第一章 7

 アシュリーとケヴィンは、二人きりで甘い時間の続きを過ごしたがっている友人たちを置いて、店を出た。店の前には、すでに父の車が到着していた。何も命じなくても、ケヴィンはいつも頃合いを見計らって、車を呼び出しておいてくれる。

 二人が乗り込むと、車載コンピュータのドライバーが指示を仰いだ。

「お帰りなさいませ、アシュリー様。行き先を指示してください」

「家に戻って」

「かしこまりました。発車いたします」

 帰り道は、眠気よりも喜びの感情がまさった。

 幸せそうなシャラダとトニを見ていると、私まで幸せになる。これだから、人間って素晴らしい。

 人類の祖先が育み伝えてくれた、愛を共有する能力に、アシュリーは心から感謝した。愛情のホルモンとも呼ばれているオキシトシンは、見ず知らずの人々が抱き合っている写真を見ただけでも分泌されることを、彼女はよく知っている。他人が幸せそうにしている場面を目の当たりにするだけで、人は愛情を強めることができるのだ。この共感力があれば、世界のあらゆる国々が愛と幸福を共有し、やがて訪れるかもしれない戦渦を、未然に防ぐことが出来るかもしれない。心から、そう信じることができた。

 しかしアシュリーは、現実を見据えることも忘れてはいない。異なる文化間や、利害の不一致が生じやすい場所で、戦争は必ず起こることを学習している。

 第三次世界大戦後の世界情勢は安定しているが、人類が地図に書き込んだ排他の線は、今も地球を縛り付けるようにして存在している。小さな小さな戦の火種が、その鎖の下に潜み、燃え上がる時を待っている。しかし、何も手を打っていないわけではない。人類は数多の失敗から教訓を得て、戦争映像保存館をネット上に構築し、誰でも閲覧できるようにしたのだ。現代人は皆、二十一世紀後期から各国の兵士のヘルメットに装着され始めたカメラによって撮影された戦地の映像を、すべての人類が制限なく、いつでも自由に閲覧できる。小規模な紛争を含む、全ての戦争を記録した映像の中には、血生臭い場面も多く含まれているが、それらの映像が編集で切られることはない。兵士の亡骸の山を撮影した映像も、一般市民が惨たらしく殺されている映像も、全てそのまま閲覧できる。映像を撮影したカメラを装着していた人物の名前や国籍は非公開で、撮影された死体の着衣や顔つきは画像加工によって隠されていて、人種も国籍も特定されないようになっている。そうすることでナショナリズムを徹底的に排し、新たな恨みが生じないような取り組みが為されている。あらゆる配慮を備えた戦争映像保存館は、人間が人間を殺すという行為とその結果を、全ての人類に向けて簡潔かつ強烈に突きつけ、戦争の不合理を訴える。二十一世紀を生きた世界的資産家の呼びかけと資金提供によって、各国の軍の協力を得て始まった戦争記録保存計画と映像公開は、当初激しく批判された。だが、戦争の現実を突きつける事こそが唯一の平和への道であるとの認識が広がり、彼の理念は理解され始め、やがて世界中で賛同を得て、ついに実現した。人類は同じ映像を介して悲劇と恐怖を共有し、同じように後悔し、反省し、反戦を誓うようになった。世界は、祖先が伝え残してくれた共感力を最大限に活かして、戦争を回避するための環境を作り上げることに成功したのだ。

 戦争映像保存館で学んだアシュリーは確信している。人は、戦争を防ぐための素晴らしい仕組みを実現した。慈善活動においても、同じことが出来るはずだ。飢えの苦労を知れば、手を差し伸べる人が増えるに違いない。

 彼女は、今日の出来事を誰かと共有したいという衝動に駆られ、隣に座るケヴィンに話しかけた。

「シャラダとトニ、幸せそうだったね」

「はい。彼らから貰った画像を事細かに分析したところ、笑顔がとても多いことに気づきました。二人の生活は、幸せに満ちています。写真というものの最大の魅力を知ったような気がします」

「写真って、本当に素敵。その一瞬に、真の美しさが宿るの。いい写真ばかりだったね」

 ケヴィンと話したおかげで、アシュリーの心はまた一段と軽くなった。出掛ける時に感じていた無力感は、もう影も形もない。窓の外を眺める彼女は、無意識に頬を緩めた。人とアンドロイドとの間に生じる、共感めいたもの。それがいつか、本物の共感に変わる日が来るような気がした。

 道沿いに並ぶ、古き良き様式美を見せつける高層ビル。その所々に紛れるようにして建つ、先進的デザインの超高層ビル。新入りのビルの外壁は金属のような質感の遮熱材に覆われていて、太陽光をよく反射し、道路に光を届けてくれている。歩道を行く人々にとっては眩しくて邪魔でしかない反射光だが、アシュリーの目には、下界に降り注ぐ天界の光を描いた絵画のように映った。幸福を共有した心が、人によっては迷惑でしかない強烈な光を、美しく感じさせてくれる。

 クラシックカーを模した最先端の電気自動運転車が、光に満ちたビルの谷を行く。

「ケヴィン、ビルの外壁を見て。きらきら光って、すごく綺麗」

「はい。電灯とは違い、太陽の光は透き通っていて美しいです」

 二人の間にある共感は温度を抱き始めていたのだが、アシュリーはそれを自覚できてはいなかった。

 アシュリーは帰宅後、ゆったりとした動作で出勤準備を始めた。出勤時間まで、まだ余裕がある。リルとフロウをブラシで撫でてあげたり、ケヴィンと立体映像の続きを楽しんだりしなから、夕方になるまで過ごす。

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