3-15 人魚に涙はない

 シェスティンは窓に群がっている男たちを数人なぎ倒して、腕や足を切りつけておいた。息の根を止めるには人数が多いし時間もない。追ってくる時間を稼げればそれでよかった。

 何が起きたのかよく分からないという顔をしている男たちも、すぐに我に返って武器を手にする。彼女は長くて動き難いスカートに迷いなく切れ込みを入れた。

 そのまま窓枠に飛び乗り、外へ飛び出す。

 パァン、と聞こえた発砲音に空中で顔だけ向けると、見張りの男の悔しそうな顔が見えた。

 彼が無事だということは、威嚇だったのだろう。意外と優しいんだなと、彼女は口元をほころばせた。


 雪に埋まった体をなんとか抜き出し、シェスティンはモーネの足跡を追う。

 街の方に行けと言ったのに、それは屋敷の裏から海の方へと向かっていた。

 スヴァットが一緒だから無理はさせないと思うのだが……


 モーネは、掴まってるもうひとりも助けたいと言っていた。きっと彼女の方が辛い目にあってるのだと、拳を震わせて。

 屋敷内を歩いているスヴァットは、別棟にも他に人の気配は無いというし、行けてないのは地下くらいだが、そこで取引等してるなら、見つかりたくないものを置くはずがないと自信たっぷりに言った。

 他に人を閉じ込められるような場所は……と考え込んだ時、モーネは浜に小屋があると教えてくれた。

 屋敷の裏手から小さな浜に下りられるのだと。そこから自分たちはここに来たのだと……

 プライベートビーチになっているその浜に小さな小屋があるなら、確かに可能性はゼロではない。ちゃんと確認しに行くから、と伝えたのだけれど……


 その『もうひとり』が人魚なのだろうとシェスティンは自然に思えた。そう考えたとき、海の近くに閉じ込めるというのは逃げられるリスクがあるとは言え、理に適っている気もする。

 モーネでさえ、何も言わなかったのに週に何度か海水で沐浴させられていたというのだから、人魚には海水が欠かせないと思い込んでいたに違いない。


 足跡は一度浜に突き出している崖の先端に向かっていた。

 追手の気配を感じていたシェスティンはあえてそちらに向かう。辺りは暗い。彼らは気配のする方、あるいは彼女の足跡を追って来るだろう。

 シェスティンは恐らくモーネがしたように、先端で浜を見下ろす。

 雲の薄いところから月明かりが漏れて、浜に下りる道を挟んで向こう側に、確かに小さな小屋が見えた。煙突からゆらりと立ち上る煙に人の気配を窺わせる。


「おいっ! 動くな! 娘は何処へ行った!?」


 追いついてきたチンピラ風の男たちは手に手にナイフをちらつかせながら、ゆっくりとシェスティンに近付く。


「さあ。ワタシも探してるんだ。あの小屋に誰がいるのか教えてくれたら、彼女を見つけて連れてこよう」

「あぁん? 今更、そんな言葉を信じると思ってんのか!」


 じり、と差を詰める男をできるだけ引きつける。巻き込めるのは三、四人というところか。それでも追手の半数程度にはなる。上出来だろう。

 一人目が突き出した腕をとり、反動を利用して体を入れ替える。勢い余った彼は情けない声を上げて崖下へと落ちて行った。


「……てんめっ!!」


 かっとなった男たちのナイフを一歩二歩と下がりながら避ける。馬鹿にしたように笑ってやれば、容易に殺意が膨れ上がった。

 地が揺れる。

 一度目よりは小さいそれも、シェスティンの『呪い』が呼べば先程耐えた力に屈する。浜から見れば、突き出した部分に亀裂が広がるのが見えたかもしれない。

 揺れの中、シェスティンは後ろへと跳んだ。

 揺れる足元が崩れていく様子に驚愕の表情を浮かべる男たちに、追いついてきた見張りの男が手を伸ばす。その足先も崩れて落ち、男が慌てて少し下がるのが、差してきた月明かりに照らされてくっきりと見えた。再び、目が合う。


 胃の浮くような落下感にシェスティンは少しだけ顔を顰める。落石や岩の塊に当たらないようにと跳んだが、雪の積もった浜とはいえ相応のダメージは覚悟しなければ。来たるべき衝撃に身体を固くする。

 一瞬、月明かりを纏った黒い影が目の端に動いた気がした。

 シェスティンがそれに顔を向ける前に、彼女は空中で何かに抱きとめられていた。そのまま一緒に落ちて、雪の中に倒れ込む。

 ガラガラと岩の欠片が飛んでくる中、その手はシェスティンを庇っていた。


「う、ぉ。無理だった! カッコ悪ィ」


 シェスティンを抱き起こして、酷く軽い調子でぼさぼさした長めの髪をかき上げると、男は呆けて彼を見上げているシェスティンに、にっと笑った。綺麗なブルーの双眸が弧を描く。

 浜に打ち寄せる波の音に『愛してる』と囁く声がいくつか絡んで寄せて、返っていった。


「痛い思い、しなくてよかっただろ? あんま、無茶すんな。……なんだよ。そんな格好で見つめられたら、誘ってんのかと思うじゃねーか」

「だ、れ?」


 よく見ると、彼は服を纏っていない。

 彼の膝の上に乗っているのだと気付いても、シェスティンはなんだか動けなかった。

 青い瞳が彼女を映しながらその指で彼女の頬をなぞる。

 乾いた銃声と共に月明かりが消えた。

 その瞬間、シェスティンを支えていた腕も足も消え失せ、彼女は冷たい雪に背をつける。なーん、と残念そうな声。


「……スヴァット?」


 闇とほぼ同化している黒猫は、呆然としているシェスティンを頭で押し付け、起きろと促した。追手の残りが浜に下りてくる。のんびり寝ている暇はなかった。

 岩に挟まれた死体を覗き込みに向かうスヴァットを目で追って、シェスティンはふぅ、と一息ついた。

 気持ちを切り替えて、小屋へと走る。


「モーネ、どけろ!」


 一生懸命、ドアを押したり引いたりしていたモーネは驚いてドア前から飛び退いた。

 シェスティンは走ってきた勢いのまま、そのドアを蹴破る。

 ぎょっとしたまま固まるモーネに、彼女はにやりと笑って見せた。


「中にいろ。終わったら声を掛ける。押さえられるものがあるなら、ドアの前に置いておけ」

「……シェス?」

「ああ。本当はレディは柄じゃない」


 片目をつぶって促す彼女にモーネは引きつりながらも少しだけ笑った。

 背中にドアの閉まる気配を感じながら、シェスティンは息を弾ませる男たちと向き合う。一番後方にいるのは銃を手にした見張りの男だった。


「大人しく、そこをどけ」

「断る」


 武器を構える男たちに、シェスティンは薄く笑った。


「あなた達の大将はもういないだろう? 彼女達はワタシがもらいうける」

「っるっせぇ!」

「っ! 殺すな!」


 短気な若者が突っ込んでくると同時に、見張りの男は叫んだが、彼が聞いているとは思えなかった。

 大振りで振り下ろされる短剣を見定め、左手でその腕を掴む。少し身体を引きながら勢いを利用して右方向に引き下ろすと、彼は簡単に体勢を崩した。

 露わになった首筋に逆手でナイフを叩き込む。ほんの数秒の出来事に他の誰も動かなかった。


「残念だが、向かってくるのならワタシは手加減できない。そちらが手加減してくれるのは歓迎だが」


 動かなくなった男の手を投げ捨てるように離すと、男たちの目の色が先程までのシェスティンを見る目と明らかに変わっていた。

 見張りの男以外の手下は残り二人。一人ずつなら恐らくそれほど苦ではないだろう。所詮、町のごろつきだ。

 シェスティンは見張りの男に視線を移す。

 苦虫を十匹ほどいっぺんに噛み潰したような顔をしている。


「ずいぶんと欺かれたもんだな。主には逆らうなと、言ったのに」

「人聞きの悪い。逆らうなと言うから、逆らわなかった。その結果がどうなろうとワタシは知らない。彼はワタシが手に掛けたわけじゃない。それは、あなたが一番よく解ってるじゃないか。彼女が逃げたのは、その後だ」


 舌打ちが響く。


「……行け」


 銃口をシェスティンに向けたまま、男は低く呟いた。

 返事もなく男たちはするすると動き出す。挟まれまいとシェスティンも回り込んだ。

 一人目のナイフを弾くと、場所を変わるように後ろから別のナイフが伸びてくる。

 ぎりぎりで避けて、その背中を打ちつける。

 地に伏す男にとどめを刺す前に最初の男が再び迫る。体を捻って振り抜いた蹴りは運よく男の横っ腹にヒットした。が、叩きつけられた先が雪ではそれほど効いてないだろうな、と彼女は眉を顰める。


 続けざまの背後からの気配に、腕を目いっぱい伸ばしてナイフで牽制するも、軽く避けられて男は自身のナイフを振りかぶる。

 面倒臭いのでいっそ一撃浴びて油断させようかと、回避の動きを止めた目の前に黒猫が飛び込んできた。

 シェスティンも息を呑んだが、相手も面食らったようだ。攻撃の判断が少し遅れた。


「スヴァ……!」


 彼が口に何か咥えているのが見える。タイミングよく、雲間から刺した月の光にそれは反射してギラリと光った。

 月光がスヴァットの身体を縁取ると、瞬きの間に男の姿に変わり、咥えた短剣を手にして振り抜いた。横一線に淡い光の軌跡が見え、男は叫び声を上げながら両目を覆って、辺りを転げまわる。その腹を踏み抜く勢いで足で止め、男は顔だけ振り向いた。


「見惚れすぎ。そっち、終わってないぞ」


 彼の手の中でくるりとナイフが回る。

 確かに、先程蹴った男が横腹を押さえつつも立ち上がるところだった。スヴァット(?)と背中合わせになるように立つと、ずっと叫び声を上げていた男が、ひゅうと空気の抜けるような音と共に静かになった。


「……その恰好、どうにかならんのか」

「なるかよ。あっちの飛び道具にも狙われてるし、さみぃし、何か着たいのは俺だっつーの」


 シェスティンはちらりと空を見上げる。まるい月は半分雲に隠されていて、その浸食は続いている。


「毛皮は持ち越せないのか」

「持ち越したいね。毛皮さいこー。冬は。あんたも好きだろう?」


 最後に耳元に顔を寄せ、囁くように告げられる。


「つまり、毛皮の無いお前など無用だということだな」

「……は?」


 シェスティンは呆れたまま動き出す。ほぼ同時に銃声。

 相手の男は突然出現した裸の男に戸惑っているようだった。


「ひでぇなぁ。ちゃんと、働いてんのに」


 彼女の肩越しに短剣が飛んでいく。男がそれを弾いた時、月明かりが翳った。裸身の男の姿が闇に溶けていくことに気を取られて、男はシェスティンのナイフには無防備だった。

 胸に深々と刺したナイフを捻りながら抜き取る。


「あの男は何だ」


 銃口をシェスティンに向けたまま、見張りの男はゆっくりと彼女に近づいてきた。


「撃たないのか?」


 ドレスの裾で血糊を拭き取り、シェスティンは目の前まで来た男の喉元にナイフを当てる。男の銃口もシェスティンの胸にぴたりと当てられた。


「撃つさ」

「撃ちたくなさそうだ。雇い主はもういないんだ。何処へ流れるも自由だろう?」

「あんたには分からないだろうが、主はあれでも人望があった。働いた分の報酬はきっちりくれたし、ごろつきとも気軽に酒を交わした。この街の犯罪が抑えられてるのは、彼等を拾い上げて使ってくれる彼の影響もあったんだ」

「そうだろうな」

「分かっているなら、何故」


 ゆっくりと、シェスティンは首を傾げた。


「ワタシは何もしていない」

「あの娘に文字を教え、作法を教えた。主に笑顔を向け、それなのに冷たくあしらう」

「ワタシは仕事をしただけ。それを、どうこう言われても……」

「そうだ。あんたは仕事をこなした。俺達と、変わらない。変わらないはずなのに、何故飛び立てる」

「あなたも飛べる。忘れてるだけだ」


 男は皮肉めいた笑顔を浮かべた。


「飼われることでしか、生きていけない奴もいる」


 タァァン、と暗闇に乾いた音が響く。

 シェスティンのナイフが彼の首に食い込み傷つけるのも構わずに、男は彼女が崩れ落ちないように支え抱き寄せた。


「主がいなくなり、貴女が自由に飛べるなら、飼われている俺にはもう眺めることすら許されない」


 光を失った瞳に、男は唇を寄せる。


「自分で枷をつけるな。独りよがりはうんざりだ」


 瞬きひとつの後、シェスティンはナイフを持つ手を一気に引いた。

 男の瞳が一瞬見開かれ、それから満足そうに微笑みを浮かべる。

 噴き出した血が彼女の顔やドレスに赤い花びらを散りばめた。

 目元に飛んだ血飛沫をぐいと拭って、シェスティンは闇を見渡す。


「スヴァット、どこだ」


 パートにつけられたネックレスを力任せに引き千切って外し、真珠のペンダントヘッドを手に取る。そこにも飛んでいる血の跡を、丁寧にドレスの綺麗なところで拭った。


「ん、なぅ」


 若干、不機嫌そうな声の方へ、シェスティンは苦笑しながら真珠を放った。


「ほら。『人魚の涙』」


 闇の塊は空中でそれをキャッチすると、そのまま飲み込んだようだった。

 淡い光が、黒猫を縁取る。

 それも数秒で消え、それ以上のことは何もなくて、シェスティンはスヴァットを抱き上げて背中を撫でた。


「もう少しだな。さて、次は何処を探そうか。この際だから言っとくが、お前は喋らない方がいいぞ。モテたいなら、口を噤むことだ」


 肉球で頬を張られ、彼女は笑いながら小屋へ向かう。

 ノックして声を掛けると、そろりとドアが開いた。顔を覗かせたモーネはシェスティンを見るとぎょっとして、慌てながら小屋の中へと引きこんだ。


「け……怪我っ……」

「あ、違う。これはワタシの血じゃない。大丈夫だ。そんなに、酷いか?」


 小屋の中はランプが灯り明るい。スヴァットに聞いてみると、目を閉じられて、な、と同意された。

 オロオロするモーネの後ろから、桶とタオル、水差しが差し出される。視線を上げると、ゆるくウェーブした明るい金髪に深いブルーの瞳の美人が立っていた。歳の頃は十六、七だろうか。彼女はスヴァットにも目を向けて可愛らしく微笑んだ。


「ありがとう。助かる。ええ、と。あなたが人魚、なのかな?」


 ストーブの上の薬缶からお湯を頂戴して、水を足す。熱めのタオルは心地よかった。あちこちざっと拭いながら目を向けると、彼女とスヴァットはまだ見つめ合っている。


「足は……あるようだが」


 はっと、彼女が顔を上げた。


「これは、海の魔女にお願いして…………えっ」


 その美しい顔にぴったりの、鈴のような響きある声だった。


「えっ。えっ。なんで、声が出るの?!」


 頬に手を当てて、パニックを起こす彼女にシェスティンはモーネと顔を見合わせた。何かが足をとんとんと叩いている。

 見下ろすと、スヴァットがしまったという顔で自分の喉をちょいちょいと触った。


「スヴァット?」


 口は開くが、スヴァットの鳴き声は聞こえない。


「それは、呪いに属するのか?」


 知らないよ、というようにスヴァットは器用に肩を竦めて見せた。


「解き方は?」


 こくりと頷く様子からは、それほど難しくないのかもしれない。

 シェスティンは一息つくと、ぽかんと見ている二人に肩を竦めて見せた。


「だ、そうだ。心配しなくていい。声の出ない呪いはスヴァットが持って行ってくれる」

「え? 呪い? 呪いだったの?」

「よくわからん。何とかなるみたいだから、問題無い。で、どうする? どうにしてもここからは早く立ち去りたいが」


 人魚とモーネの視線が絡み合う。


「……助けに来てくれて、ありがとう。酷いこと、されなかった?」

「ううん……大丈夫。あなたこそ。私を迎えに来たばっかりにこんな目に……」

「ここに連れてきたのは私だもの。幸せにと祈ったのに、また泣かせたくはなかったの」


 人魚はそっとモーネを抱きしめる。

 手を取り合う二人を促して、シェスティンはとりあえずメシュヴィッツ邸を出ることにした。




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