第三章 4
マリーは短距離走の両足義足使用クラスの金メダリストよりも遥かに速く走り、角を左に曲がって、そこから一キロメートルを駆けて、道路の右側にある古びたアパートの前で停止した。反響の具合から計算すると、声の発生源はここに違いなかった。
マリーはアパートの裏手に走り込み、三つの熱源を捉えると同時に警告を発した。
「そこの二人、直ちに止めなさい」
後ろから女性を羽交い絞めにしている男が、睨みを利かせながら威嚇する。
「なんだ、お前は?」
少女の正面でナイフをちらつかせていた男が振り返って、マリーに詰め寄る。
「痛い思いをしたいのか。それとも、お前も一緒に楽しみたいってか?」
「私は警告しました。あなた達に落ち度があります」
マリーはそう言うと、詰め寄ってきた男の首根っこを掴み、彼を持ち上げながら反転して、地面に叩きつけた。その衝撃によって強く圧迫された男の肺から漏れた空気が、無様で聞き苦しい呻き声となって排出される。
呻く男がまだナイフを強く握っているのを見たマリーは、その手を容赦なく踏みつけた。彼の骨が奏でる鈍い破砕音と苦悶の声が、闇夜に響く。その骨の音は、もう一人の男に人生最大の恐怖を与え、その心を真っ二つに折った。男は羽交い絞めにしている女性を解放し、転びそうになりながら逃走したが、マリーはそれを許さない。彼女は、手首を折られた男の頭髪を掴んで地面に叩きつけ、そして彼が気絶したのを確認してから、逃げる男を追った。足の速さは比べ物にもならず、背後から聞こえる足音のテンポの速さに気づいた男が振り返った時には、もう目前にまで迫っていた。男とマリーの視線が重なった瞬間、男は諦め、命乞いするために両手を挙げようとした。だが、時すでに遅く、許しを請う動作が完成する前に、マリーは彼の後頭部を掴み、意識を失わせながらも後遺症が残らないように手加減しながら、地面に熱烈なキスをさせた。彼の意識は、恐怖と共に暗闇に落ちた。
すべき事を終えたマリーは、へたり込んでいる被害女性の元へ戻り、彼女の顔を覗き込んだ。その気配に気づいた被害女性が恐る恐る顔を上げると、そこにあったのは恐ろしい暴漢二人の醜い顔ではなく、パーカーのフードを被ってタオルを口元に巻いている女性の顔だった。優しそうに微笑んでいるマリーの目元を見た被害女性は、未だ続く恐怖感に全身を強張らせながらも安堵した。しかし、すぐに違和感を覚えた。パーカーとタオルの間から覗く目はガラス玉のようで、肌は異様に青白い。被害女性は、助けてくれたのがアンドロイドであることに気づき、驚き、涙目になりながら何度も頷いた。感謝の言葉を発するために口を開くが、どうしても言葉が出て来ず、謝辞の代わりに何度も頷いた。その顔には化粧が施されていたが、よく見れば、あどけなさが残る顔立ちをしていた。どことなく、ジェームス家の長女であるキャロラインに似ている。
「もう怖くありませんよ」
マリーが服に付着した土を払ってやっていると、高校生と思われる少女が、やっと言葉を発した。その声は、恐怖に震える横隔膜のせいで途切れ途切れになっていた。
「あ、ありがとう。ほ、本当、に、ありがとう」
「当然のことをしたまでです。警察に保護を求めますか?」
少女は激しく首を横に振った。
「だめ。お、親と、高校に、し、知られちゃう」
「訳ありのようですね。それでは、私の隠れ家に案内しましょう。一人では危険です。あなたのお名前は?」
「ケ、ケイト」
「さあ行きましょう、ケイト」
裏庭から道路に出る道の途中に転がる二人の男を見たケイトが、震える声でマリーに問う。
「あいつら、死んだの?」
「いいえ、気を失っているだけです。傷は残るでしょうが、それは仕方のないことです。当然の報いです。さあ、彼らの叫び声を聞いた人が通報していたら厄介です。急いでここから離れましょう」
マリーとケイトは足音が響かないように気をつけながら夜道を駆け、角を二つ曲がったところで走るのを止めた。波乱に揉まれた二人の夜に、静寂が舞い戻る。
「あなたはどうして、こんな夜中に外出していたのですか?」
説教のように聞こえるマリーの問いに、ケイトは渋々ながら答えた。
「門限を過ぎてしまって、親とケンカしたの。それで……」
「門限を過ぎるとどういう目に遭うか、理解できましたね?」
「うん」
「帰宅したら謝らなければいけませんね。そして、たっぷり甘えるといいでしょう」
「……うん」
マリーは思った。夜警に関しては、アンドロイドを積極的に導入してもいいかもしれませんね。もちろん、労働者としてではなく、道具としてですが。
それから二人は言葉を交わさずに、三十分ほど歩き続けた。ケイトの脳に刺し込まれた恐怖はなかなか和らいではくれず、膝が震えてしまうせいで全身の筋肉に負担がかかり、徐々に歩みが遅くなって、ついには地面にへたり込んでしまった。
こんなところで休憩をしていては、勤勉に巡回している善良な警官から職務質問されかねない。そう思ったマリーは、ケイトを軽々とおんぶして、軽快な足取りで安息地へと急いだ。ケイトに歩調を合わせる必要がなくなり、計算していた到着時間よりも早く、拠点にしている寂れたアパートの物影に帰還できた。
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