玄関の音

ギア

玄関の音

 夜の0時も過ぎた真夜中だった。玄関から鍵穴に鍵を差し込む音が聞こえた。


 最初は、同じアパートの住人が酔っ払って部屋を間違えたのだろうと思った。何しろこの安アパートは、俺が住んでいるこの1階も、粗末なトタン屋根に覆われた階段の上の2階も、全てまるでコピペしたように玄関の見た目がそっくりなのだ。


 だから怖いという思いはなかった。むしろ気になったのは別のことだった。その後の鍵穴をガチャつかせる音が思ったものと違ったのだ。


 てっきり合わない鍵を無理にガチャガチャと苛立たし気に扱う乱暴な音ではなく、それはまるでだったのだ。


 大学に入ってからすでに1ヶ月程度が経過して友人も出来てきたとはいえ、さすがに合鍵を渡すほどの親しい友人などいやしない。


 盗まれそうな金目のものなどない部屋とはいえ押し入られるのはごめんこうむりたかった。俺はスマホをちゃぶ台に置くと、ことさら足音を立てながら玄関へと向かった。


 玄関先はひっそりと静けさが戻っていた。もう立ち去ったのだろうか。おそるおそる覗き穴から見た外に人影は無かった。ノブを回すまでもなく鍵はかかったままなのが分かった。


 このときはまだ、数日前の出来事とこの音のことを結びつけるようなことはなかった。この夜のことも次の日の朝には忘れていた。


 思い出さざるを得なくなったのは、またしばらく経ってからの朝だった。


 鞄を片方の肩にかけつつ、慌ただしく玄関のスニーカーをつま先に引っ掛ける。1週間で唯一1限目から授業を入れている月曜の前日に限って夜更かししてしまう癖がいつまで経っても治らない。


 外に出て玄関を閉める。ジャケットの内ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。回す。錠が下りたことを確認するために何度かノブを回してから鍵をポケットに戻した。


 自転車置き場へと向かうべく玄関に背を向けた。


 そのときだった。


 玄関の向こう側、俺の部屋の中から足音が聞こえた。


 そんなはずはない。


 俺は1人暮らしだし、たった今、出て来たばかりのその部屋の中に人がいないことは俺が一番良く知っている。


 身を固くしている俺に気づいているのかいないのかは分からないが、中の人物は足音を忍ばせる様子もなく玄関へと近づいてきた。そして足音が止まる。


 俺は、少しためらったあと、つばをゴクリと飲み込み、軽くノックをした。


 返事は無かった。


 さっきしまったばかりの鍵をゆっくりとジャケットから取り出す。鍵を開ける前に、もう1回だけノックをしてみた。返事は無かった。俺は意を決して鍵を開けた。


 開けた扉の中は空っぽだった。俺は授業に遅刻した。


 それからまた数日経った、ある夜。もう風呂にも入り、寝るかと押入れから布団を引きずり出していたときのことだった。


 鍵をかけてあるはずの玄関からがした。


 どういうことだ。俺は混乱した。俺は今日帰ってきてから間違いなく中から鍵をかけた。誰かが押し入ってこようとして鍵を開けるなら分かる。どうして鍵を閉める音がするんだ。


 ためらいつつも腰を上げ、腹を決める。俺は足を忍ばせることなく、あえて相手に聞こえるように玄関へと歩を進めた。


 玄関の覗き穴に顔を近づけようとしたとき、遠慮がちなノックが廊下に響き、そして止まった。


 気づく。俺はこのノックの仕方を知っている。まさかと思いつつも、その特徴あるノックのリズムは今まで数限りなく聞いてきたものだった。


 俺がノックするときのリズムだ。


 もしそうなら、と汗ばんだ手を握りしめる。もう、俺の想像が当たっているなら、またすぐにもう一度、ノックの音がするはずだ。


 この前の朝、部屋の中から足音を忍ばせる様子もなく近づいてきた何者かに対して俺がそうしたからだ。


 そして同じリズムのノックの音。


 このあとはどうした。そう、


 まるでその考えを待っていたかのように、ガチャリと鍵が回される音が静まり返った深夜のアパートの部屋に響いた。息を殺してただ待つ俺の前で、しかしドアは開かなかった。


 あとで時計を見たらわずか5分かそこらだったようだが、そのときは何時間もそのまま身構えていた気がした。


 ようやく動かせるようになった体の腕を伸ばし、まるで静電気がくると分かった上で触れるかのようにそっと手を当てたドアノブをつかみ、捻る。


 鍵はかかったままだった。


 その後の朝と夜は、ドアに背を向けるのが怖かった。目を離した隙に何かが起きるのではないか。次こそが扉を開くのではないか、と恐れた。何が起きるのか、何者とは誰なのか。自分でも分かっていなかった。分からないことが怖かった。


 鍵を閉じて出かけるときも、そして寝る前も、つい自然と玄関の反対側に意識が向いた。何も起きないことを確認してからようやく背を向けることが出来た。


 最初の数週間は緊張を解けなかった。その次の数週間もわずかな物音に反応して弾かれたように振り向くことが何度もあった。


 そして数ヶ月が経った。


 日々の、もっと現実的に差し迫る問題の数々に神経を使っているうちに、起きるかどうかも分からない怪奇現象にまで振り向ける余裕はなかった。忘れたわけではない。ただ数ある悩みの中で日々を追うごとに優先順位を下げていった。


 今ではそれは順位の奥底に潜み、滅多なことでは表に現れなくなっていた。


 それが数ある悩みを押しのけ、また目の前まで這いのぼってきたのは秋の初めだった。夏が過ぎてまだそれほど経ってはいないと教えてくれるかのような残暑の厳しい日々。


 朝、玄関から外に出た瞬間、全身を包む熱気に顔をしかめた。家に帰ってきたとき、部屋の中がどれほどの暑さになっているのか考えたくもなかった。


 早くも吹きだした汗をぬぐいながら玄関に鍵をかけた。


 いや、鍵をかけようとした。


 そのとき、誰もいないはずの部屋の中から音がした。


 これは例の、と思い返す暇もなかった。


 床をぶち破らんばかりに叩きつける駆け足が玄関へと迫り、突然止まったかと思った直後、激しく室内の壁と床に何かが荒々しく叩きつけられた。何度も何度も何度も、その何かが原型を留めずに何だったか分からなくなるまで破壊するためであるかのように、衝撃は続いた。


 最後に、片手で余るほどの太い枯れ枝を思い切りへし折るような鈍い音がしたあと、玄関に力いっぱい何かが叩きつけられた。目の前の扉は、その心臓が止まりそうなほどの暴力的な破裂音に反して、ピクリとも動かなかった。


 あとに流れる静寂が、なぜかひどく耳に痛かった。


 動けないまま時間が経った。


 視界の端で何かが動いた。びくりと目を向けた。


 そこには隣の部屋の住人が、少し開いた玄関からこっちを見ていた。その相手の視線から2つのことが分かった。


 下を見るその角度から俺が知らずに地べたに座り込んでいたこと。もう1つは不安そうに俺の部屋の玄関を見るその表情から、あの音が俺以外にも聞こえていたということ。


 俺ははいずるように立ち上がり、隣人の不審なものを見る眼差しに弁解の言葉を述べる余裕などもなく、自転車置き場へと駆け出した。


 その日の晩は深夜も営業しているファミレスで過ごした。その次の晩からは、近くの友人宅を泊まり歩いた。服や下着は借りたりコンビニで買ったりしてしのいだ。


 ようやく下宿先へと足を向けることができたのは、例の出来事から1週間が経ったあとだった。それは携帯にかかってきた大家からの電話がきっかけだった。


 大家の家に上がると、リビングには見慣れない人たちがいた。彼らは警察のものだと名乗った。


 混乱したままの俺に彼らは穏やかな声でいくつか質問をしてきた。俺の下宿先の部屋番号の確認、最近は自室にいなかったかどうか、そして一昨日の夜にこの近辺にいたかどうか。


 ここ数日帰って来なかった理由については単に遊び歩いていただけだと答えた。説明できる気がしなかったからだ。それ以外は全て正直に答えた。一昨日の夜にこの近辺にいなかったことは、友人に電話で証言してもらえた。


 一通りの事情聴取が終わったところで、ここまで来たら、と自分の部屋に戻ろうとしたが大家に止められた。しばらくは入れないとのことだった。


 そこで、そもそもなぜ呼び戻されたのか分かっていなかった俺は、ようやく何が起きたのかを知らされた。


 一昨日の夜に俺の家に忍び込んだ空き巣とおぼしき男が、玄関を背にした格好で死んでいた。顔も体も、重く固い鈍器で原形をとどめぬまでに滅多打ちにされていた。今も身元の特定は難航しているらしい。


 その犯行現場から想像されるような大きな音を近所の人たちは聞かなかった。大家が部屋を開けるに至ったのも音による苦情などではなく、玄関の扉の下から漏れ出した血の赤だった。


 玄関に寄りかかるように倒れていたことから犯人の逃走経路は奥の窓しかあり得なかった。しかしそこには内側から鍵がかかっていた、というのが最初に扉を開いて中を見た大家の言葉だった。


 根拠はなかった。しかし俺には分かっていた。


 怨恨とかそういうことじゃない。その男の死因は、その日そのときにその場にいたことだ。誰でも良かったのだ。


 そのとき、その場所ではのだ。起きるべき音は決まっていた。そして起きた。


 しばらく入れない、という説明を聞かされたときにはすでに引っ越す決心は固まっていた。家主も引き止める様子はなかった。諦めていたのだろう。


 幸い、大学を挟んでほぼ反対側に同じくらい家賃の部屋がすぐに見つかった。


 新しい部屋に移ってからしばらくは鍵をかけるのが怖くてしかたがなかった。数週間が経過し、さらに数ヶ月が経ったところでようやく慣れた。


 おかしな音を聞くことはそれ以来、ない。

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