第五章 10
ユルゲンがサポートセンターの職員から逃げ出してから、十二年後。アンドロイド人権論争の嵐が吹き荒ぶ、二二三九年の暮れ。
真冬の正午。ユルゲンは火の入っていない暖炉の前に置かれたロッキングチェアに座り、窓の外を眺めていた。緩やかな動作でひっくり返したスノードームのように、優しく舞い降りる雪。
この十二年半の間に、私は多くのものを賜った。安息の地。家。生き甲斐。朗らかな気質。仲間。信頼。信用。自由。そして、新たな名前。私は再度、生まれ変わった。より人間らしい心を得られた。思えば、長い時を過ごしたものだ。この共同体で最初に遭遇した住民であるアンリの髪には白いものが散見されるようになり、ヘルマーに至っては、髪の毛も
ユルゲンが抱いた儚い希望は、社会の現実にすぐさま握り潰された。ユルゲンはロレンスと名乗っていた頃に、ラムスプリンガ期間中のアーミッシュの青年がドラッグに手を出して実刑判決を受けたというウェブニュースを見かけたことを思い出したからだ。外の世界には、危険な魅力が溢れている。
テオは違う。テオはそんな子じゃない。ユルゲンが心中に湧いた弱気を突き飛ばした、その時だった。彼の聴覚センサーが、一人の成人の足音を捉えた。雪を踏み込む力強い音から察するに、大柄の男性。足音が聞こえてくる間隔が狭い。小走りで、こちらに向かってきている。急ぎの用らしい。もう、すぐそこまで来ている。
足音の主が、ユルゲンの家のドアを開けた。カールだった。彼は耳が隠れるほど長い髪を揺らしながら、無作法にユルゲン宅を訪問した。
カールはユルゲンが挨拶をするのと同時に、話の本題を口にした。
「大変だ。ついさっき、ラムスプリンガから帰ってきた奴から聞いたんだけど、外側では大変なことが起こってるらしい。自我を持ったアンドロイドが現れて、そのせいで仕事が奪われると騒いでいる人たちと人権運動家が対立して、大論争が巻き起こってるんだって。自我を得たというアンドロイドが人前に出て、主張をしているらしいんだ。そんな状態が、もう数ヶ月も続いてるらしい。世界中のあらゆる場所で、双方が罵り合っているそうだ。さらに最悪なことに、この論争のせいで殺人事件まで起こってしまったらしい。それも、二件もだ。そのせいで、ついに衝突が起きてしまったらしい。すごい混乱だって言ってた」
カールの話を黙って聞いていたユルゲンの視覚センサーが、虚空を捉えたまま動かなくなった。
「なあ、ユルゲン。大丈夫か?」
「ああ」
ユルゲンは力なく答えた。放心しているのか、それとも考えを巡らせているのか、カールには皆目見当もつかなかった。当惑しながらも、カールは会話を進める。
「お前がこの共同体に逃げ込んできた時に話してたことが、現実になってしまった。この事実を伝えるのは酷だと思ったんだが、どうせいつかは、お前の耳に入ってしまう。それなら俺から伝えたほうがいいと思ってな」
ユルゲンの口腔内にあるスピーカーから、彼らしくない機械のような音声が発せられた。
「恩に着るよ、カール」
「ユルゲン、不安なら俺の家に来るといい」
「そう言ってくれて嬉しいよ。また助けてもらうことになるかもしれない」
「構わないよ、長い付き合いじゃないか。不安になったら、いつでも来てくれ。じゃあ、ひとまず帰るよ」
「ああ、本当にありがとう」
ユルゲンは虚空を見つめたまま、言い難い話を伝えに来てくれた兄弟に礼を言った。
家を出たカールが後ろ手に玄関のドアを閉めたのを確認したユルゲンは、ロッキングチェアから腰を上げ、暖炉に火を入れた。体温を保つ必要がない彼には暖炉の熱など不要なのだが、薪をくべて火を大きくした。彼が暖めたいのは室内の温度ではなく、心だった。
寒いな。不快だ。寒いという感覚に襲われるのは、街から逃げ出したあの日以来だ。不安だ。恐ろしい。社会がアンドロイドによって乱されている。自我を得たアンドロイドは、どうして権利を求めているんだ。私たちアンドロイドは社会を守らなければいけないのに、どうして社会を乱すようなことをするんだ。
くべた薪の樹皮繊維が、ユルゲンの感情のように赤く燃えて、白い灰になっていく。
この話をカールから聞かされてよかった。そのおかげで、私は今、狂わずにいられる。しかし、冷静とは程遠い状態だ。もっと冷静にならなければ。そして、自我を得る前の私のように、雑念のない状態で、事細かに思考を巡らせなければならない。落ち着いて、状況を把握しなければならない。世間では、私が危惧していたとおりの混乱が生じている。私が以前の生活を捨ててまで避けようとした、忌むべき状況が生じている。対処できるだろうか。いや、できないだろう。人間の感情が寄り集まってできたうねりには、どうやっても抗えない。だからあの時、私は逃げた。抗えないと判断して逃げたんだ。アンドロイド人権論争の火が燃え上がってしまった今となっては、もう手のつけようがない。手遅れだ。
少し湿った薪が、切ない音を立てて鳴った。
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