神の右腕 ―Destiny alteration―
宵闇むつき
第一章
神との遭遇 1
部屋が、大量の紙で埋まっていた。
メモ帳、コピー用紙、ルーズリーフ、果ては付箋まで、部屋にあった紙という紙に大量の文字が書き込まれ、それが部屋中に散乱している。
床には、インクが空になったボールペンが二本転がっていた。
「嘘だろ……」
寝て起きてみればこの惨状なのだから、どうやらこれは相当酷い病気らしい。
恐怖に苛まれながら見下ろした右手の甲には、スマホの電波アイコンのような、黒塗りの三角形と、桜の花のような模様が組み合わさったアザが浮かんでいた。
これが右手に浮かんだのは、二日前の夜――締め切った室内で風を感じた直後のこと。そしてすぐに、右手の異常が始まった。
最初は、痙攣したかのように一瞬だけ動くだけだった。けれど翌日には、勝手にペンを握って紙に文字を書き始めたのだ。その瞬間の驚きと恐怖は、言葉に言い表せない。慌てて左手でペンをはじき落として、右腕を何度もマッサージしたくらいだ。
その後、ネットで様々な病状を調べたけれど、決定的な答えは得られないまま時間だけが過ぎ、不安に苛まれながらも横になって――今朝のこの状況だ。
悪夢の続きを見せられているかのようで、眩暈がした。
使われた紙の量からして、右腕は一晩中動き続けていたに違いない。なのに、腕に疲労感が全くないのだ。まるで別人の腕になってしまったかのようで、気持ちが悪かった。
「……、……」
両目を強く瞑って溜め息を吐き……恐る恐る、部屋の様子を再確認。
現実だった。
「なんなんだよ、もう……」
僕が何をしたというのだろう。泣きそうな気分だけれど、だからって部屋をこのままにしておく訳にはいかない。嫌々ながらも、散乱しているコピー用紙やルーズリーフを拾い上げ、纏めて部屋の隅へと置いておく。
ちらっと見えた紙上には、日本語で縦書きの文章が綴られていた。鍵括弧が見えたから、小説のようなものが書かれているのかもしれない。でも、恐ろしくて中身を確認する気にはならなかった。
何故なら、明らかに僕の字ではない筆跡なのだ。それが意味を持った文章であったなら、なんて考えたくもない。
趣味で小説や二次創作SSを書いていることもあって、『脳内の妄想が自動で出力されたなら』なんて想像をすることはあるけれど……だからって、こんな状況は望んでいなかった。
ぐるぐると世界が回っているような、何をどうしていいのか解らない状況の中、僕は深く息を吐く。
視界の外れに入った姿見には、高校生にしては背が低く、童顔な青年の、疲れ果てた顔が浮かんでいた。
鏡の中の自分と目を合わせ、僕は自分自身を改める。
名前。
年齢。
好きな人。
大切な思い出。
忘れがたい記憶。
――そして、決意。
「……大丈夫。僕は僕のままだ」
無意識の内に狂ってしまっているのだとしたら、それほど恐ろしいことはない。しかもこんな時に限って、両親も叔父さんも不在ときている。
高校生活と共に始まった一人暮らしも、もう一年近く。寂しさにも慣れ、一人でも大丈夫、という自信が付いてきた矢先にこれだ。辛い時に一人きりというのは、思っていた以上に心に来るものだった。
それでも、一人で対処しなければ。一年前に決めたことだ。
異変――或いは病状は、日に日に悪化している。
ネットで調べた範囲内では、『エイリアンハンドシンドローム』という、腕が勝手に動く病気はあるらしいものの、こうして明確な文章らしきものを書き出す、という症例は見当たらなかった。両親は虐待をするような人達じゃないし、解離性同一性障害の線も薄いはずだ。となると、可能性が一番高いのは夢遊病か。この一年、軽い鬱状態が続いているし、ストレス起因の可能性は高そうだ。……どうしようもない。
今は春休み中だからいいけれど、学校が始まってからもこの調子では、まともに授業を受けていられない。
何より、精神的にも限界だ。さっさと病院で診てもらおう。
総合病院に行けばなんとかなるだろうから、まずは受付時間を調べて……と思いながら、ベッドの上、枕の隣に置いていたスマホを手に取ったところで、メッセージアプリの通知に気が付いた。
相手は、御神(みかみ)・蓮華。
幼馴染であり、『親友』でもある少女だ。
メッセージの内容は、簡素なものだった。
『おはよう、直人』
毎朝届く、いつもの挨拶。
それに安堵している自分を感じながら、僕は返事を打とうとスマホを持ち直し――けれど、指は通話ボタンをタップしていた。
「――? あっ、あー……」
一拍遅れて、ようやく自分の行動に気付く。
完全に無意識だった。そして既に通話が繋がっていて、
『――おはよう直人!』
嬉しそうな蓮華の声を聞いた瞬間、安堵から全身の力が抜けて、僕はベッドサイドに座り込んでいた。
「……おはよう、蓮華」
『ど、どうしたんだ直人、酷い声だぞ? 何かあったのか?』
何でもない、と否定して通話を切らなければ。そう思うのに、出来なかった。
「……実は、ちょっと体が変でさ」
『体が? ――詳しく聞かせてくれ』
居住まいを正したような気配と共に、蓮華の凛とした声が響く。
その頼もしさと、半月ぶりに蓮華の声を聞けた嬉しさで、視界が滲んでいた。……本当に情けない。でも、もう心を止められなかった。
自分で思っている以上に、僕は追い詰められていたのだろう。蓮華に説明しながら、縋るようにスマホを握り締めていた。
「……それで、今朝は紙の山が出来ててね。原因は解らないままだし、病院に行こうって決めたんだ。そこで蓮華のメッセージを見て……気付いたら、蓮華に電話してた」
『そうだったのか……。そういうことなら、私も病院に付き添おう。そんなに不安そうな声をした直人を――「親友」を、放ってはおけない』
「そんなに酷い?」
『ああ。今すぐに抱き締めてあげたいくらいの声だ』
「それは酷いね……。でも、今朝も稽古があるだろうし――」
『――私は、直人の為ならなんでもする。有言実行は私の主義でもあるんだ』
「……ごめん。ありがとう、蓮華」
『気にするな。では、お爺様に連絡したらすぐに家を出よう。待っていてくれ』
解った、と返事をして、名残惜しさを感じつつも通話を切る。そして一つ息を吐いてから、僕は顔を上げた。
不安や恐怖は消えていない。でも、電話をする前よりも確実に気分が前向きになっていた。
蓮華は僕の精神安定剤なのだ。それを改めて痛感した。
「やっぱり、電話くらいは……」
……いや、駄目だ。そうやってボーダーラインを下げていくと、一年前の決意が無駄になってしまう。それは当時の僕達に対する裏切りだ。蓮華に甘えそうになる気持ちを封じて、また頑張っていかないと。
そう思いを新たにして、僕はベッドから立ち上がり――
――玄関のチャイムが鳴った。
「蓮華? って、流石に早過ぎるか」
まだ通話を終えてから一分も経っていないのだ。それはないだろう。
ここ数日は通販で何も頼んでいないから、宅配便の可能性も低い。となると、新聞の勧誘だろうか? だったら無視だ。宗教の勧誘でも無視だ。
僕は無神論者なのである。
とりあえず、覗き窓を確認しにいく。その途中でもう一度チャイムが鳴り、玄関の向こうから声が響いてきた。
「おはようございまーす! 迎えに来ましたよー!」
「誰……?」
覗き窓の向こうに立っていたのは、見知らぬ女子高生だった。
可愛い子だ。目鼻立ちがはっきりしていて、大きな瞳がキラキラと輝いている。艶のある長い黒髪と、この辺りでは見かけないブレザーの制服も相まって、アイドルのようにも見えた。
と、ニコニコ微笑んでいた彼女が、『あれ?』と言わんばかりに小首を傾げ、
「まだ寝てるのかな。えいえい」
ピンポン、ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン――
「すみれですー! 開けてくださーい!」
「誰?!」全く知らない名前なんですけど?! あと連打止めて連打!
「あ、声がした。居留守してたんですね」
「……!」
楽しげな表情で、少女が覗き窓を覗き込んでくる。
向こうからはこちらは見えないはずなのに、表情を見透かされたかのようだった。
「私は怪しい者じゃありません。その右手の異変について、ちょっとお話をしに来たんです」
「ッ?!」
何故そのことを知っている?
それに驚く僕の視界の中、彼女はニコリと微笑んでみせた。
「それが何なのか、どんな意味を持つのか、私なら説明出来ます」
「……」
どうしたものか、逡巡する。
怪しいのは確実だ。でも、何か情報が欲しいのも確かだった。
……話を聞こう。ただ警戒は緩めない。僕はチェーンをしたまま、ゆっくりと玄関の扉を開いた。
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