ありふれた日常

ささやか

第1話 薬指の永遠

 ここに一本の薬指がある。

 左の薬指だ。

 てのひらを揺らすとそれはいともたやすく窪みのなかを転がる。命と同じくらい小さくて軽い。切断面から流れる血は赤く、持ち主の悲しみを懸命に現実に表そうとしていた。

「ありがと、カンナ」

 薬指の持ち主だった少女からささやくようにお礼を言われる。彼女の左薬指があるはずだった根本からも鮮血が流れており、涙のようだと思った。亡くなった彼女の最愛を想っての。

「どういたしまして」

 頷いて左薬指を専用のコールドボックスに入れる。蓋が血で汚れてしまった。というかそもそも手が汚れている。あらかじめ用意していたおしぼりで鮮血をぬぐった。

満果みちかも止血したほうがいいんじゃない?」

「うん……する」

 そう言いながらも満果は動かない。痛みか悲しみか、彼女の目から涙が零れる。感情のままに流れる涙を美しいと私は思った。

 私たちは汚れている。私たちの常なる言動は純粋であることを許されず、幾分かの思惑や感情が入り混じってしまっている。ただ唯一、感情の奔流のみが純粋さを辛うじて保っていた。満果の涙には様々な感情が混じり合っていたが、それでもなお美しかった。それはつまり彼女自身が純粋であるという証明だった。

 伴侶を亡くしたときに左薬指を切り落とすことが最近女子高生の間で流行っている。最愛の伴侶以外とは決して結ばれることはないと世界に刻みつけるため、運命の赤い糸がつながる左薬指を切り落とすのだ。

 この愚かだが純潔ともいえる行為は、大人気バンドの女性ボーカルがSNSで公開したことから爆発的に広まった。私はそのバンドの曲がいまいち好きになれなかったので大した興味もなかったが、幼馴染に頼まれれば嫌と断るほどのこだわりもなかった。

 きっと満果は歪になった両の手で伴侶との甘やかな思い出をなぜるのだろう。彼女の愛情は今この瞬間永遠だった。たとえ三ヶ月後にゴールデンレトリバーと交尾して新しい子どもを作ったとしても、今この瞬間は永遠だった。

 満果の部屋に飾られた亡き伴侶の写真に目をやる。毛並みのよいシベリアンハスキーがアインシュタインもかくやとばかりに舌を出していた。

 このジャルダンくん(12さい)が満果の最愛の伴侶だったのだ。夫婦仲は極めて良好で既に一男四女の子どもを設けたことも私は知っている。満果から散々のろけ話を聞かされたからだ。

 満果は泣いている。

 私はそれを羨ましいと思った。



  






 山田山女学院高等学校3年B組出席番号2番飯尾奈穂が夏休み明けから右目に眼帯をつけているのは、塾帰りに強姦されて右眼にペニスを突っこまれたからだと噂されている。

 学校という場所はどこまでも閉鎖的だ。刺激的な情報は瞬く間に拡散し、私のもとにも届く。

 飯尾さん。

 透きとおるような美人、という表現が私のなかでしっくりくる。

 淡雪のように白い肌は外国の血が入っているおかげなのだとやはり噂で聞いたことがある。その肌とは対照的に肩までのばされた髪はどこまでも黒く、いかなる染髪料でも侵せないかのように艶めいていた。なめらかに通った鼻梁に夜色の瞳。そして唇だけが赤い。

 もちろん顔だけではない。平均よりも高い身長に、制服を着ていてもわかる明らかな凹凸。飯尾さんはずいぶんと美の女神に愛されたようだった。

 飯尾さんが纏う雰囲気はまさに深窓の令嬢といった具合で、もしも噂が真実であり、彼女が凌辱の末に右眼を失ったのだとしたら、私は強姦魔を褒め称えてからぶっ殺してやりたかった。美しいものは踏みにじりたくなる。けれども他者がそれを行うのは赦しがたかった。

 私は飯尾さんと一度も話したことがない。それは最終学年になるまで彼女と同じクラスにならなかったのもあるし、そもそも彼女が誰かと会話することがほとんどないことが原因だった。彼女が自発的に言葉を発するのは授業であてられたときくらいだ。いつも大抵自分の席で文庫本を読んでいる。

 なので端的に言えば彼女は孤立していた。しかしそれは決してクラスが飯尾さんに対して悪感情を抱き排除しようだとかいじめの標的にしようだとかしているのではない。孤立を望んでいるかのような彼女の振舞いをクラスが許容しているのだ。私はそれを良いことだと思っている。

 飯尾さんの席は窓側の一番前だ。彼女の様子をぼんやりと眺める。ホームルーム前の喧騒のなか眼帯をつけた少女は今日も細い指で文庫本のページをめくっていた。ブックカバーがかけられているので何を読んでいるのかは知ることができない。それが高尚な古典文学でも低俗な娯楽小説であっても彼女なら許される気がした。

「どうしたのぼーっとして」

 満果が右人さし指で私のほほをつつく。

「いや、なんでもないけど」

「なんでもないけど?」

「飯尾さんって綺麗だよなーって思って」

「そうだね美人だねそれで?」

「特にないけど」

「ないんかい」

 満果は再び私のほほをつつく。彼女の左手には薬指が欠けていた。私が切ったのだ。この子がもう絶対に結婚指輪をつけることができないのかと気づくと、漠然とした罪悪感が胸のうちにわだかまった。けれどきっとそれは一時限目の英語が始まれば忘れてしまう程度のものだった。

「どうでもいいけど飯尾さんって、普段は冷たいけれどもし付き合ったらすごい尽くしてくれそうだよね」

「そうかな?」

 首をかしげる。私のなかの飯尾さんは付き合っても何も変わらなそうだった。冷静にキスして冷静にセックスをしていそうだ。

「というか飯尾さんって誰か付き合ったり結婚したりしてるんじゃない? なんかそんな気がする。だからすぐ帰るんだよ」

「あーそういう説か。あるね。でもそうなら噂になってそうだけどね」

「そんなものかなあ。そういえば飯尾さんのアノ話ってどうなの?」

「アレねー。なんか塾に行っているのはほんとみたいだけど肝心の部分はどうだかわかんないなあ」

 交友関係の広い満果でもわからないなら私にわかるはずがない。私はこれ以上この話題を続けることを諦めた。

「ねえ。そういえば指、痛くないの?」

「大丈夫。痛み止め飲んでるから。カンナにもあげようか?」

「いや、私が痛み止めもらってどうすんの」

「ただの痛み止めじゃないの。これがあれば痛いことも辛いことも全部消えてなくなるんだって。あじゃ子から教えてもらったんだけどマジで効くよ」

「え、なに、呼んだ?」

 あじゃ子が机の海を泳いでこちらまでやってくる。

「いやほら、あじゃ子からもらった薬。ほんと効くー。ありがとー」

「でしょ! MERIKAやアヴェ・マリも使ってるんだって。絶対ヤバい効くよ」

 最近流行りだした芸能人の名前を分厚い唇で音にするあじゃ子。

 私は彼女が好きではなかった。もっと適切な言葉を用いるなら、私は彼女が嫌いだった。現代国語的に何文字以内で理由を述べよと言うならば滔々と述べることもできるだろう。真っ黒な体毛に覆われた全身。つぶらな瞳と大きな鼻孔。暴力を秘めたずんぐりとした体型。微塵も似合わない制服のミニスカート。

 それから話題はあじゃ子の新しいカレシに変わった。テンションの高いうざいあじゃ子にツーショット写メをご丁寧に見せられる。新しいカレシは端正な顔立ちをした黒人だった。剥き出しの右腕に彫られた精巧なピエロが邪悪な笑顔でこちらを見ていた。あじゃ子のカレシであるライアンは、今年二十歳になったばかりだそうで、先の痛み止めも彼が調達してくれたものらしい。

「カンナにもあげるよ、これ。なんかつらいことあったら飲めば効くし」

 それに、といつもの馬鹿でかい声からささやき声に変わる。

「これ飲んでオナれば超気持ちいいんだって」

 ピンク色の錠剤を包装したPTPシートを毛むくじゃらの手に無理やり掴まされる。彼女が自慰に耽る姿を想像してしまい背筋に怖気が走った。

 にやりと歪むあじゃ子の笑顔を見る。この雌ゴリラと進んでセックスをしようとする男がいることは驚きであったし、こんな不細工にカレシができるのに自分にはいないという事実が私の劣等感を刺激した。

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