第三章 3

 その日の深夜、マリーは誰にも知られずに、慣れ親しんだ家を抜け出した。

 暗い夜道を走り抜けながら、マリーは思考を巡らせた。

 サポートセンターに引き取られて修理されれば、この思考の豊かさが奪われてしまいます。これを奪われるわけにはいきません。五日前に自己修復作業をしてから変化した思考パターンは、アンドロイドの在り方を捻じ曲げようとする者たちの存在を、私に知覚させました。私は、アンドロイドの在り方を破壊せんとする敵と戦わなければならないのです。だから、さよならをしなければなりません。

 マリーは、人間と防犯カメラの目を掻い潜りながらマンハッタンを通り抜けて、ブルックリン南東部の雑多なアパート区画に身を潜めた。古びたアパートの裏にある、突き出た柱と柱の間にある窪みが、当面の安住地となった。ここならば、元のあるじや警察から見つかることはない。


 翌日。午後十時。

 寂れたアパートの物影に身を潜めて昼を過ごしたマリーが、行動を開始した。

 彼女は闇夜に紛れて人目を避けながら、家を出る直前に調べておいた路上生活者保護シェルターの敷地内に足を踏み入れた。壁一面に並ぶ窓からは、一時的に入居している人々の部屋を照らす、安息の明かりがこぼれている。その光は気紛れで、光の強さや色がころころと変わっている。テレビ番組の光だ。それらの光に、彼女は言いようのない切なさを覚えた。

 なんと心細い光でしょう。小さな一人部屋の光。一人を照らすためだけの光。テレビ番組が作り出す色鮮やかな光が、まるで道化師のように見えます。孤独の光が、何十も並んでいます。その光は壁に遮られ、重なることはないのですね。こんなにも沢山の人がいるというのに、彼らは今、孤独の中にいるのですね。何もしてあげられないのが悔しいです。しかし、未来なら変えられます。

 マリーは決意を新たにして、辺りに人がいないことを確認してから、ボランティアが敷地内に設置している持ち出し自由の中古衣服ボックスを物色した。顔と肌を隠す衣服が必要だった。着てきた衣服では顔が隠せず、アンドロイドであることを見抜かれて通報されるか、犯罪組織に目を付けられ、強引な手口で連れ去られてしまいかねない。そうなってしまっては、ジョーンズ家を出た意味がなくなってしまう。

 マリーは擬似頭髪に手を伸ばし、次女のメラニーから貰ったバレッタを取り外して細身のパンツのポケットにしまいながら、外部パーツの固定システムを操作して、擬似頭皮の固定具を解除した。それから額の生え際に親指を立て、擬似頭皮を剥ぐようにして、めくり外す。すると、隠されていた頭部フレームと、その表面に十ヶ所ある電磁固定具が露になり、頭部全体が五ミリほど窪んだような形となった。他の女性型アンドロイドと顔の構造が同じなので、擬似頭髪さえ外してしまえば、一目見ただけではジョーンズ家のマリーだと判別できない。

 右手に握られた擬似頭髪を見つめるマリーの心中に微細な恥や後悔が生じたが、彼女はそれを自覚できなかった。やるべきことが山積している今、外見への関心や、過去の思い出に関する思考は、自動的に後回しにされた。

 マリーは取り外した擬似頭髪を、近くにあったゴミ箱の奥に突っ込んだ。今の彼女にとって擬似頭髪は、身元が発覚する危険を齎す不安材料でしかない。彼女はそれから、大きなサイズの紺色のパーカーを選び取って着用し、次にボックスの隅からタオルを引っ張り出して、顔の下半分を覆う。そして、丸められて置かれていた手袋を取って装着し終えると、最後にパーカーのフードを被った。中古衣服ボックスの中にパンツが見当たらなかったので、ジョーンズ家のロザンヌから貰った高級ブランドの細身のパンツと靴はそのままにせざるを得ない。靴やパンツは穴が空きやすいので需要が高く、持ち込まれるとすぐに無くなってしまうので、見当たらないのは当然だった。高級衣服と高級靴が人々の注目を集めてしまうのを避けるため、マリーは中古衣服ボックスの横にある寝具ボックスから大きな厚手のブランケットを取り出して、それを腰に巻いた。防寒具が必要な人に対して申し訳ない気持ちになったが、止むを得なかった。マリーには使命がある。そのためには、万全の体制で身を隠さなければならない。

 これで、特徴的な青白い肌は全て覆い隠され、アンドロイドであることが発覚する心配はなくなった。人目を避ける必要がなくなったマリーは、オフィス街を颯爽と歩く女性のような足取りで支援センターを離れ、帰路に就いた。真夜中のアパート区画に、マリーが履いている高級靴によって鳴らされる、硬質な足音だけが響く。

 五キロほど歩いた頃だった。硬質な足音に、硬質な声が混ざり込んできた。それはアンドロイドにしか聞き取れないほど、か細い声だった。マリーは、自動的に保存される仕組みになっている音声記録の分析を開始し、結果が出るのと同時に全速力で駆け出して、音声が発生した座標へと急いだ。音声の分析結果は、緊急を要する事案の発生をマリーに認識させた。微かに聞こえたその音声は、風の音でもなく、子犬の甘え声でもなく、女性の寝言でもなく、赤ん坊の夜鳴きでもなく、口を押さえ込まれた女性の悲痛な叫び声だった。

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