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沈黙を破ったのはライルの方だった。
「また私ともどこかに出かけないか。寒くなってきたが、あまり外に出ないのも窮屈だろう。暖かな外套を準備させる。もう一度ゆっくり大聖堂を行くのでもいいし、ジュナーガル料理を出すレストランを見つけたんだ」
「ジュナーガルの?」
ライルはいつのまにそんなことをしてくれていたのだろう。
「きみはジュナーガル料理はよく食べていたのか?」
「寄宿学校では基本的にはフラデニア料理でした。けれど、料理人の一人がジュナーガル人でしたのでたまに彼の地の料理がでていました」
香辛料をたっぷりと利かせた羊の煮物や野菜の煮物である。それらを薄く伸ばしたパンと一緒に食べるのだ。
とうがらしの粉末も使われているのでぴりりと辛いが、煮込んだ野菜や肉のうまみがしみだしていて後を引く。
「わたしが幼いころはマーサがジュナーガル風のお菓子を作ってくれていたんですよ」
「昨日の茶会で出したという?」
「はい」
コーディアにとって懐かしい味でもある。それに友人のディークシャーナの実家からもよく差し入れの菓子が届いていた。
「私も今度食べてみたい」
「でしたらお屋敷の料理番に頼んでみましょう。今回のお茶会のために覚えてくれたんです」
「それもいいが……」
ライルは歯切れ悪そうに何かを言いあぐねる。
「どうかしましたか?」
「たしか、どこかへ出かけようかと、話をしていたのだと思うのだが」
そういえば。ライルからどこかへ行こうと提案をされていたのだった。
「で、でも。ライル様お忙しいのに、わたしに付き合っていただくなんて、大丈夫でしょうか?」
もちろん彼と出かけられるのは嬉しい。
けれど彼は毎日屋敷を空けるし、夜も付き合いでクラブに顔を出すこともよくある。たまの空き時間はゆっくりと休んでほしい。
「もちろん。きみは私の婚約者なんだ」
ライルは別段含み無く言ったのかもしれない。
それなのに、婚約者という言葉がコーディアの胸の奥を貫いた。
(そうよね……婚約者だものね)
急に心が乾いていくようだった。
「ありがとうございます。そうですね、今度は博物館なども行ってみたいですし、レストランも楽しそうです。いつかのようにライル様のお邪魔じゃなければ社交もお手伝いします」
コーディアはつとめて笑顔で答えた。
顔には笑顔を張り付かせていたのに、心の中は乾いていくようだった。
ライルが優しいのも気を使ってくれるのもコーディアが彼の決められた婚約者だからだ。彼がことさらコーディアに気を使ってくれるのは、一度コーディアが騒動を起こしたからだ。
お互いにこの結婚は決められたもの。
そのことを考えるとコーディアはマスタードがたっぷりと塗られたパンを口いっぱいに頬張ったときのようなつんとした気持ちになった。
◇◇◇
「やられたわ」
エイリッシュの悔しそうな声を朝から聞く羽目になったのはその翌日のことだった。
くしゃりとまるめた新聞を片手に持ち、普段よりも乱雑に朝食会場に入ってきたエイリッシュ。席に着く前に新聞を振り回しながら「もうっ! ほんっとうに腹が立つったら!」と喚いた。
子供じみた行動だが、どうしてだかこの母がそれをやると様になっているのだ。
本当に役得な母である。
「一体どうしたっていうんです」
ライルはおざなりに尋ねた。
ここで無視をするとあとで三倍になってねちねちと嫌味が返ってくるからだ。面倒な母である。
「これを見なさいな」
エイリッシュは今しがた、くしゃりと握りしめた新聞を広げた。
ライルは眉根を寄せた。
新聞の名前は『ケイヴォン日報』。いくつかある新聞の中でも購買料が安く庶民に人気のものだ。政治的主張をしない代わりに上流階級や有名人らのゴシップを専門に扱っていることでも有名だ。
「母上。ゴシップ専門誌を愛読するのはやめていただきたいですね」
ライルはあきれた声を出す。
同じ席についているコーディアは『ケイヴォン日報』がどんな新聞か把握していないのだろう、小さく首をかしげている。
「あら、少し前からわたくしの好きな作家が連載を始めたのよ。『女中ミリアは見た』っていう小説でねえ。転々と家々を渡り歩く孤高の女中ミリアが行く先々で騒動に巻き込まれていくんだけれど、これがまた面白いのよ」
「はいはい。わかりました。それで、どの記事ですか?」
エイリッシュの小説の趣味への言及を避けたライルは脱線しかけた話を元に戻す。
「ええと、そうね。感想についてはあとでサイラスに語りつくすわ」
エイリッシュは新聞をめくっていく。
眼前に出された見出しを読みライルは目をすがめた。
『マックギニス商会社主、侯爵家二つを天秤か? 一人娘に二人の婚約者』
ライルは不愉快な記事を読み進めていく。
概要はこうだ。
マックギニス商会の社主ヘンリー・マックギニスは一人娘の結婚相手としてローガン・マックギニスに目をつけ、彼の婚約を破棄させたのにもかかわらず、最終的にはデインズデール侯爵家の嫡男に白羽の矢を立て、ローガンとの結婚は無しにするよう迫った。ローガン氏とロルテームの貴族との縁談に横やりを入れ、愛する二人を泣く泣く別れさせ自身の娘を売り込んだくせに、この変わり身の早さはどういうことか、と書かれてある。
「なんですか、この腹立たしい記事は。そもそもローガンの縁談話が流れたのは先方からの申し出だったと調べはついています」
ライルも一応調べていたのだ。
不躾なローガンについて、あれやこれを。
その中で彼の縁談話のことも知った。インデルクとは地続きではないが、同じディルディーア大陸の北東に位置するロルテーム王国の貴族との縁談をローガンは進めていた。しかし、いよいよ婚約を、という段階になって突如として先方から断ってきたのだ。
「ええそうね。
それだって一年近く前のことよ、とエイリッシュは淡々と語った。
ライルもそこは知っていた情報なので頷いた。妻の莫大な持参金を当てにしての縁談である。
しかし先方も賢かったということか、事前に嫁ぎ先の台所事情を調べ上げ、結局話は立ち消えた。
「しかし、こんな記事いったいどこから」
「そりゃあ向こうが書かせたに決まっているでしょうよ。こんな、ローガンがいかにも被害者なんていう記事」
エイリッシュは怒りが収まらないのかいささか乱暴に椅子に腰を下ろした。
口調も平素よりも乱雑だ。
「ああ腹が立つったら。コーディアのことまで悪いように書いているのよ!」
「えっ……」
コーディアが驚いた声を出したのでライルとエイリッシュは慌てた。
「ええと、あなたは心配しなくてもいいのよ。なんていうか、これは大人の事情っていうものなのよ」
エイリッシュが慌てて取り繕う。
「エリーおばさま。わたしにも記事を見せてください」
「ええと……」
コーディアにじっと見つめられたエイリッシュはつい、と視線を明後日の方向に逸らせた。
「おばさま」
コーディアが尚も言い募る。
一番遅くに朝食会場に入ってきたのがエイリッシュだったためコーディアは親子の会話を聞きながら断片を繋ぎ合わせて事態を推測したのだろう。
「わかったわ。あとでね。わたくしつい頭に血が上ってここにコーディアがいることを忘れていたのよ」
エイリッシュはしゅんと肩を落とした。
「わたし、自分のことなのに何も知らせてもらえない方が……嫌、いえ、辛いです。だから、その……隠さずに教えてください」
「わかったわ。ひとまず朝食にしましょうか」
エイリッシュの力ない一言で使用人たちが朝食の皿をそれぞれの目の前に差し出した。
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