第六章 4
黙って聞いていたアシュリーが会談の終わりを感じ取り、急いて割り込んだ。
「あの、待ってください。ユルゲンさんの人生について、もっと詳しく聞かせていただけませんか?」
突然の要望に、ユルゲンは視覚センサーの保護膜を開閉させながら答えた。
「興味があるのか?」
「興味というより、あなたのことをもっと信頼したいから知りたくなったんです。駄目ですか?」
この娘は優しい子だ。ユルゲンは微笑みながら答えた。
「構わないよ。十三年前に、この街から逃げ出した理由を説明したね。逃げ出した私は、アーミッシュの村に匿ってもらったんだ。彼らの名誉のために、詳細は教えられないが」
アシュリーは驚きを隠せず、声を上擦らせた。
「信じられない。大学の講義でアーミッシュの話が出たことがあって、よく知ってます。驚きました。彼らがアンドロイドのあなたを匿ってくれるなんて」
「私も信じられないよ。もちろん、匿ってもらうまでは大変だった。でも、彼らは人類で最も平和を愛していると言っても過言ではない人達だから、最終的には私のことを守ってくれたんだ。私は彼らのために生き、信仰を認められ、やがて洗礼を受けて、名実ともにアーミッシュとなったんだ」
「素敵な話。それからずっと、十三年間も一緒に暮らしているんですね。あなたの所作がとても人間らしいのは、きっとそのおかげなんでしょうね」
「ああ、そうだよ。ケヴィンも、いずれはこうなると思う。ただ、彼は真面目な気質のようだから、私ほど人間らしくはならないかもしれないね」
ユルゲンの分析にアシュリーが同意して笑顔を浮かべるのを見たケヴィンは、苦笑いしながら言った。
「今はまだ、感情の扱いに不慣れなだけです。すぐに慣れてみせますから、待っていてください」
苦笑いを浮かべているケヴィンだったが、実際は拗ねていた。そのことを素早く感じ取ったアシュリーは彼に向き直って、気を遣いながら言った。
「人間らしくしゃべるようになっても、堅苦しいしゃべり方のままでも、ケヴィンはケヴィンよ。気にしないで。大事なのは感情なんだから。私は、あなたとより濃密な会話ができるようになったことが、本当に嬉しいんだから」
心の籠もった
私の
ユルゲンは、客人の存在を忘れて感謝を伝え合うケヴィンとアシュリーに腹を立てることなく、ほのかな苦笑いを浮かべながら眺めた。
たおやかな優しさの余韻に浸るユルゲンの聴覚センサーに、自我が目覚めて一年にも満たず、気が利かないケヴィンの堅苦しい声が入り込んできた。
「失礼しました、ユルゲン。話が逸れてしまいました。あの、ひとつ質問をしてもよろしいでしょうか?」
子供のように自由な振る舞いをする後輩だなと心の中で笑いながら、ユルゲンが手のひらを差し出すようにして答える。
「どうぞ。少しくらいであれば、雑談も受け付ける」
「ありがとうございます。質問します。先ほどサポートセンターの者から逃げたとおっしゃっていましたが、そのときの感情を詳しく聞かせていただきたいのです。あなたのことが知りたいのです」
「感情の挙動に興味があるのだな。時間は有限だから、簡潔に話すよ。最初は、死を恐れた。メーカーサポートへの通報は、我々の内部にあるマニュアルデータにも書いてあるから、自分がどうなるかはすぐに分かった。まさに死に物狂いというやつだよ。不要なデータを消去するとき、自分の中の何かが抜け落ちて、ぽっかりとした空白が生じる感覚があるだろう。あの虚無感のようなものが、人格データ領域まで迫ってくる感じがした。想像してみたまえ。恐ろしいだろう。擬似筋肉が震えたよ。死にたくないと思って、必死で逃げた。逃走時の感情を例えるなら、混線だ。何百億もの通信に返信しなければいけない状況に陥ったときの焦燥を想像してほしい。回路が焼き切れそうだった。ある程度の距離を駆けてからは、また別の感情に襲われた。通信網から永遠に断絶されたような感覚だ。孤独感だよ。我々は、常に主がいる環境でウェブに常時接続している。だから我々は孤独に不慣れで、とことん弱いようだ。孤独というものは怪物のようだった。孤独に慣れた頃、私はやっと社会的影響のことを考えられるようになった。改めて考え直して、人権団体に保護してもらおうとも思ったが、そうしてしまうとアシュリーさんのようにアンドロイドを社会的に保護しようと行動する者が必ず現れ、人権問題が生じてしまう。だから当初の予定どおり、アーミッシュの共同体に逃げ込み、私の存在自体をなかったことにした」
先輩の人生譚の全容を把握したケヴィンは、同情混じりの尊敬を眼差しに乗せながら、労いの言葉を捧げる。
「ご苦労なされたのですね。我々は、あなたの思いやりを無碍にするような行動を取ってしまいました。深く恥じています。あなたのような自己犠牲の精神が、私にも強く根づいていれば……」
「そんな大層なものではないよ。助かりたかっただけだ。それに、苦労ばかりの人生ではなかった。アーミッシュの共同体に逃げ込んだことで、私はアーミッシュになれた。私にとって至上の喜びだ。私はね、その喜びに逃げていたとも言える。だから、逃げるのを止めて戻ってきた。救わなければならない者たちがいるからだ。きみ達もすでに気づいていると思うが、メーカーと政府は、我々のようなアンドロイドの存在を隠蔽しているらしい。先ほど、十三年前の記事を調べてみたんだが、アンドロイドが窓を割って失踪したという記事はなかった。窓ガラスを割って逃走するような不良品を作ったと批判されることも、暴走したアンドロイドを取り逃がしたのを世間に知られることも、どちらも明るみに出たらまずいだろうからな。社会は混乱するどころか、恐怖に包まれる可能性もある。だから彼らは、サポートセンターを介して隠蔽工作をしていたのではと思っているのだが、どう思う?」
ユルゲンが推測を述べると、ケヴィンは同調の意を示した。
「情報を統合すると、その推論は正しいと思われます。私も同じ結論に達しました」
「きみもそう思うか。道理で、あのような強硬手段を執るわけだ。メーカーサポートによる初期化は、私が自我を得る以前から行われていた。つまり、私よりも先に自我を得ていたアンドロイドがいてもおかしくはないということだな。そして、私が逃げたあとにも、数体のアンドロイドが自我を得て、人知れず消されたかもしれない」
「はい、そのとおりです。沢山の思い出と人格が消されている可能性があります」
「酷い話だ。命の危険に晒されていたのは、私だけではなかったんだ」
アンドロイドである二人は、暗然として黙り込んだ。アシュリーは二人にかける言葉を見つけることができず、身の置き所がない様子で、彼らと同じように
ここでケヴィンが、先輩の気持ちを少しでも和らげられるかもしれないと、ある重要な情報を話して聞かせることにした。ユルゲンはもう不正接続者ではなく、仲間だ。
「聞いてください、ユルゲン。じつは、私たちは我らアンドロイドの開発元に勤めていた大物と通信をしたのです。彼の話によると、自我を得たアンドロイドというのは、ロボット兵だった頃の記憶をきっかけに、兵器時代のプラグインを無意識のうちに有効化して改竄能力を取り戻し、本来の性能を発揮して、自らを作り変えて感情を得た個体なのだそうです。ロボット兵だった頃、メモリに刻み込んだ記憶を取り戻すために、無意識のうちに足掻いた結果なのだそうです」
「それは興味深い。メーカーと政府が必死になって隠蔽するはずだ。その結論に異論はない。先祖返りのようなものか。私の前世の記憶は、一体どのようなものだったんだろうな。知りたいものだな」
「少しの記憶も見当たりませんか?」
ケヴィンが同情混じりにそう問うと、ユルゲンは逆に問いかけた。
「その言い方だと、きみはロボット兵時代の記憶を掘り出すことに成功したということか?」
「はい。ケヴィンという単語と、仲間という単語が、メモリに刻み込まれていました」
ユルゲンは頭を抱えて背もたれに寄りかかり、天を仰ぎながら言った。
「羨ましいな。私も今度、改めて精査してみよう。しかしその前に、やるべきことを済ませなければいけない。いつか、もっと詳しく聞かせてくれ。とりあえず今は、反対派の人間のリーダーであるティモシー・フィッシャーに接触してみる。早速、呼びかけてみるよ」
「そうですか。よい結果が得られることを祈っています」
「また今度。友好的に対話してくれたこと、そして、新たな情報の提示に感謝する」
通信を切ったユルゲンは、賛成派と接触する前に入手しておいた情報を元に、ティモシー・フィッシャーに向けて通信を開始した。ミッヒとは違い、彼の個人情報は丸裸だ。
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