11.黒い瞳

 そもそも女神さまは性格の悪さが災いして天上から落とされてしまわれたのです。どうにかして人を慈しむ心をわからせたいと、父神さまは『人間の男性に心から好かれたら』と課題を出されたのに違いないのです。

 それをあの方は何と心得ておられるのか。『好かれる』ということがおわかりになっておられないのでしょう。まこと嘆かわしいことにございます。


 あれこれ思い悩みながら見下ろすと、波止場を避けて浜辺の岸に泳ぎついた黒髪の奴隷の元に、何人もの男たちが駆け寄って行くところでした。捕まえようというのでしょう。その男たちの誰よりも奴隷の体は小柄です。どうやらまだ幼い少年のようです。


 飛びつこうとする男たちに向かって少年は目つぶしの砂を投げ続けました。砂煙に怯む男たちの間を潜り抜け、少年は倉庫の雑踏の中へ突っ込んで行きました。屋根を支える柱の間や荷物の間を器用にぬって波止場とは反対側に飛び出します。

 少年の斜め上からわたしは必死に追いかけます。すると少年は何かにぶつかり、尻もちをつきました。少年がぶつかった女性の抱えていた篭からリンゴが雪崩を打って転がります。


「またリンゴか」

 偉そうに腰に手を当てて、先回りしていた女神さまがやれやれと首を振られました。

 リンゴを頭にぶつけ目を白黒させている少年の腕を取って立ち上がらせると、女神さまは一目散にその場から逃げだしました。逃げ足が速いのは、女神さまの七つの特技のうちのひとつです。

 何か喚いている少年には一向にかまわずに、女神さまは町はずれの岩場まですたこら駆けて行かれました。


「どうじゃ、ティア。追いかけてくる奴はおらぬか?」

「ええ、まあ。ですが見付かるのは時間の問題ですよ」

「良いのじゃ良いのじゃ。今頃テオの奴はわらわに出し抜かれて悔しがっておるだろうに」

 女神さまはからから笑っておられますが、わたしにはとてもそうは思えません。


 その時、女神さまの手を振り払って少年がひと際大きな声で騒ぎ始めました。

「これ、騒ぐな。大声を出せばそれだけ早く見付かるのだぞ」

 女神さまは顔をしかめて言われましたが、おそらく少年には言葉がわからないのでしょう。わたしたちにも少年がなにを喚いているのかわかりませんでしたから。


 浅黒い肌に黒い巻き毛の、びっくりするほど目鼻立ちの濃い容貌でした。アーモンド形の瞳がとても印象的です。

「南方から連れてこられたのでしょうか」

「異国の神を信ずる者のことなどわらわの知ったことではないのだがのう」

 ぼりぼりと頭をかいて、女神さまは両手でぱふっと少年の口をふさぎます。

「ええい。黙れ、黙らぬか」

 もがもがっと少年は涙目になっています。


 じたばたと女神さまと少年がもみ合っている間に、男たちが追い付いてきてしまいました。

「あそこにいるぞ!」

「一緒にいるちんちくりんは、どこの奴隷だ?」

「誰がちんちくりんじゃあああ!」

 もはや女神さまは「ちんちくりん」の呪縛から逃れられぬようにございます。

「もう逃げられないぞ。来い!」

 黒い瞳の少年共々、女神さままで腕を引っ張られてしまいます。


「待ってくれ」

 少年の腕をつかんだ男性の肩に手を置いて止めた者がおりました。テオです。走りに走ってきたのか、荒い息をつきながら言葉を押し出します。

「そいつは銀山に連れていくのじゃないのか?」

「そうだ」

「おれは銀山のテオフィルスだ。そいつをおれの下に付けてくれるよう伝えてほしい。それから」


 懐から袋を取り出しテオは男性にお金を握らせました。

「逃げた罰を与えないでやってほしい」

 男性は難しい顔でテオを見てから、視線を奴隷の少年に下ろしました。何を言われているのかわからないであろう少年は、怯えたふうでも、悲しむふうでもなく奴隷運搬人の男性を黒い瞳で見つめ返しています。

「……いいだろう」


 男性の返事にお礼を言い、テオは自分の肩からピンをひとつはずして、それを目印のように少年の腰布に付けました。

「おまえ、名前は?」

 言葉がわからない少年は無言のままです。

「名前だ、名前」

 重ねて問われて察したらしい少年が何か言います。ですがうまく聞き取れません。

「わかった」

 半眼になって考えた後、再びテオは口を開きました。

「おまえは今日から、ポロだ。ポロ」

「ポロ……」

 何度か繰り返され、しぶしぶという感じで少年がつぶやき返しました。

「そうだ。……頼んだぞ」


 最後に念を押された奴隷係の男性はあきれたように眉を上げ、やはりしぶしぶといったようすで少年の腕を引きました。

 そこでようやく思い出したように問いかけます。

「ところで、こっちのちんちくりんは?」

「うちの居候だ」

 疲れたように答えるテオを、女神さまはほっぺを膨らませてじっと睨んでおられました。

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