3

◇◇◇


 船が北西へ進んで行くたびに空気が乾燥し、冷たくなっていった。

 季節は九月である。アーヴィラ女子寄宿学校では新学期の始まっている月になった。


 二か月かけてようやく到着したインデルク王国の港町。


 灰色の重たい雲が分厚く広がっているし、昼間だというのに霧で見通しが悪い。

 港近くの建物はどれも濃い灰色の煉瓦造りで小さな窓が規則正しく並んでいる。

 人夫たちはチャコールグレイや農茶などのジャケットを着ている者が大半で、険しい顔をして早足で行き来している。


 ついにたどり着いてしまった。

 久しぶりの陸地に安堵するはずなのに、徐々に目的地に近づくにしたがってコーディアの心にひたひたと得も知れぬものが侵食していく。それは新しい生活に対する不安や恐れなどだ。


 それに……。


「コーディア、いくぞ」

 ヘンリーはコーディアの感傷などまるでお構いなしに急かしてくる。


 コーディアはついに生れて初めて祖国の地に降り立った。

降り立ったら休む暇もなく駅舎へと馬車で向かい列車に乗せられた。もうちょっと何か感動してもよいはずなのに、あいにくとそんなものは何も訪れなかった。


 生まれて初めて乗る列車だ。

 一等客室へ誘導され、父と向かい合わせで着席をする。父の隣には秘書官がいて、ヘンリーは彼と難しい話を始めてしまった。

 列車がゆっくりと動き出し、コーディアは男二人の話の邪魔にならないように気配を殺し、何とはなしに窓の外へ視線をやる。


 列車に乗ったのはもちろん初めてだ。

 狭い租界には必要のない物だからだ。

 ディークシャーナ曰く、うちの藩王国にも列車を導入したいのよねとのことだったが、それだって巨額の資金とディルディーア大陸の技術が必要ですぐにどうにかできるものではないとのことだった。


 流れるように過ぎていく建物や丘陵地帯はこれまでコーディアが生きてきた南の国とはまるで違う。

 それに、この寒さ。

 インデルク王国は現在九月。四季というものは知識では知っていたけれど、寒さを感じたのは初めてだ。


 コーディアはぶるりと身を震わせた。

 客船が西へ進み、北へと進路を変えるにつれ、空気が乾き冷たくなっていった。

 毎日蒸し暑くて水浴びをしていたムナガルでの生活が恋しい。

 コーディアの気持ちとは裏腹に汽車は順調に進んで、途中休憩を挟みつつ王都ケイヴォンに到着をした。

 ついたころにはすっかり日が暮れていた。


 列車にずっと揺られ続けていたので一等車とはいえすっかり体が固まってしまった。

 ホテルにようやくたどり着いたとき、コーディアは一直線に寝台へ向かった。

 バタンと、寝台へ倒れこむ。


「もうすぐ、この人に会うのよね」


 コーディアは一人つぶやいた。

 独り言なのでフランデール語がついて出る。


 船に乗っているときは現実味がなかった。

 まだどこか、他人事だった。

 渡された写真の中には一人の男性が映っている。年の頃は二十代前半だろうか。

 暗い髪色をした男性の上半身の写真である。


 口を真一文字に結び、写真機のレンズを射抜くような険しい眼差し。整った顔からは感情を読み取ることができなかった。

 本当にこの人がわたしの旦那様になるのかな。小さいころから寄宿学校生活をしていたコーディアは男性と話すことが滅多になかった。

 コーディアは写真を眺めるたびに不安になる。


 こんな怖そうな人と一緒になれるのかしら、と。


 だって、この写真ちっとも笑っていないし、むしろ睨みつけているし。実物も写真と大差なかったらどうしよう。結婚したら同じ部屋で一緒の寝台で眠るはず。

 と、そこまで考えてコーディアは胸を押さえた。緊張で口から心臓が飛び出しそうだ。


 今まで考えないようにしていた不安感が一気に襲い掛かってくる。

 もう、ここまで来てしまった。

 明日には婚約者と対面しなければならない。

 移動で疲れているはずなのに、ちっとも眠くなって来なくて、その晩コーディアが眠りについたのは夜もだいぶ更けてからだった。


◇◇◇


 コーディアが連れてこられたのは王都ケイヴォン北西地区にある屋敷街だった。

 馬車寄せから降り立ったコーディアは屋敷の従僕に案内をされ応接間へと連れてこられた。

 隣には父も一緒である。


 風通しのよさが第一に設計されたムナガルの屋敷とは違い、インデルクの建物は窓がすべて閉じられ重たいカーテンが取り付けられている。

 応接間の窓は大きいが、ぴったりと閉じられている。暑くないから当然のことなのだが、どうにも慣れない。

 鳥や風の音が聞こえないせいで室内の静寂が際立っている。

 二人が長椅子に座って少しすると、デインズデール侯爵家の面々が入室した。

 親子は一度立ち上がり屋敷の主人夫妻を出迎えた。


「はじめまして、コーディア・マックギニス嬢。私がデインズデール侯爵家当主サイラス・デインズデールで、こっちが妻のエイリッシュ。息子のライルは出かけていてね。もうまもなく帰ってくる」


 白髪まじりの薄茶の髪に灰茶の瞳をした五十代頃の男性が口を開いた。

 侯爵の紹介に合わせて隣の女性が会釈をする。デインズデール侯爵よりもいくらか若いであろう夫人は笑うと一気に親しみが浮かんだ。コーディアは少しだけほっとした。

 目の前にいるデインズデール侯爵の長男がコーディアの夫となる男性である。


「ご子息のご活躍は聞き及んでいますよ」

 席に着いた男性二人が談笑を始める。

 自然とコーディアの相手は夫人と言うことになる。


 侯爵夫人エイリッシュは頬に手を当てうっとりとした表情を浮かべた。

 コーディアは小さく身じろぎをした。


 ちょうど客用使用人がお茶の用意を持ってきたのでコーディアはその作業を見守った。

 色の濃いお茶はジュナーガル帝国やその周辺国で栽培・加工されたもの。高級品だ。

 コーディアにとっては故郷の慣れ親しんだ味でもある。


(さすがに香辛料は入っていない……か)


 ムナガルで愛飲していたのはチャータと呼ばれる牛の乳と香辛料をお茶の葉で煮だした飲み物だ。


「わたくしとあなたのお母様、ミリー、いえミューリーンとは小さいころからの、いわゆる幼馴染でね。親友だったのよ」

 エイリッシュがにこにこと話しかけてきた。

 笑うと目じりに細かいしわが刻まれるが、それがかえって親しみやすさを生んでいる。声も耳に心地よい優しい音楽のようだ。


(優しそうな人でよかった……)


 貴族の夫人だなんて、威張っている人だったらどうしようと船の上でずっと考えていたのに、杞憂に終わった。

「えっと、夫人と母とが……ですか?」

 コーディアは瞳を瞬いた。父からは何も聞いていなかった。


「ええそうなの。わたくしのことはお義母さまとか、いえ、慣れないわよね、まだ。じゃあエリーおばさまって呼んでちょうだいな」

「おばさま……ですか?」

「うふふ。ミューリーンの娘におばさまって呼ばれるの憧れていたのよ」

 エイリッシュは少女のように笑った。


「あなた、本当にミューリーンにそっくりなのね。あのころの彼女を見ているようだわ」

 エイリッシュはもう一度うっとりとつぶやいた。


 コーディアは少しだけ居心地が悪くなってお茶を口にした。

 三歳で亡くした母のことは、実はあまりよく覚えていない。写真で見る母はもちろん白黒で、写真用に堅苦しい顔をしているか余所行きの笑顔のもの。似ていると言われてもぴんとこないのだ。

 そんな風に母を忘れてしまっている自分がとんでもなく親不孝をしている気分になってしまう。


「今度ゆっくりとミューリーンとの思い出話を聞かせてあげるわね。彼女との若い頃の写真も残っているのよ」

 エイリッシュは無邪気に続けた。

「ありがとうございます」


 彼女の話を聞いたら、少しは母を身近に感じることができるだろうか。

 それからエイリッシュはコーディアにムナガルでの生活について質問をしてきて、コーディアはゆっくり丁寧に彼女の問いに答えていった。


 全部が他愛もないことでコーディアはムナガルの空がとても青いことや空を飛ぶ鳥の色がとても色鮮やかなこと、太陽を浴びた海が光り輝いてみることなどを話していった。

 お茶のお代わりをエイリッシュがついでくれた頃、執事がデインズデール侯爵に耳打ちをしにやってきた。


 侯爵はエイリッシュに頷いた。

「あら、本日の主役の片割れが返ってきたそうよ。いますぐに呼びますからね」

 そう言ってエイリッシュはいそいそと立ち上がり、応接間から出て行った。

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