54.ブローチと矢
「テオ!」
足の裏は床から離れないらしく、女神さまは腰をねじって振り向きました。
「ブローチを出せ!」
動揺したようすでしたが、テオは言われるがままに衣の下に手を入れてそれを取り出しました。
テオの手のひらの上から光が四方八方に伸びています。その光に当たってたゆたう煙の影がくっきりと見えて、わたしはぞっとしてしまいます。
女神さまの苦しそうなお顔にテオが慌てておそばに行きます。女神さまは上半身を乗り出すようにしてテオにしがみつきました。
「ふう。動けた……」
テオの手のひらにご自分の手を重ねてブローチを包むようにしながら、女神さまは息をつかれます。以前、テオを篭絡しようとなさった女神さまをはねつけたブローチは、今は拒むことなくテオと女神さまの手のひらの隙間から光を発し続けています。
途端に今度は、岩から出ている煙に動きがありました。もやもやと湧き出る程度だったのが、一気にかたまりになり天井に向かって噴き出したのです。
岩の割れ目に沿って、板のような形状の煙が立ち上ります。天井に突き当たって雲のように広がり、岩室(いわむろ)の中の臭いを更に濃密にしていきます。
「この煙はなんだ」
むせながら空いたもう片方の手でテオは口を押えます。
「早く出るぞ」
目にも染みるのか、女神さまは涙目になってテオを急かします。
「なんの騒ぎだ!?」
そこへ野太い声が降ってきました。神殿の警護の者かとわたしはぎくっとしてしまいます。ですが女神さまはわたしの背後をみやって顔を明るくなさいました。
「ミマス! 矢はあるか?」
「もちろん」
小さな弓を手にしたミマスは既に矢をつがえています。
「あの岩の割れ目を射よ! 霧が吹き出てるところじゃ!」
女神さまはテオの手を引っ張って、ブローチが発する光で割れ目がよく見えるようになさいました。
「わかった!」
即座にミマスは弓をひきます。放たれた矢は、女神さまの脇をかすめ一直線に岩の割れ目に突き刺さりました。すると栓をされたように煙の噴出が止まりました。
「止まった?」
あっけにとられたようにテオがつぶやきます。見守っているうちに石室内の煙が少し薄まり、それと共にブローチの光も消えていってしまいました。
元々の壁の灯火だけに戻ったところで、女神さまはそうっと岩へと近付きました。やじりの刺さったそこからは、細々とまだ煙が立ち上っています。
「これで収まるわけはあるまい。一時のことじゃ、また霧の息は吹き込んでくる」
女神さまは霧の息、とはっきりおっしゃいました。
「なんだ、それは? ここは託宣の部屋だよな?」
「そうだ。今のうちに早く出よう」
女神さまに背中を押されてテオが石段を登ってきます。後ろに続いた女神さまが木の扉を閉めます。そこでようやく、わたしもほっと息をつくことができました。
「ファニ、おまはなんでこんなところに……」
「その前にとっとと外へ出るぞ。まだ気分が悪い」
「あ、ああ」
テオの背中を押して歩く女神さまをミマスが笑って見ています。
「おまえは何故、ここに来たのじゃ? ミマス」
「臭いだよ。到着したときから気になってた。夜になって臭いが濃くなったと思ったらダンナがふらふらベッドを出て行くから追いかけてきた」
「……おぬしはつくづく尋常ではないのう」
「おまえら都市民と一緒にするな」
唇を曲げたミマスは、地上の回廊へ出ると柱の間から外へと出て行きました。
「一周してくる。目が冴えちまったからな」
それを見送り、女神さまとテオは宿泊している建物へ戻りました。中には入らず、その前の月桂樹の木の下で女神さまは思い切り深呼吸なさいました。
「ふうううう。生き返ったぞ。死ぬかと思ったからのう」
「さっきのあれが託宣の間なのか?」
「そうじゃ」
「あそこで巫女が神の声を聴くのか……」
女神さまは黙ってしばらくの間星空を見上げておられました。山の冷気の中で星々の光は冴え冴えとして、街で見るよりもくっきりしています。ここは、より天上に近い場所なのです。
「神なんていないのではなかったのか?」
振り返って微笑まれる女神さま。テオは顔をしかめます。
「そうさ、おれはそう思ってる。だが……」
「神はいるよ」
女神さまは、また天空を見上げて囁かれました。
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