五章 新聞記事とライルの心

1

 コーディアが自室で本を読みながらくつろいでいるとメイヤーがライルの帰宅を告げに来た。

 コーディアは読んでいた本にしおりを挟んで立ちあがる。


 今読んでいる本は彼から贈られた『探偵フランソワの冒険』シリーズである。ムナガルでは本一冊手に入れるのも苦労したのに外国の本であるはずのこのシリーズもインデルクでは簡単に手に入ってしまう。

寄宿学校に途中から編入してきた生徒が『ムナガル不便~』って喚いていたのが今更ながらに納得できる。(コーディアには本国にはどれくらい物が溢れているのか想像もつかなかったのだ)


 コーディアは素早くドレスのスカートについた皺を伸ばして、鏡の前で髪の毛が乱れていないか確認する。

 ささっと終わらせてコーディアは居間へ向かった。

 今に向かう道すがら侍女にお茶の準備をお願いする。

 コーディアの最近のささやか楽しみの一つであるライルとの夕食前の団欒の時間。初対面の頃には考えられないくらいの進歩だった。


 コーディアよりも少し経ってからライルは居間に現れた。外套を脱いで急ぎ確認しなければならない手紙などを開封していたのだろう。


「おかえりなさい、ライル様」

 コーディアは淡く微笑んだ。

 ライルはコーディアの顔を見て小さく頷いた。

「ただいま。変わりなかったか」


「はい。今日はのんびりとしていました」

「昨日は早く帰りたかったんだが、クラブに誘われていた。今朝は話せなかったから気になっていた。お茶会は楽しかったか?」

「お茶会はつつがなく終了しました。わたしのほうこそ今朝はわたしも寝坊してしまったので……」

「いや、疲れていたんだろう。準備で忙しくしていたと聞いている」


 初めて開いたお茶会の疲れもあってか今朝は少し寝坊してしまったのだ。メイヤーも起こしに来なかった。エイリッシュが気を使ってくれたのだろう。

 寝台の中でのんびりできたのはありがたかったが、ライルと顔を会わせられなかったのは少し寂しかった。このところ、彼と会える時間を心待ちにするようになっていた。


「色々と準備するのも楽しかったです」

「そうか」

 ライルは侍女の運んできたチャータに口をつけた。

「おいしい」

「ありがとうございます。今日は少し香辛料を多めにしてみました」


 ライルには何度か試飲をしてもらっている。その中でコーディアが飲んでいたものはもっと香辛料を利かせていたと言ったら自分も同じくらいの濃さのものを飲みたいと言ってきたのだ。


「これがきみの好きな味なのか」

「はい」

 コーディアはにっこりと笑った。

 屋敷の外は夜に向けて一段と冷えてくるのにコーディアの心の中は暖かくなっていく。目の前に座るライルの眼差しが柔らかだからかもしれない。


「昨日は特に変わったことなどなかったか?」

「変わったこと……ですか?」


 コーディアは茶会の様子を思い浮かべる。最初は異国の味に戸惑っていた婦人たちも一口口をつけるごとに心がほぐれていったように思える。もちろん、昨日一度でコーディアの評価が変わるとは思えない。

 現に、同じ年頃の令嬢たちはコーディアとは当たり障りのない会話をしただけだった。異国帰りのコーディアをまだどこかで侮っているのだろう。


「わたし思ったんです。みんながジュナーガルのことを知らないなら、わたしから知ってもらう努力をしないといけないって。わたしがジュナーガル代表になって、立派な淑女だって感じてもらったら、寄宿学校の友人たちの評価も変わるかなって」


 大事なのはコーディアがどう振舞うかだ。逃げていたら令嬢たちに侮られっぱなしだし、租界育ちの女の子なんて所詮はその程度だと思われてしまう。コーディアは本国の子たちに負けないくらい勉強だって頑張ってきたのだ。

 その程度だなんて言われないためにも背筋を伸ばしたい。


 そんなコーディアの様子にライルは目を細めた。

「きみは、少し変わったな」

 面と向かって言われればコーディアは照れてしまい、膝の上で両指をくるくると回した。

「えっ……そうでしょうか。わたしインデルクで暮らしていくんです。もっと前を向かないとなって思ったんです」


「きみは……」

 ライルは何かを言いかけて、けれども途中で口を噤んでしまった。

 彼は何かを考えるように押し黙る。

「ええと……。何か変なこと言いましたか?」

 コーディアは不安になる。

 少し大きく出すぎただろうか。


「いや、何でもない。インデルクのこと少しは好きになってくれたか?」

「はい。アイスクリームが美味しいです。あとはチョコレートも。こればっかりはジュナーガルでは食べられませんから。こちらにきて初めてそのおいしさを知りました」

 コーディアは冷たくて口の中でふわりと溶ける甘いデザートを思い浮かべる。そこにとろりと溶けたチョコレートをかけると絶品なのだ。

「それは……なんていうか。別にインデルク限定ではないだろう。フラデニアでもロルテームでもカルーニャでも食べられる」


 ライルはくつくつと笑った。

 そんなに笑われることかしら、と思うがライルがこんな風に感情を表に出すことが珍しくて、何よりも寛いだ雰囲気がどこかあどけなくてコーディアは見入ってしまった。彼を笑わせたのが自分だというのがくすぐったい。コーディアもつられて笑ってしまう。


「わたしったら、アメリカのようになりたいのにまだまだのようです」

「きみはそのままでいいと思うが」

 コーディアの言葉にライルが笑うのを止める。

「でも、わたし彼女のこと尊敬しているんです。貴族の中の貴族って思います。あんな風に堂々としたいです」


「しかしコーディアがアメリカ嬢のようなってしまうのは……いやだ。私は今のままのきみのほうがいい」

 ライルの告白にコーディアの頬が真っ赤に染まった。

「えっと……それはそれでアメリカに失礼なような……」

 コーディアの指摘にライルは気まずそうに目を逸らせた。

「彼女は確かに素晴らしい淑女だと思う」

 ライルがアメリカを褒めるのを聞くと、コーディアの胸の奥がほんの少しだけちくんと痛んだ。


「けれど、私はきみの素朴さとか、すみれのような笑顔も好ましいと思う」

「あ、ありがとうございます」


 ライルの真摯な声音にコーディアは何を言っていいのか分からなくなってお礼の言葉だけ絞り出す。


 コーディアの言葉を最後に二人はしばらくの間沈黙した。それぞれチャータに口をつける。ここ最近ライルとの会話で困ることなんてなかったのに、コーディアはこの先何をどう話せばいいのか分からなくなってしまった。

 笑顔が好ましいって言われた。

 それってどういう意味だろう。深く聞いてみたいけれど恥ずかしく切り出せそうもない。

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