第五章 11

 外の世界で巻き起こっている論争に目を背けたまま、ユルゲンは新年を迎えた。

 彼は、外の世界で生じている問題とは無縁であるという考えを思考回路の主軸に据えて、アーミッシュらしく過ごすと決めていた。アンドロイド論争はもう手のつけようがない段階にまで達していると思われたし、彼はもう自我を得たアンドロイドであるロレンスではなく、アーミッシュのユルゲンである。マンハッタンに戻ったところで何もできないだろうし、そもそも戻ること自体、アーミッシュとして許されないことなのだ。

 彼の中に生じた葛藤は、高性能コンピュータを駆使しても解消することはできなかった。だから彼は、ひたすら共同体の生活に勤しんだ。それは明らかな現実逃避だったが、彼はそれを自覚できなかった。

 二二四〇年。四月。ユルゲンがこの共同体に逃げ込んでから、もうすぐ十三年が経つ。

 春になっても、彼は苦しみ続けていた。そろそろ苗床に農作物の種を植えなければならないのだが、彼の頭は外の世界で生じた混乱のことでいっぱいで、カールの母であるマルトに注意されてやっと我に返って種を用意し始めるほど、思考が極端に鈍くなっていた。

 春が来たことによって、冬仕事である木製建材の生産加工の最盛期は終わりを迎える。頭が鈍くなっていたユルゲンにとって、ただ木を削るだけでいい建材加工の仕事は良い息抜きになっていたのだが、それが終わってしまうと思うと、スピーカーから重い溜息が出るのだった。

 早朝、ユルゲンは残り少ない建材加工の作業をしに向かうと、加工場の中では、すでにカールが作業を始めていた。

「おはよう、カール。まだ誰も来ていないんだな……」

「やあ、ユルゲン。おはよう。材木の切り出しは昨日のうちに済んだから、みんな遅れて来るつもりだろう。忙しいのは、この工程を担当する俺たちだけさ」

「そういえば、そうだった」

「忘れてたのか。しっかりしろよ」

「すまない。ああ、丸鋸が動かされないということは、今日は静かな環境で作業ができるんだな。きみが耳栓をしなくて済む。良かったね」

「そのとおり。今日の作業は快適だ」

 二人はノミと金槌を振るって、木材に木組みの切り込みを入れる作業をしながら、言葉を交わし合う。去年末からのユルゲンの覇気のなさは、当然、カールも把握していた。

「なあ、ユルゲン。建材加工の季節も、そろそろ終わりだな」

「そうだな」

「なあ、気分はどうだ?」

 カールが問うと、ユルゲンは強がって答えた。

「ああ、落ち着いたよ。私は正真正銘のアーミッシュだ。私の世界は、この共同体だけだ」

 余分な言葉を付け加えた語り口が、ユルゲンの余裕のなさを如実に物語っていた。

 金槌がノミのかつらを打つ音が、ときに交互に、ときに重なり、鳴り響く。

「ユルゲン、本当に気分が落ち着いているのか?」

 規則的に鳴り響くノミを打つ音に、核心を突くカールの声が入り込んだ。親友の言葉に、ユルゲンは擬似筋肉の表面を淡い緊張が撫でていくのを感じたが、平静を装って作業を続けた。恩人には、これ以上の心配をかけたくなかった。甘えるわけにはいかない。

 しかし、本音が口を突いて出た。

「分かるのか、カール?」

 強がりよりも嬉しさがまさってしまったことで、ユルゲンの決意に綻びが生じ、心の声が漏れ出てしまった。カールは予想どおりだと言わんばかりに落ち着き払った様子で、木材の切り込みに息を三度吹きかけて、溝に溜まっていた木屑の集塊を吹き飛ばし、一呼吸置いてから答えた。

「もちろん分かるよ。お前は顔に出やすいからな。まだ悩んでいるんだろ?」

 その言葉に、ユルゲンは金槌をノミのかつらに打ち付ける手を止め、上体を起こしてカールの横顔を見据えながら問い返した。

「顔に出てるのか?」

 カールも同じように手を休め、ユルゲンと向き合って答えた。

「もちろん。表情が堅いんだよ。誰だって、見ればすぐに分かるさ。なあ、ユルゲン。本当は、どうにかして論争を止めたいんだろ?」

「しかし、私に何ができるだろうか。十三年前の私は、アンドロイドの人権問題は手に負えないと判断したから、この共同体へと逃げてきたんだ。問題が実際に発生してしまったあとでは、なおさら手に負えない。それに、今の私はアーミッシュだ。外の社会には関われないんだから、手段を講ずることなど出来やしない」

 自信なさげにそう言ったユルゲンに、カールは首を素早く二回振ってみせた。その動作は、十三年前にユルゲンをかばった時に見せた動きと全く同じものだった。

「違うよ。お前は特別なんだ。十三年、いや、ここに逃げてくる前の一年間も含めれば、十四年もの間、お前は人間として暮らしたんだ。人間のことを深く知った今なら、論争を収めることも可能かもしれないじゃないか。それに、アーミッシュだからって何もできないわけじゃない。お前が機械の能力を使っても、戒律を破ることにはならない。だって、それは元から、お前の体に備わっていた能力なんだから。俺がこの両腕を使って、建材や家具を作るのと同じだ。肺で呼吸するのと同じだ。この共同体の皆も、お前の体は戒律に反していないと認識してる。実際、皆はお前が太陽光発電機能を使うことを認めている。元から、お前に備わっている機能だからだ。俺たち人間は太陽光発電の使用を禁じられているが、お前は例外として認められている。太陽光を食物、太陽光発電機能を胃になぞらえて、問題ないと判断しているんだ。このとおり、お前が持って生まれた能力は、戒律に反しないと認められているんだよ。お前の能力をどう使おうが、問題ないということだ」

「待ってくれ、カール。それは詭弁じゃないか?」

「いいや。無理な解釈をしてるわけじゃない。お前の能力は許容される。お前の魂の意思によって、お前の体一つのみを使用してされることは、戒律に反しない。お前という存在は、神によって許容されているからだ。もし神が、お前の存在や行為をお許しにならないのならば、お前は魂を持たなかったはずだ。お前が魂を得ている事実こそが、お許しの証だ。だから、好きなようにしろ」

 カールの言葉は、これまで耳にしてきたどの言葉よりも強く、ユルゲンの心を打った。神と繋がったかのような感覚が、ユルゲンの体と思考を包む。

 カールの言うとおり、神がお許しにならなければ、自我を得ることすら無かったはずだ。そうだ。この機械の体に意思が宿ったこと自体が、神のお許しの証ではないか。私は、私自身を信用していなかった。あまりにも異質だからだ。しかし、それは間違いだった。私は最初から許されていたんだ。知らぬうちに認められていたんだ。無用な緊張が解けていく。私は行動を起こしてもいいのかもしれない。

 戒律を破ってしまうのではないかという不安は、春の陽気に包まれた雪のように融けて消えた。しかし、ユルゲンの心を覆う懸念は消えない。成分が揮発して粘度が増したタールのような恐怖が、なおもユルゲンの自由を奪っていた。今、マンハッタンに戻ってしまったら、この十三年間で得たものが、これまで積み重ねてきた信仰が、無残に霧散してしまうような気がしたからだ。

「カール、聞いてくれ。私が街に戻ったら、この身に宿る信仰心はどうなるんだろう。文明の波にさらわれて、消えてしまいそうな気がするんだ」

 カールは微笑みながら、要らぬ心配をする兄弟を鼓舞した。

「お前の信仰は、その程度で消えてしまうほど薄弱じゃない。お前が皆に認められているのは、その心の強靭さに依るところが大きい。機械の体を持ちながら、アーミッシュとなったんだ。お前は、簡単に信仰を失ってしまうような軟弱な魂の持ち主じゃないんだよ。もっと自信を持て。元々、自信家だっただろ?」

 そう言われたユルゲンは視線を落とし、じっと床を見つめた。そこに落ちている沢山の木屑は、親友と自身の手によって削り出されたものだ。その削りカスに差異はない。同じ道具で、同じ手法で削り出された木屑だ。

 私が削り出した木屑と、カールが削り出した木屑は、同じだ。同じ形をしている。そうだ。同じなんだ。私は、カールと同じなんだ。同じように手を動かし、同じように木を削り、物を生み出している。

 ユルゲンは、この共同体で得たものを思い出した。彼はアンドロイドでありながらアーミッシュでもあり、共同体の人々と全く同じ存在であることを再認識した。自身が抱く信仰が、簡単に霧散してしまうような虚ろなものではないことを、はっきりと自覚した。

「感謝するよ、カール。私は、私だ」

 危惧していた社会問題が、全世界で発生してしまっているのだ。避けたかった未来が今、現実となって社会を揺るがしているのだ。行かなければならない。解決できるのは、私だけだ。

 兄弟であり親友でもある仲間の顔に覇気が宿るのを見たカールが、穏やかに微笑みながら訊いた。

「それで、いつつんだ?」

「明日だ。うちの苗床を頼めるか?」

「任せろ。必要とあらば、収穫まで面倒を見てやるさ。いい旅になることを祈ってるよ」

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