8.好きになれ
「なんてこと……したんだ……」
「そんな大騒ぎすることではなかろう? 普通のことだ。ほれ、おまえもパンが食えて嬉しいだろう?」
女神さまが差し出したパンを払って、テオはくるりと背を向けて飛び出していきます。
「なんじゃ、あやつは。あんなに怒って」
呆然とする女神さまに、後ろからエレナがおずおずと話しかけます。
「わたしのときもそうだったの……」
かすれた囁き声に、女神さまはおからだを返して耳を澄まされます。
「果物さえ手に入らないときがあって、わたしが、体を売るからって……。テオはすごく怒って、自分がなんとかするからそんなことは二度と考えるなって。あのときテオ、たぶん泣いてた。今もきっと……」
「何故泣くほど怒るのじゃ?」
「わからないけど……心を壊すことだって」
涙ぐんでうつむくエレナを、彼女より背が低い女神さまはじっと見上げます。
「おまえはそのとき、何故体を売っても良いと思ったのじゃ?」
「そりゃあ、みんなに……テオに、お腹いっぱい食べてもらいたかったから」
「わらわも同じじゃ」
まなざしを優しくして女神さまは話されます。
「おまえたちにパンを腹いっぱい食べさせたかった」
「ファニ……」
「テオは愚かじゃ。弱き者にも思いがあることがわからないのじゃ。ちいと教えてやらねばのう」
女神さまは指を伸ばしてエレナの頬の涙を拭ってやると、パンをいくつか持って駆けだされました。
城壁近くのプラタナスの木の影にテオはうずくまっていました。
「おまえのそれは、なんなのじゃ?」
すぐ脇に立って女神さまは目を細めてテオを見下ろします。
「自分の思い通りにならないから怒っているのではないのか? おまえの憐れみは、相手を馬鹿にして見下すことと同じなのか?」
「……なんだと?」
月と星々の明かりの下で、テオの眼が据わっているのがわかります。もちろんそんなことで怯む女神さまではありません。
「おまえ一人の考えで可愛い願いを踏みにじる、それは支配欲とは違うのか?」
厳かな声の響きに、テオの方が怯む色を顔に浮かべます。
「おまえ……」
「エレナはおまえに腹いっぱい食わせたかったと言うておった。軽々しく身を売ろうとしたわけではない。できることがあるならやろうと決心しただけじゃ。それを憐れと片付けるのは傲慢だ」
きっぱり言って、女神さまはずいっとテオにパンを差し出されます。
「わらわもそうだ。願いがあって、やろうと思った。わらわがそうしたかったのじゃ。わらわが願って、そうしたのじゃ」
テオはぷいっとパンから顔を背けます。
「わらわの願いのパンを食べてはくれぬのか」
女神さまが寂しそうにつぶやかれたとき、ぐうっとテオの腹の虫が鳴りました。
途端に女神さまはしんみりした空気を取っ払い、大口を開けて笑い出しました。
「あっはっは。意固地なおぬしでも腹の虫は正直じゃのう」
「うるさい……っ」
頬を染めているらしいテオに女神さまは改めてパンを差し出されます。
「かようなことは二度とせぬと誓うから、意地を張らずに食べておくれ」
「…………」
「な?」
「仕方ない。パンに罪はないからな」
「そうじゃ、そうじゃ。パンは食べられるためにある」
やせ我慢していたのでしょう。テオはパンに手を伸ばすと二個目、三個目とあっという間に腹に納めていきます。
「うまいか?」
「ああ。パンはうまい」
目元を軽くこすった後、テオは微妙に女神さまから目線を反らしながらつぶやくように申しました。
「……ありがとな」
女神さまは目をぱちくりした後、にたりと微笑まれます。
「なんじゃ、そなた。かわゆいではないか」
まったく、優しいかと思えば意地が悪い御方なのです。
「おお、そうじゃ」
良いことを思い付かれたように女神さまは目を見開かれます。
くいっとテオに向かって顔を近付け、女神さまは高らかに宣言なさいます。
「テオ。そなた、わらわを好きになれ」
「はあっ!?」
「わらわの身近にいる男はそなたくらいじゃ。おまえがわらわに惚れるのがいちばん手っ取り早い。どうじゃ? 身を粉にしてパンを授けたわらわに既に惚れたのではないのか? うん?」
「調子にのるな! ちんちくりん!!」
テオの叫びはしごくまっとうにございました。まったくこの御方は、一時は輝かしいお姿にわたしも感動したというのに。
わたしはプラタナスの梢の影から、テオが猫の仔を吊るすように女神さまにガミガミ説教するのを、欠伸をかみ殺しながら見守っていたのです。
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