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◇◇◇
屋敷を抜け出すのは思いのほか簡単だった。
読書をするからと言えば使用人たちはコーディアを自由にさせてくれる。部屋からそおっと抜け出して誰にも見られないように屋敷の外に出る間はひやひやしたが。
コーディアは高級住宅街を抜けて辻馬車を拾った。お金は前回の家出騒ぎの時に換金したものの残りをこっそりと取っておいたのを使った。
とりあえず話を着けないと、と思った。コーディアができるのは話し合いだけだ。
「まさか、きみのほうから僕に会いに来てくれるとはね。驚いたよ。それも一人きりで」
運よく屋敷にローガンがおり、すんなりと面会することができた。屋敷の使用人に案内されたのは二階にある書斎だった。
黒樫の書斎机に背の高い本棚がコーディアを威圧する。
コーディアは体中から勇気を集めて、委縮しないようお腹に力を入れた。
本当はライル以外の男性と二人きりなんて怖くてたまらない。相手は、前回コーディアに嫌な視線を送ったローガンだ。
従兄は目の前に座り優雅に足を組む。
ローガンはにんまりと笑った。
「ちょうどいい。きみにはこの書類に署名をしてもらおうと思ってね」
ローガンは立ち上がり書類を持ってきた。
応接机の上に置かれた紙に踊る文字をコーディアは目で追う。
そこに書かれている文字は財産放棄と親子関係解消に関する同意書だった。
「な、なんですか、これは」
「なにって。きみは偽物のコーディアだ。コーディアという名前の子供は十三年前の熱病で死んだ」
「違いますっ! わたしが本物のコーディアです。わたしは今日、新聞記事について抗議をしに来たんです」
コーディアはなんとか言葉を詰まらせずに言い切った。
「おやあ、どうして僕が抗議されないといけないんだ? それだとまるで僕があの記事を書かせたみたいじゃないか」
ローガンは心外だとばかりに大げさに肩を持ち上げた。
「……ち、違うんですか?」
「さすが粗野な租界育ちの人間は言うことが違うね。何か証拠でもあるのかい?」
「そ、それは……」
コーディアは口ごもった。
確かに証拠はない。ただ、状況的に彼らしかいないというだけで。
ローガンは笑い出した。
滑稽なものを見るように、コーディアに対して遠慮なく。
「で、でも。わたしは父の娘です。出生証明書だってあります。そ、それに……租界にいるディルディーア人の子供は数が少ないんです。家族連れ自体が少ないんですから、記事にあるようにもしもコーディアが亡くなって代わりを見つけようとしても、同じ条件の女児がそんな簡単に見つかるわけもありませんし、どこかから攫ってきたら租界中が大騒ぎになります」
コーディアは一生懸命まとめた彼女なりの意見を述べた。
ジュナーガル人とディルディーア大陸人とでは見た目が大きく違う。まず肌の色が違う。
租界には軍人や商人は大勢いても大半は独り身、もしくは本国に家族を残してきている男性だ。
女性や子供は数が少ない。その中でも特に数少ない女児が攫われたら大騒ぎになる。
「ふうん。でもさ、あのときって租界中が大混乱だったんだろう。そう聞いているよ。混乱の中病で死んだって聞かされたら誘拐された親も信じてしまうんじゃないのかな」
「わたしと母は顔がそっくりなんです。そんな偶然ありますか?」
写真も残っていますと付け加えるとローガンは馬鹿にしたような笑みを寄越した。
「そんなことはね、どうでもいいんだ。そういう些細なことは世間は気にしない。そして僕にとって重要なことはきみがヘンリーの実の娘ではないという書類上で証明されることと彼の相続人に僕がなるということだ」
ローガンは薄く笑った。
「そ、そんなに父の財産が欲しいんですか? 父はまだ生きています。これからだって誰かと再婚するかもしれないのに」
「それはないね。彼は亡くなった妻を愛していて、今度誰とも再婚する気はないって公言しているから」
僕にとってはそれも幸運なことだよね、と彼は付け加えた。
「侯爵家の次男のくせに、蓄えた財産を我が家に収めないなんて、ありえないだろう」
「そ、それは勝手な理屈です……」
コーディアは怖くなった。
目の前の従兄の考えていることが分からない。
「本当は僕の妻にしてもいいかって思ったんだけど、僕だってきみを好きで娶るわけではないんだ。だからもっといい方法を思いついた。とにかく時間はたっぷりあるからね。手はいくらでもあるし。病院に入れる方法だってある。世間はどちらの味方をするだろうね? 侯爵家の跡取りの僕と、偽物の成り替わり娘の世迷言と、どちらを」
ローガンは瞳を三日月のように歪めた。コーディアの背筋が粟立つ。
そこでコーディアは己の失敗を悟った。
一人でどうにかできるなんて、どうしてそんな甘いことを考えたのだろう。
◇◇◇
同じ日、ライルは待ち望んだ客人の訪問を受けた。
「まあ、ヘンリー! あなた一体どこに行っていたの! もうずぅぅぅっと連絡を取りたくて仕方なかったのよ」
玄関広間で客人を出迎えるのはその家の客用使用人や執事であるが、エイリッシュは昔から堅苦しいことを抜きに物事を進めたがる。そういう自由すぎる母を見て育ってきたライルのほうが母を反面教師にお堅く育ってしまった。
直接ヘンリーを出迎えたエイリッシュを追いかける形でライルも玄関広間まで出ることとなった。
「いや、すまない。そちらの動向は一応部下から報告を受けてはいたんだが、いかんせん秘密裏に行動をする必要があったもので」
「言い訳ならあとでたっぷりと言いたいところですけどね。コーディアがあなたの本当の娘ではないだなんて酷い記事まで出ているのよ」
エイリッシュとしてはここが一番許し難いようだ。この記事が出ていらい機嫌が悪い。
「はあ。そうですか……」
「はあ、そうですかってなんですかそれは」
ヘンリーの反応にエイリッシュがいちゃもんを着ける。
「いや、彼女は私とミリー、いやミューリーンの娘ですよ。紛れもなく。そっくりでしょう、あの頃の彼女に」
ヘンリーの事実をそのまま告げる物言いにエイリッシュも鼻息を荒くする。
「当たり前じゃない! 目の色はコーディアの方が濃いけれど、顔立ちは本当にそっくりだしふとした表情も似ているわ。ずぅぅっとミリーのことを見つめてきたわたくしが断言するのよ。あの子はミリーの娘だわ」
エイリッシュがヘンリーへの対抗心をむき出しにした返しをすると彼の方がなんとも言えない顔をして、「一応私に似ているところもあるにはあるんだがね」と小さく付け加えたがエイリッシュには黙殺された。
「それで、娘は部屋ですか?」
「ええと、そうね。本でも読んでいるのではないかしら」
呼んできてもらえる? とエイリッシュは手近な使用人に言いつける。
三人は応接間に腰を落ち着けた。
ヘンリーのするべきこととは要するに自分の兄一家の過去を洗いなおすことだった。
自分の老いを感じることが多くなった近年、ヘンリーの悩みの種といえば何かにつけて金を無心してくる兄一家だった。
兄の長男ローガンが裕福なロルテーム貴族の娘を妻に迎えることが決まって、一安心していたのにそれが破談になった。
ローガンの借金がばれたからだ。
とにかく自分に万一のことがあった場合、一人残されたコーディアを一族が狙うのは火を見るよりも明らか。
ヘンリーは自分がまだ健康なうちに後顧の憂いを無くしておこうと実家の侯爵家の膿を出しつくすことを考え実行に移すことにした。
「いえ、それはわかるけれどね」
話を聞かされたエイリッシュは額を押さえた。
「こちらにも一言言っておいてほしかったわ」
「余計な心配をさせたくはなかったもので」
「あなたね……」
エイリッシュはあきれ顔だ。
「それで、具体的には何をするつもりなのかしら?」
「ああそれは……」
ヘンリーが口を開いたとき、応接間の扉がばたんと開かれた。
客人が訪れているのにずいぶんと無作法だ。
「大変です、奥様!」
「まあ。何事ですか」
さすがのエイリッシュも声を固くする。
「それが……」
エイリッシュに用事を言いつけられた使用人が口ごもる。代わりに後ろからメイヤーが現れて頭を下げた。
「申し訳ございません。コーディア様がおひとりで出かけられました」
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