって、危うく立て直した。あの桜の莟がほどけるような笑みを何度夢に見たろうか。帰ってきてほしい、また微笑んでほしいと、夢で泣きながら鏡の前で、紅を引いた自らの脣が記憶を真似て浮かべる微笑みは、奇妙なことに、そっくりのかんばせをした姉とは全く似ていないのだ。

 姉は優しく小児の頭に手を置いた。

「美しいものは、人をまよわす」

 かちり、と姉が腰に佩いた太刀が音を立てた。靴磨きの小児に、何か異質なものを視たのだろうか。姉は、噛んで含めるように云い聞かせた。

「道を誤るなよ、少年。お前は人をまよわせることができる。だが、まよわすだけが、お前の才ではあるまい」

「みちを、あやまる? まよわすのは、いけないことなの」

「そうだ。…いや、そうでもないかな。…いや、いけないということでは……然し、お前の人生だからな。うん。私が決めることでは無いのだろ、う………」

 口が上手くない姉は考え込んでしまい、小児は首を傾げた。無言になると、しゃらしゃらと、鈴のような桜の音が聴こえる。此の二人がいる季節は、春なのだろう。百合彦は堪らず、背負っていた白無垢を胸元に掻き抱いた。

「お前はきっと、もっと力を手に入れる。そうしたら、お前の好きに生きてみろ」

 力を得るなど想像もつかないと云うように、小児は姉を見上げて問うた。

「なにをしたらいいんだろう」

 其の無垢な問いに、姉は眼を細める。遠い日、かつて己れに向けられたものとよく似た優しい眼に、百合彦は、ああ、と嘆息した。姉が春の日の下で、微笑む。しゃらん、と、どこか遠くで音がした。

「そうだな。私の持論だが」

 白無垢がほどけて、裳裾から花びらになっていく。軽くなり、魂が蝶になって羽ばたくように、百合彦の腕の中から天へ去っていく。

「人は、人を愛するものだ。其れは名有りだろうと、名無しだろうと変わりない」

 腕の中が空っぽになるのと同時に、姉の声が、頭のなかに響いた。

 足元をつめたい風が駆ける。目前の春の幻が、桜の密雲が散っていくように端からぼやけていき、姉の姿も、小児の姿も、水面の花びらのように暗闇の向うへ溶けた。

 脣から、ぽと、ぽと、と血が垂れる。磨き込まれた靴が汚れ、人を斬った刀のように闇に光った。

 空っぽになった胸に、血の薔薇が咲く。其れは、花びらが開ききった、野に咲く一輪と同じ形をしていた。

 百合彦は蹌踉めき、花びらが落ちるようにくずおれる。闇夜の底へ落ちていく最中、薄れゆく意識のなかで、静かに思った。

 嗚、かえらなければ。

 姉のいない、独りきりで立つ、舞台へ。

 かえらなければ。


 しゃらん、と、鈴が鳴った。


 懐かしい鈴の音に、ふと薄眼を開いた百合彦は、墓地の石段の中途で倒れ臥していた。

 軆を持ち上げると、腕には疲労の痺れがあった。太刀を何れ程振り回しても疲れぬ軆が、此れはいったい、と百合彦は腕を持ち上げて、其れからどこかへいってしまった荷物に思い至って、其れから……服を見下ろして、眉宇に皺を寄せた。

 百合彦の恰好はまるで追い剥ぎに襲われた後のようだった。黒髪はざんばらで背に垂れ落ち、衣裳は血で汚れ、靴は磨かれた様子の跡形もなかった。夏草が肌を引っ掻き、手首には傷が出来ている。顔の横には、野花に混じった百合の莟が、彼の惨状を他所に瑞々しく、天を仰いで揺れていた。

「おぅい。……」

 男の声がして、百合彦ははっと辺りを見回した。

 靴磨きの若者が、階段の下に、紫色の風呂敷包みと涼傘を提げて立っていた。声を張り上げた拍子に黒髪が肩に流れ、風に揺れている。

「おぅい、お姫様ひいさまよ……」

 呼ばわる声が、ざわざわと雑木林の騒ぐ音に混じって届く。百合彦は立ち上がって、裾をからげて、ゆっくりと段を下り出した。靴の先に附いた銀の薔薇は黒ずんでいた。

 下の方まで降りてくると、惨憺たる百合彦の恰好に若者は顔を顰めた。

「大丈夫かよ、あんた」

「うん、平気だよ。些かね、…夏の陽炎まぼろしにまよってしまったのさ」

 若者が風呂敷を脇に抱えて、百合彦のほうへのべた手をそっと取る。覚束無かった足取りも、階段を下りていくうちにしゃんとして、すっと背筋を伸ばして立つことが出来た。

「それと、其の呼び名も止してくれ。僕が男なのは承知だろ」

「けど、他に呼びようが無いだろ。あんた、お姫様みたいな服を着ているし、さ」

 若者はどこか決まり悪そうに、百合彦の汚れた黒いドレスを見た。血の臭いが初夏の陽射しに、目眩がするほど立ち上っていた。

「変だね。僕は怪我なぞしていないのだけれど」

 裾を摘まんで首を傾げた百合彦に、何故かばつが悪そうに眼を泳がせながら、若者は帯代わりに腰に巻いていた布のなかで、最も清潔そうなものを外して渡した。百合彦は驚いたが、其れを受け取って礼を云った。

 ドレスを拭って血を擦り落とそうとする百合彦を横目で見やりながら、若者は低い声で呟いた。

「あんた、司書部隊の人だろう。初めから判ってた」

 若者は、ちらりと奇妙な目遣いで、百合彦を見た。青竹のような清々しい外見に似合わぬ、真っ黒な瞳。

 闇夜の匂い。

 揺らぐ夏の、まぼろしのような眼。

 百合彦は其の眼を見つめて、嫣然と微笑した。薔薇の咲くような、美しいかんばせであった。

「君も、騙だろう。判っていたさ。…少年」

 若者は軽く眼を瞠目って、其れから、泣きそうな表情で苦笑した。

 其のとき、青葉を蹴散らすような夏の熱風が、寺の方から吹き下ろしてきた。空気がふたりの間で渦巻き、髪が激しく顔を打ったために堪らず若者は眼を閉じた。

 瞬きした後、過ぎ去ったつむじかぜは様々な光景を一新させていた。

 百合彦は最早、黒い喪のドレスではない。深緑の軍服にサーベルを佩き、豪奢な薔薇の形をしたスカァトを翻す。

 若者は僅かに吃驚いた顔を見せたが、直ぐに風呂敷と涼傘を差し出した。受け取った百合彦は礼を云うと、スカァトの裾を持ち上げ、踵を返した。そのまま、もう一度墓地の方へ歩き出した彼の靴は、磨きあげられた銀の薔薇の靴だった。

 その背を見送っていた若者を、不意に石段の中途で振り返る。若者の姿に気がつくと、真夏の百合のように背筋を伸ばし、美しい笑みを浮かべた。

「なあ、靴磨き、名無しの若者よ。君を何と呼べば良い」

 青葉の下で、若者は応えた。

「まよわせ、さ。遠い昔から、そう名乗っている」

 黒い瞳が、花のしたたる闇夜のように、爽かなかんばせのなかでふたつ、妖しい力を宿していた。百合彦はその色を見て得心する。姉が見たのは、此の萌芽だったのだろう。

「あんたの名前も教えて呉れよ」

 真っすぐに眼を見つめて問われ、百合彦は胸に手を置き、息を吐いて名乗った。

「錺と呼ぶと良い。僕は、錺の百合彦だ」

 其の瞬間、つめたく、しかし骨の髄まで懐かしい春の風が、──ふたりの間を吹き抜けた。青葉がざわめき、光は白く霞む。

 しゃらん、と、どこかで銀の鈴が鳴り。

 百合の莟が、揺れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

百合の惑い しおり @bookmark0710

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る