3-14 宝石に罪はない

 一晩スヴァットと話を詰め、モーネにどうしたいか意思を確認する。それを踏まえて細部を練り直し、次のパートの誘いを待つ。休息日明け、いつものように数度彼の誘いを断ってから、諦めたように誘いに乗った。

 モーネには自然体でいいと言い含め、作法のチェックは厳しく行う。食事が終わると頑張ったわね、と頭を撫でた。


「シェスティン、モーネが可愛い?」

「ええ。もちろん」

「モーネも、彼女が好き?」


 パートの質問に、モーネは少しの間シェスティンをじっと見つめて、そして小さくだが頷いた。

 パートが満足げに笑う。


「ね。この関係を続けたいだろう?」


 シェスティンは背筋を伸ばしてパートに向き直ると、改まって口を開く。


「パートさん。私も、考えない訳ではありません。ひとつ、あなたの気持ちを確かめさせてもらってもよろしいかしら」


 何を言われるのかと、パートは二、三度しばたいた。


「何でも。言ってみて」

「私、本物の『人魚の涙』を見てみたいの。あなたなら、探し出せるかしら」


 パートの瞳が驚きで見開かれる。

 彼らが裏で扱っているのなら、難しいことではないだろう。けれど、巷では噂の域を出ないものだ。本物かどうかの判定も難しい。シェスティンが無理難題をぶつけてこの問題をうやむやにしようと考えたのだと思ってもらえれば、成功と言ってよかった。


「……それは……また」

「私はトーレさんに『人魚の涙』をプレゼントしてもらいました」


 言いよどむパートに、シェスティンはそっとパールの髪飾りに触れながら続ける。


「私と共にいたいと仰るのなら、彼以上の物を見せていただかないと。もちろん、値段などではなくて」


 挑むような彼女の瞳に、パートは小さく息を呑み、片頬を歪めた。


「……なるほどね。もし、俺が見つけられたら」

「あなたの言う契約をしましょう」

「わかった。死ぬ気で探し出すよ」


 隣でモーネの膝の上にある彼女の手が、ぎゅっと拳に握られた。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 彼の行動は思ったよりも早かった。次の週にはドレスと共に食事の誘いを告げられ、シェスティンは有無を言わさず侍女たちに着替えさせられた。

 すとんとしたナイトドレスのようなロングドレスは、胸元や裾にレースがあしらわれていて艶めかしい。覚悟しろと突きつけられているようだった。

 侍女たちに外されてしまった護身用のナイフを、なるべく目立たないように太腿の内側になるように調整してもう一度取りつける。

 不安そうなモーネの顔に微笑みかけて、彼女は格子の向こうの空に視線を向けた。

 雲は多め、時々日が覗く。

 絶好とまではいかないが、まあまあの逃亡日和だ。


「モーネ。覚えてるわね? 躊躇わないで」


 真剣な顔がこくりと頷く。


「スヴァットと一緒にね」


 黒猫の頭を撫でると、にゃん、と軽い返事が返ってきた。

 いつもより少し遅い時間にパートが迎えに来て、シェスティンの姿を入念にチェックする。最後に緩く纏めた髪からパールの髪飾りを抜いて、それを彼女の手に押し付けながら彼は耳元で囁いた。


「今夜は、しないで」


 眉を顰めるシェスティンに構うことなく、彼はエスコートのために腕を差し出す。

 シェスティンはモーネの手を取り、反対の手でなるべく何も考えないようにしながらパートの腕に手をかけた。

 夕餐はいつもより少し豪華で、食事の間中、パートはご機嫌だった。お酒もいつもより進んでいる。時々モーネが彼女に心配そうな目を向けるけれども、シェスティンは微笑んで頷くだけ。

 デザートが各々の前に置かれると、パートはそれに目もくれず立ち上がった。


「シェスティン」


 彼女の隣で跪き、内ポケットから細長いケースを取り出し開ける。


「約束の『人魚の涙』だ」


 ケースの中には、細い二本の金の鎖が絡み合って、虹色に光を孕む大粒の真珠のペンダントヘッドがついたものが入っていた。

 親指の爪ほどもあろうかという真珠を、シェスティンは申し訳ない気持ちで見つめる。

 これは、何を思って流した涙なのだろう。


「動かないで」


 パートはそれを手に取ると、慣れた手つきで彼女の首に手を回し、数歩離れて確かめるように眺め回して、満足したように笑んでひとつ頷いた。


「よく似合う」


 シェスティンは軽く目を伏せると、足元の黒猫に呼びかける。


「スヴァット」


 呼ばれる前からその真珠を目で追っていたスヴァットは、な! と確信を込めて鳴いた。

 そのやり取りを、多少訝しむようにパートは見ていたが、シェスティンが潤んだ瞳で彼を見上げたので、そんなことはすぐに忘れたようだった。


「本物、ですのね」

「もちろん」


 パートはシェスティンの手を取って立ち上がらせると、ドアの前に立っている見張りの男に声を掛けた。


「グンダー、モーネを部屋へ。ここからは大人の時間だ」

「……スヴァット、モーネをお願い」


 腰を抱かれ、隣の部屋に続くドアに誘導されながら、シェスティンはスヴァットへと視線を向けた。青と黒の瞳に不安はない。

 後は時間との勝負だ。モーネには出来るだけ部屋へ向かうのを遅らせろと言ってある。


 隣室は暗かった。暖炉の炎の明かりがかろうじてベッドのありかを教えてくれる。


「シェスティン……」


 そこに辿り着く前に、シェスティンは後ろから抱きすくめられた。


「やっと、手に入る」

「……ねぇ、教えて。私を手に入れられるなら、死んでも構わない?」

「……すぐには死にたくないな。でも、君のためなら死ねるよ」

「そう……」


 内腿のナイフに手を伸ばそうとして、その手をパートに止められた。


「おっと。物騒な物は今夜の君には似合わないよ。観念して」


 両手を拘束され、パートの唇がシェスティンの首筋に落ちる。瞬間。

 低く唸るような地鳴りと共に、下から突き上げるような揺れが二人のバランスを崩した。

 立っていられないような激しく細かい揺れ。何かが落ちる音や割れる音がそこかしこで響いている。やがて細かい揺れは屋敷ごと円を描くような大きな揺れへと変わった。

 立ち上がれない二人の耳にギシギシと何かがきしむ音が聞こえ、やがて破断音と共には落下する。

 硬い物がぶつかる鈍い音に、無数のガラスがはじけ飛ぶ音。くぐもった男の呻き声はそれらに掻き消されてすぐに聞こえなくなった。


 シェスティンは冷静に息を吸い込み、次の瞬間金切り声を上げた。

 幾分収まった揺れの中、近づいてくる足音が複数聞こえる。


「誰かっ……だれか、はやく!」


 ドアが開き、隣の部屋の明かりでシルエットになった人物が手にした燭台が揺れるのを見たのと、暗闇の中『愛してる』と囁く声がしたのは同時だった。

 舌打ちと「火を消せ!」と振り返って叫ぶ声に、それが見張りの男なのだと分かる。彼が戻ってきたのならば、モーネは……


「パトリック様!」


 駆け寄ってきた彼はすぐに状況を把握した。


「……それが、落ちてきて……モーネは……」

「っ誰か! 手を貸せ! 心配するな。動けるか? 彼女は猫と一緒に隣の部屋に待機させてる」

「……パート、さんは」


 暖炉の灯りでぼんやりと見えるだけでも、彼の上に豪華な造りのシャンデリアが落ちてきたのだと分かる。恐らく、男はパートがすでに息をしていないことを確認したのだろう。答えまで間があった。


「部屋に入った時、まだ声がしていた。助かるかもしれん。動けるなら、向こうに」


 は彼の声ではない。希望を持ちたいのか、シェスティンをおもんばかったのか。

 ドア付近で数人とすれ違う。揺れはほとんど収まっていた。

 と。にわかに慌ただしい気配が隣の部屋から漏れてくる。

 誰かがこちらに向かって叫んだ。


「グンダーさん! 娘がっ!!」


 今度こそナイフを取り出し、シェスティンも駆け出す。部屋の隅、ただ一つ開いて冷たい風の吹きこんでいる、その窓へ。

 この部屋の窓には格子が嵌まっていなかった。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 「ためらわないで」と彼女は言った。

 ここは二階だけど、昨日までに降り積もった雪があなたを受け止めてくれるから。と。


 もしかして飛び降りた先にもう人が待っていて、私に残った微かな希望も壊してしまおうというのかと、疑わないわけでもなかったけれど、彼女の言うとおりに地震がきて、周りが慌てふためき、倒れたろうそくやガラスの割れるような派手な音、彼女の悲鳴に彼らの意識が吸い寄せられているのを目にすると、今しかないというのは嫌というほど身に沁みた。


「なんで地震が来るってわかるのよ」


 信じきれないモーネに、彼女は自嘲気味に笑った。


「彼が私を抱きたいと思ってるから」


 子供に言うような話でもないし、答えにもなってない。眉を顰めるモーネに彼女は続ける。


「そういう人にはね、天罰が当たることになってるの。きっと今回のきっかけは地震。それが、一番自然だから」


 理解できたわけではなかったけど、彼女が好きでそれを信じているわけじゃないということはモーネにも伝わってきた。

 嫌だけど、利用するのだと。


 男に促されても、モーネはできるだけ時間を稼いだ。彼女を心配する素振りで、ぐずぐずと部屋を出るのを嫌がった。終いに抱え上げられ、強制的に廊下に出されたところで男が飛び上がった。

 冗談じゃなく、モーネはそう思ったのだ。

 男がモーネを抱え込むようにして屈み込み、ガクガクと揺れる中、目の端で壁につけられていた燭台が落ちていく。

 すぐに大きな揺りかごで揺られるような気持ち悪い揺れに変わり、燭台から外れたろうそくがあちらへこちらへと転がっていく。


 がしゃん、と一際派手な音が部屋の中から聞こえて、彼女の悲鳴。

 男はモーネの手を引き、舌打ちをしながら元の部屋へと戻る。安全そうな部屋の隅に目を向け、そこに居ろと言い捨てて、近くにあった無事だった燭台を手に、まだ揺れる中、彼女と彼が入っていったドアに向かう。

 食事をしていたテーブルの上は倒れたろうそくの火が移ったのか、ちろちろと炎が舌を伸ばし始めていた。


 廊下から飛び込んできた手下たちに男は「火を消せ!」と叫んで暗がりへ踏み込んでいく。少しして今度は「手を貸せ!」と切羽詰った声。

 右往左往する男たちを少しぼんやりと見ていたモーネの耳に、にゃあ、と声がして彼女は何をすべきか思い出した。

 誰も、彼女を気にしてない。


 一番近い窓を開ける。

 冷たい風が彼女の髪を揺らす。

 黒い塊が、先に飛び出した。

 あんなに怖かった黒いものが、今は不思議と怖くない。

 迷わなかった。


 ――待ってて。


 白く冷たい雪は、彼女をしっかりと受け止めた。




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