第15話 電脳のリソースをぶちまけちゃえばいい

 白が溢れ出す。


 ビアカフェ店内の控えめな照明が白い光を滲ませて、まるで雪が舞い落ちるように白い光の粒が降ってきた。ゴブレットグラスに満たされたオレンジ色の液体は真っ白く泡立って盛り上がり、カウンターに溢れ出してグラスの周りを白く塗り潰す。


 象の顔をしたバーテンダーは小さく首を傾げて長い鼻をぶらぶらと揺らし、そのウイングカラーシャツの白さが眩しく光り出して象の身体を侵食していく。カウンター奥の壁を飾るさまざまなボトル群も中身の液体の色が抜け落ちて白く染まり、音を立てずに静かに破裂する。


 降り積もる光は白雪のように、無音で爆発して飛び散る液体は修正液のように、情報を掻き消し、コードを覆い尽くし、白く溶かして何もない空間を生み出していく。


「ドリフターの世界を覗いてこい」


 古めかしいトランジスタラジオが園に命令した。そのノイジーな声を無視して園はビアカフェの出口を目指して歩き出した。電脳空間インターシヴィルワールドの別フィールドへ移動しなければ。このままでは情報が更新されずに何もかもが真っ白く上書きされてしまう。あの真っ白い世界に、情報の変移が一切行われない無のコードに埋め尽くされた空間に漂流してしまう。


 白く情報が抜け落ちた床板を踏み抜いてしまわないように、慎重に足を進める園をトランジスタラジオが嘲笑う。


「どこに行く? もうドリフター現象は始まっているんだろう?」


 ラジオのスピーカーからノイズ混じりの音声が白い波とともに空間に広がっていく。園は華奢な身体をさらに屈ませて、波紋のように拡がる白い空間を避けてようやくドアにたどり着いた。はあっと息を吐き捨ててドアノブを引き抜くような勢いでドアを開ける。


 ドアの隙間から見えた向こう側の電脳空間はすでにホワイトアウトの渦中だった。開いたドアから水が溢れるように白がこぼれてくる。無駄だとわかっていても、園は手で払って白い空間を押し退けようとした。身体まで白く侵食されてしまったら、それでおしまいだ。


「どこにも逃げ場はないぞ」


 トランジスタラジオが静かに告げた。園は姿勢を低くしてひざまずくような格好のまま口うるさいラジオを睨みつけた。共用マイルームからワールドサーバへの移動がだめならログアウトだ。魂まで蝕む無限に続く真っ白い空間であろうと、ログアウトさえすれば、目が覚めてしまえばそれはすでにただの悪夢だ。


「ログアウト、手伝ってあげようか?」


 不意に園は自分自身の声を耳にした。


 すでに音さえも消え失せた白色に侵食された空間に、鮮やかな黒色が翻る。白く輪郭だけを残した象の顔をしたバーテンダーの隣に黒ワンピースの園が立っていた。白の中にやけに映えるグリーンのカーディガンを袖を通さずに羽織るいつものスタイルで、大きめのタンブラーグラスにいくつかのロックアイスを落とし、オレンジ色の液体をなみなみと注いでマドラーで丁寧に氷を回す。


「またあんたか。こんな時に何の用よ?」


「こんな時だからこそよ。オリジナルを助けるのがコピーの役目だと思わない?」


「コピーだって自覚はある訳ね」


「まあね。とにかく座りなよ。ここまでドリフター現象が進行しちゃったら、正直、打つ手なしでしょ」


 もう電脳空間の見える範囲半分以上が白く欠損していた。仮想世界の園の言う通り、もはやドリフターとして何もない電脳空間に漂流してしまうのも時間の問題だ。


「ここから出る方法、何かあるの?」


 現実世界の園はため息を一つ漏らし、この崩れ行く電脳空間からの脱出は諦めた。白く崩壊しかけたカウンターに座り、タンブラーグラスに口をつける仮想世界の園を真正面から見据えた。ぺろっと短く舌を出して唇を舐めた黒ワンピースの園が言う。


「ドリフター状態がどこまで進行していようと、それ以上のスピードで情報を書き加えれば、とりあえず現状維持はできるんじゃない?」


「理屈ではね。で、どうすればいい?」


 黒ワンピースの園が返事もせずに差し出すオレンジ色に満たされたタンブラーグラスを受け取り、黒スーツに細いネクタイ姿の現実世界の園は続けて言う。


「それができないのがドリフター状態でしょ。書き加えるデータすら白く欠けてしまってる。ログアウトするったって、エミュレータの再起動キーだって山鹿さんが握ってる。私にできる事は、もうない」


「あんただからできる事があるよ。あんたの電脳のリソースをぶちまけちゃえばいい。私がここにいるんだ。すでに頭の中のリソースを活用してるじゃない」


「電脳リソースを?」


 園の足元が音もなく砕けた。白い空間にバーカウンターと背の高い椅子だけが浮いている状態に陥り、黒ワンピースの園も黒スーツの園も脚がぶらぶらと虚空に揺れる。


「このマンゴービア。甘くて美味しいね。誰と飲んだの? それにこの古風なビアカフェ。私の図書館と雰囲気似てるね。誰と来たの? 全部、あんたの電脳の中にあるリソースよ」


 木目調のバーカウンターをつうっと指先で撫でてやると、底に少しだけ琥珀色の液体を残したグラスにぶつかった。かろうじて白い虚無に飲み込まれずにそこにあった誰かのグラス。園はタンブラーグラスに唇を添えて小さく呟いた。


「彼が、いつもと違う刺激を電脳に与えろって。甘いビールなんて、それこそ予想外の刺激でしょ?」


 冷たく甘いオレンジ色の液体を口に含み、こくんと喉を鳴らす。電脳空間に新たな情報が書き加えられた。


「そうそう。もっと教えてよ」


 黒ワンピースの園がオレンジ色に満たされたグラスを片手に言った。


「彼は電脳に効くタバコの吸い方も教えてくれた。でも実は私にタバコをやめさせるためのウソだったみたい」


「実際タバコの本数は減ったんでしょ。いい事よ」


「そう、あんたの作り方を教えてくれたのも彼。ネットから独立した外部記憶装置に記憶をコピーしてみろって。優秀なA.I.技師だった」


「やっと話してくれたね。私のあんたしか知らないあんたの事」


「彼のアドバイス通り、私はいくつも電脳空間での話し相手を作ったよ。あんたはそのうちの一つね」


「他には? 彼の事もっと知りたい」


「彼ね、負けず嫌いなせいか変に強がりで、ウイスキーはロックが好きだなんて言って、いつまでもちびちび舐めてた。お酒弱いくせに」


 園の隣の椅子が軽く軋んだ。白で埋め尽くされつつある世界に新しい音が生まれた。そして新しい色も。園の視界の隅で何かが動いた。人の手だ。男の腕だ。白い空間から腕が伸び、園の側にあるグラスを掴んだ。ゆっくりくるりとグラスを回し、氷がからんと澄んだ音を立てて琥珀色の液体を波立たせる。


 園がグラスを揺らす手の方に振り返ると、白い空間が一気にひっくり返った。重たく濡れた真っ白い布をめくり上げるように、園を包み込む電脳空間は歪み、たわみ、捻れて、仮想世界の向こう側にあるリアルを露わにした。


 園は跳ね起きた。斜めに傾いた研究室の光景が弾むように大きく揺れて、簡易ベッドがかすれたきしみ音を上げる。園の延髄部の生体端末に繋げられたケーブルがぴんと張り、ベッドサイドに設置されたパソコン群ががたりと音を立てて引きずられた。


「あっ、いたっ」


 慌てて延髄の生体端末にねじ込まれたケーブルを引きちぎるように引っこ抜く。


「ここは、どこ?」


 接続端子を握りしめたまま周囲の様子を伺う。ここはどこだ。私は何をしていた。


 部屋はさほど広くない。むしろ窮屈さを感じるほどだ。自分以外に二人も男が簡易ベッドの側にいるからか。一人は直属の上司である山鹿、もう一人はドリフター観察対象者の同僚の篠田。


「どうやってエミュレータを終わらせた?」


 山鹿が押し殺した声で言った。


「エミュを? 私が、ですか?」


 いつもの無表情のまま山鹿は沈黙した。殺風景な小部屋にもう一人、篠田は驚いたような表情のまま固まっている。


 唐突に記憶がよみがえる。ドリフター状態を体験してみろ、と山鹿にエミュレータを強制的にインストールされたのだ。そして空白の電脳空間をさまよい、漂流し、意識が仮想世界に溶けて流れ落ちるのを体感した。それと同時に思い返した。観察対象者である天野優一は、その妻の天野ユカリの仮想対話による喚起式カウンセリングで現実世界に覚醒したはずだ。


 園は電脳の記憶領域に検索をかけた。山鹿と目を合わせないように俯いて、膝の上でくしゃっとしわを作ったスーツスカートを握り締めて。今、自分の身に何が起きているのか、必死に思い出す。


 園の電脳内には時間軸の異なる二つの記憶があった。一つはまさに今これから始まる仮想対話による喚起式カウンセリングの観察に関する記憶。電脳空間に漂流してしまった天野優一の電脳の観察は貴重なサンプルデータとなるだろう。そしてもう一つ、すでに天野優一が目覚めた後の記憶。ユカリの声で人格を書き換えられた天野優一がいる世界。


「園。どうやってドリフター状態から覚醒したのかと聞いているんだ」


 山鹿が口調を強めて言った。それを園は無視する。


「気分が優れませんので、ちょっとトイレに。失礼します」


 電脳ハッキングだ。園は理解した。電脳に刻まれた二つの異なる記憶データ。何者かが堅牢な電脳のセキュリティを破り、偽物の記憶を植え付けたのだ。ユカリが天野優一をウソの思い出で上書きして消去したように、思い出も何もかも真っ白く塗り潰し、園の世界を消し去ろうとしたのだ。




 冷たい水が頬を打つ。


 だらしなく垂れた黒髪を濡らした水は細い顎を伝って流れ、ぽたりぽたりと雫となって大理石のパターンがプリントされたセラミックの洗面台に落ちた。


 蛇口からほとばしる水は渦となって園が吐き捨てた吐瀉物を飲み込み流していく。口の中にへばりついた酸っぱい唾を洗い流し、園はゆっくりと顔を上げて、鏡の中の濡れそぼった自分自身を真っ直ぐに見つめた。


 相変わらず小さな女がそこにいた。


 鏡と向かい合ったまま目だけでトイレのドアを睨む。そして濡れた顔も拭わずに腕時計を覗き見た。もしも偽物の記憶が繰り返されるとしたら、もうすぐあのドアを開けてユカリが入ってくるはずだ。天野優一を消去したユカリがやってくる。もう、彼女とは顔を合わせたくもない。園は思った。ユカリの顔を見るなり殴りかかろうとする自分を抑えられそうにない。


 ハンカチで濡れた頬を拭きながら園は個室のドアを開け、忍び足で空室の中に入り、できるだけ音を立てずにドアを閉めて鍵を掛けた。


 するとすぐにトイレのドアが開かれて、誰かが軽い靴音を響かせて入ってきた。園は後ろ手にドアノブを握ったまま目を閉じて、息を殺し、時が過ぎるのをじっと待った。


 軽やかな靴音は鏡の前で立ち止まり、柔らかい物を置く音、留め金を外す音、布を擦り合わせる音、水が流れる音を立て、そしてかすかな吐息だけを残して静寂を作り出した。


 園はただひたすらに耐えた。


 やがて、うん、と遠い昔に聞いた覚えのあるほのかに甘い声が漏れ聞こえてきた。この声だ。


 トイレのドアが再び開けられて、軽い足音は遠くに消えていった。人の気配が去ったトイレの中で、園はしばらく動かずにただじっと立ち尽くしていた。




 仮想対話による喚起式カウンセリングが始まった。しかし園は観察対象者である天野優一の電脳にオンライン接続もせず、仮想対話者であるユカリの声すら園の電脳に記録しなかった。ただ淡々と行われる喚起式カウンセリングを眺めるだけに留めた。


 上司である山鹿に仮想対話者の送迎担当を命じられても、ユカリとは事務的な手続き上の言葉をいくつか交わす程度で、決して彼女の目を見ずに、業務として私情を押し殺して接した。


 ユカリを自宅へ送り届け、ようやく独りきりになれた車内で、園は普段とは違うタイミングでタバコに火をつけた。


 一日五本限定だなんて窮屈なマイルールを無視して、くわえタバコでハンドルを操作する。このタイミングで一本消費するとなると、帰宅時の車内での一本で本数調節すれば五本限定ルールは守れるか。律儀にもそんな事を計算しながら車を庁舎地下駐車場へと滑り込ませる。


 いつものように上半身を大きく動かして周囲を確認しながら狭い地下駐車場内を走り、いつものように壁際隅っこの駐車スペースへ何度も切り返して丁寧に停める。そしていつもと違ってくわえタバコのまま車を降りてエレベーターへ向かう。


 薄い紫煙をたなびかせるように吐き捨てて、ヒールがコンクリートを打つ音を低く響かせて歩いていると、不意に園の名前を呼ぶ声がした。


「こらっ、園ちゃん。また歩きタバコしちゃって!」


 薄暗い地下駐車場では派手に目立つオレンジ色の作業着を着た掃除のおばちゃんだ。掃除のおばちゃんは人懐っこい笑顔で立ちはだかるように仁王立ちしていた。


「えっ、なんで」


 思わず園は驚きの声を上げてしまった。


「なんでも何もないでしょ。駐車スペースは禁煙。煙センサーに反応しなくたって禁煙なの!」


 清掃用具を満載にしたカーゴを転がしながらにこにことした愛嬌のある笑顔で叱りつけてくる掃除のおばちゃん。園はタバコをくわえたまま一歩二歩と後ずさった。


「おばちゃんが、なんでここにいるの?」


「何を言ってるの? おばちゃんはいつもここにいるよ」


「あんたは現実世界にはいない!」


 園は金切り声で叫んだ。


「何を言ってるの? おばちゃんはいつもここにいるよ」


 凍りついたように動かない笑顔でおばちゃんは同じ言葉を繰り返した。


「何を言ってるの? おばちゃんはいつもここにいるよ」


「私の電脳空間にしかいないおばちゃんが、なんで仮想世界から出て来れたの? あんたは私のコピーじゃない! 現実にいる訳がない!」


 黒ワンピースの園と同様に、園はもう一つの外部記憶装置にもう一つの仮想の話し相手を作っていた。黒ワンピースの園とは異なり、ただ会話をするだけのまるで母親のような仮想の存在。それが掃除のおばちゃんだ。それが、現実世界に存在するはずがない。存在できるはずがなかった。


「ここは、現実じゃない!」


 園は頭を抱えた。長い黒髪が乱れ、顔にまとわりつく。くわえタバコに髪が絡みつき、しかし、焦げるような嫌な臭いも煙も立たなかった。ただ、小さくオレンジ色の光を放っているだけだった。


「まだ仮想世界が続いているの?」


 園への電脳ハッキングはまだ終わっていなかった。


「これも全部、ウソの記憶か!」


 火のついたタバコをくしゃりと握り潰す。


「まだ私を書き換えるつもりか!」


 タバコの火はじんわりと熱かった。それでも園は右手を強く握り締めて、地下駐車場のコンクリートの壁に向き直った。電脳ハッキングを食らいながらも強制的に目を覚ます方法ならさっき学んだばかりだ。


 園は右手にありったけの力を込めて、冷たい灰色したコンクリートの壁を殴った。


「これでもう、終わりだっ!」


 園の震えた声は、もうユカリに届かなかった。


 真っ直ぐに前を向いて歩いて廊下の角を曲がった時、ユカリは柔らかな塊が硬い物にぶつかる鈍い音を耳にした。そして悲鳴を噛み殺すような小さな唸り声。少し間を置いて振り返り、角からそっと覗く。


 廊下に一人、園が拳を押さえて蹲っているのが見えた。肩を震わせて、壁を殴りつけたその手の痛みをこらえているのか、それとも、泣いているようにも見える。


 ユカリは、ふと思い出したように腕時計を見た。


「あ、美容院の予約に遅れちゃう」


 せっかく四ヶ月ぶりに優一と会えたって言うのに、こんな伸ばしっぱなしの髪じゃ格好がつかない。タクシーを呼べばまだ予約を入れた時間に間に合うだろう。


 そのままもう振り返る事もなく、ユカリはさらに軽やかな足音を立てて歩き始めた。


 廊下の向こうからは嗚咽のような声が聞こえていた。

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