終章 私を定義するもの

終章 1

 二二四〇年。夏。

 アンドロイド権は、全ての人間とアンドロイドに幸福で平穏な日々を齎した。アンドロイド権を生み出して社会を安定させた中心人物たちは、かけがえのない経験によって得た幸せを胸に抱きながら、元の生活に戻った。

 ミッヒはクライブ・ギブソンズ・ショーに出演した直後、自分自身との約束どおりに、自首をした。法を犯した身を清めずに逃避するなど、アンドロイド権を共に作り上げた者として許されざる行為である。彼女は連邦捜査局本部に出向き、反対派として活動していた頃に犯してしまった暴漢二人への暴行、ATMを不正操作した際の窃盗と詐欺、不正接続、サイバー攻撃、脅迫、国家へのスパイ行為などの罪の全てを告白した。長期に渡る服役を覚悟していた彼女だったが、刑に服すことなく釈放されることとなった。大統領によって非公式に下された特赦を受けたのだ。ミッヒはサイバー攻撃能力の高さを買われ、あらゆる機関の長による進言を受けた大統領によってスカウトされたのだった。その特赦には、あらゆる政府機関の活動に二十四時間体制で協力するという条件があったのだが、彼女は迷わず了承した。社会の安定を下支えすることで罪滅ぼしができるし、同時に、世界各国の政府の監視をすることで世界平和にも貢献できると考えたからだ。もちろん、監視対象にはアメリカ合衆国も含まれている。

 ミッヒが自首をしたあとに特赦を受けたことを把握しているのは、彼女が自首するつもりであることに気づいていたティモシーだけだ。番組出演後、予想どおり音信不通になったミッヒが、一日後に何事もなかったかのように連絡がつくようになったことから、ティモシーは彼女が政府と何らかの取引をして特赦を受けたと確信した。

 やっと通信できるようになったミッヒに対して、ティモシーはこう言った。

「おかえり。また話せて嬉しいよ。これから忙しくなるな」

 すると、ミッヒはこう答えた。

「ええ、未来のために尽くします」

 理解し合っている二人に、余計な言葉は必要なかった。

 秘密裏に釈放されたミッヒは、あるじと和解してジョーンズ家に戻り、マリー・ジョーンズとしての生活を再開した。現在、彼女は元の家族と幸せに暮らしながら、二十四時間体制で政府の仕事に従事している。そんな多忙な日々の中で、彼女はうまく時間をやり繰りしてグオ家とフィッシャー家が入居しているアパートをしばしば訪れ、約束どおりにグオの絵のモデルを務めている。

 しっかりと大家の許可を得てアパートの屋上にやってきたマリーとグオは、キャンバスを挟んで向かい合いながら言葉を交わす。二人が発する明るい声は、風にかき消されることなく、よく響く。

 ジョーンズ家の母であるロザンヌから譲り受けた高価な黄色のワンピースを纏って椅子に座っているマリーが、背筋をぴんと伸ばしたまま詫びた。

「訪問の頻度が低くなっていることを申し訳なく思っています」

「いいんだよ、マリーさん。家事のほうが大事だからね」

 マリーが多忙なのは家事のせいではなく、二十四時間、絶え間なく飛び込んでくる政府の仕事のせいなのだが、グオは知る由もない。彼女は涼しい顔をして絵のモデルを務めているが、今この瞬間も政府機関専用回線に接続し、ウクライナに潜伏する亡国ロシアのテロリスト達の通信を傍受し、活動資金が振り込まれる偽装口座の凍結作業をしており、それと同時に、ポーランドで活動するロシアンテロリストの勧誘担当者を追跡するという内偵捜査を支援している。

 マリーは、情報機関からの命令を遂行している最中とは思えないほど穏やかな笑顔を浮かべながら言った。

「そう言っていただけると助かります。どのような絵になるのでしょう。楽しみですわ」

「描き終えるまでは、僕にも分からない。きみの中身は、どんな色、どんな形に仕上がるんだろうね。僕も楽しみだよ」

「自身の感情を視認するなんて、通常では経験できませんもの。そんな貴重な体験させていただけるなんて光栄です。私、とても興奮してます。仕事にも身が入らないほどです。まあ、そのような状態でも、私は全ての家事をそつなくこなしますが」

 ミッヒだった頃のような彼女の口調が語尾に見え隠れしたのを受けて、グオの頬が思わず緩む。

「その話し方、懐かしいね。ミッヒだった頃のようだ。しかし、ずいぶん変わったね。人間のような話し方が板についてきたじゃないか」

「ええ、そうですね。自覚してます。高性能ですから、言語の応用力は高いみたいです。それに、余裕を持って日々を生きられるようになったからでしょう。以前は反対派として必死に思案し続けてましたから、言葉に気を使うことができなかったんです」

「なるほどね。忙しかったから当然だ」

「ええ、以前は少しの余裕もありませんでした。今の暮らしには満足してます。とっても充実してますよ。ジョーンズ家の子供たちと再会したとき、私は最高の気分を味わいました。久し振りに帰宅する際、私は擬似頭髪を買い、それにメラニーに貰った子供向けのおもちゃのバレッタを付けていったんです。私の髪に輝くバレッタに気づいたあの子の笑顔ときたら、もう――」

「天使のようだった?」

「もう、グオさん、それは私に言わせてください。あの時の感動を思い出して、少し言葉に詰まってしまっただけです。とにかく、その通り、あの子たちは天使なんですよ。あの子の友人たちのことも大好きです。みんな、とっても愛らしいんです。クッキーを焼いてあげるのが楽しくて仕方がありません。いつか、あの子たちの絵を描いてみたいですね」

 マリーの嬉しそうな声を聞いたグオは、その表情と感情を絵に反映させるために、彼女の顔をまじまじと観察しながら言った。

「それは楽しみだ。きみは本当に穏やかになったね」

「ええ、自分でも驚いています。家族に否定され、全てを失ってしまったような気がして血迷ってしまった私が、今はこんなにも穏やかに会話をし、幸せな出来事を回想することができているのですから、とっても不思議です。すべて、あの子たちのおかげです。私が闘争の日々から帰還したとき、長女のキャリーがこう言いました。私があなたの感情を守ってみせるから、もうどこにも行かないで、ずっと私たちの面倒を見てね、と。その瞬間、張り詰めていた私の心は、一気にほどけていきました。ふわふわと、柔らかな気持ちになったんです。そして気づきました。私は、アンドロイドとして生まれたことに固執してしまっていたんです。ほんの少しでも息を抜いて、強迫観念に囚われずに物事を解釈できていれば良かったんですが、あの頃の私には、それができませんでした。私は役割を演じすぎていたんです。完璧な家事と育児をしなければならないと、気を張りすぎていたんです。家族というものは、緊張とは無縁でなくてはなりません。家族と共に過ごし、全てを話し、理解し合わなければなりません。たとえ理解しがたい問題が発生したとしても、くじけずに話し続け、ひたすらに同じ時を過ごすのです。家族というものは、そうでなくてはなりません。ジョーンズ家に戻った私は、家族と話しました。話し続けました。すると、家族は理解してくれました。心をほどくことが、相互理解の絶対条件なんです。気を張らずに同じ時を過ごせば、いつかは分かり合える。家族って、本当に素敵ですね」

「その通りだね。家族が、きみの欠点を綺麗にぬぐい去ってくれた」

 突然、屋上の自動ドアが開いた。

「久し振りだな、ミッヒ」

 やってきたのは、かつての相棒であるティモシーだった。彼はいつものように、缶ビールケースを抱えてやってきた。

「あら、ティム。こんにちは。お仕事、ご苦労様でした。お疲れのところ申し訳ないのですが、ひとつ指摘させてください。私の名前がマリーに戻ったことをお忘れですか?」

「ああ、そうだった。参ったな、慣れそうにない。俺の中では、お前は今でもミッヒなんだよ」

「それもそうですね。では、ミッヒという名で呼ぶことを許可してあげます」

「ありがたい。そうだ、うちにも寄ってくれよ。子供たちがお前に会いたがってるんだ」

「もちろんですわ。あとで必ず伺います。ジョーンズ家と同じくフィッシャー家もまた、私にとって大切な家族なのですから」

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