春嵐

憧憬

 左どなり。誰もいない。


 目の前。夜と白。雪面。いつものアスファルトが、積もった雪に。


「うぅ、寒そうだなあ」


 夜。外套と灯りに押されながら、歩く。スカートじゃなくてよかった。


 空。まだ、雪が降りそうな暗さ。


 これまで普通に生きて、これからも普通に生きる。それを、ときどき許せなくなる自分がいた。外に飛び出して歩く。ただ、歩く。何も求めず、しかし何かを探しながら。


「ふう」


 ふと見た左側。自販機。


 コーヒーを買う。あたたかい。外套が、ほとんど夜と雪の冷気を遮断していた。冷たいのは、手だけ。


 ほんとうに、手だけなのか。もっと冷たいものが、身体の奥深くで固まっているのではないか。溶けず、見えず、分からずに。


「わたしはだれ」


 最近よく聴くようになった曲を口ずさみながら、歩く。私はどこへ行くのだろう。何が待っているのだろう。


「いやいや」


 わかっている。理由は、押し込めていたけど、ある。目的も、たぶん。


 恵まれた家でもなく、裕福でもなかった。成績も普通。十四、五のときは意味のない希望や自分が素晴らしい人間かもしれないと錯覚したこともあったけど、すぐに消えた。


 恋人はいる。しかし、いるだけ。情熱的な何かがあったわけでもなく、ただ単に気付いたら一番近くにいた人間だった。それだけ。左利きであること以外は、特に印象の残らない人。並んで歩くと、だいたい恋人は左どなり。左利きだからだろうか。


 働きはじめて、自分が普通の人間と違う感性を持っていることに気付いた。単調な繰り返しに、変則な模様を付けることで規則性を持たせることができる。そこにないものを作り出すことができる。生きるのが楽になった。ただ、それだけ。恋人の仕事については、知らない。仕事熱心らしい。帰宅時間は私よりもずっと遅い。


「あ、チョコ出しっぱなしだ」


 恋人の家が暖房器具の故障による火事で燃えていて、マンションではエアコンを使っていた。そのかわり、効きが良く空気清浄機能付きのもの。いつ帰ってもすぐあったかい部屋にできる。そして、恋人はおそらく寝ている。何も告げずに外套だけ持って外に飛び出した。その直前まで、私はチョコを食べていた。


 恋人とのなれそめも、その火事だった。


 私も恋人も十七のときだっただろうか。


 そう、こんな雪の日。

 

 その火事に最初に気付いたのは、私だった。家が焼ける情景は、いまも思い出すことができる。


 火事で焼け出されて、途方に暮れていたその人を、私の両親が一晩泊めてあげた。まだ恋人になる前だったその人は、とても礼儀正しかった。頼りなげだったけど。何かやってた方が気がまぎれると、止めようとする両親を横目に炊事洗濯の全てをこなしていた。


 そして、夜、寝る前になってその人を見に行ったら、与えられた部屋の隅で膝を抱えて一人で泣いていた。私が見ていることに気付くと、慌ててお布団に入って寝ているふり。泣いてていいですよって言ったら、また部屋の隅に行って膝を抱え、静かに泣く。それを、私は一晩中、見てた。


 それから、頼りなげなその人を、学校でことあるごとに観察するようになった。


 そして、ある日、いつものように見ていたら、その人はお弁当を地面に落とした。私は、近づいて行って私のお弁当を半分あげた。ただでさえ少ないお弁当が半分になって悲しかった。次の日、その人は私に近付いてきて、昨日のお礼だと言って、手作りのお弁当を私にくれた。


 おいしかった。


 デザートを要求したが、おせんべいしか出てこなかったのも、よく覚えている。その人は、甘いものを食べない。


 その日から、その人はいつも私のお弁当を作ってくれるようになった。毎日のお弁当が二倍になって、うれしかった。その人は左利きだからなのか、常に私の左隣にいる。卒業した後から同棲していた。今でもお弁当は作ってもらっている。


「溶けちゃうな」


 恋人は、甘いものを食べない。


 そこそこ良いチョコだった。


 立ち止まる。


 家に戻ろうか。今ならまだ、チョコが溶ける前に冷蔵庫へかえすことができる。


 そこではじめて、自分の気持ちに気付いた。


「わたし、戻るつもり、ないんだ」


 自分の中にある、何かが、動いた。それまで見えなかったもの。わからなかったもの。


「冷たくないな」


 自分の中にあって、気付かなかったもの。冷えている感情。


「いなくなりたい」


 なくなってしまいたい。ただただ、自分という存在を、なくしてしまいたい。


「からだじゃない」


 こころのなかにあった。閉じ込めておいた感情。自分が消えることへの憧憬。


 しゃがみこんだ。


 いま、部屋に戻れば、なにもなかったことにできる。チョコを冷蔵庫に戻し、恋人が寝ているベッドの空いている部分にもぐりこんで、明日を待つ。仕事はいつも通りだから、行っても行かなくてもいい。デザイン自体は数日前にできあがっているし、あとは材質とかをたしかめてもらうだけ。恋人が起きるまで寝ていられる。


 そこに、なんの魅力も感じなかった。


 恋人は私がいなくても生きていけるし、もともとそんなにお互いを必要とするような間柄でもない。お弁当を作ってもらう程度。私が急にいなくなっても、恋人は私を探すことなどせず仕事に行く。そして、あとでちょっとだけ泣く。そういう性格だった。借りを作ったら返す。それだけ。


 そういう普通に戻るよりも、この雪面を、自分という存在がなくなってしまうまで歩きたい。その欲求が、勝った。


 自分にとって、自分は、必要ない。


 立ち上がった。


 もっと、冷たいところへ行こう。


 私という存在が消えても、誰も気づかないような、ひっそりしたところに行こう。


「どこがいいかな」


 それでいて、最期の景色がきれいなところ。


「ううん」


 また、しゃがみこんだ。そんな場所、しらない。


「河原沿いの土手とか、どうかな」


 土手。


「いまは曇ってるみたいだけど、月が出ればきれいだし。たしかあそこは屋根付きのベンチがあるから、雪が降ってきても大丈夫だよ」


 いいかもしれない。


「あ、あれ」


 自分じゃない。


 話しかけられた。誰に。


 目の前。誰もいない。


 後ろ。誰もいない。


「あはは」


 笑い声。左どなり。


「なんで」


 恋人がいた。大きな紙袋を両手に持っている。


「なんでって、起きたら食べかけのチョコだけ残してあなたいないんだもの。よかったスカートじゃなかったんだ。一応もこもこ上着持ってきたんだけど、はく?」


「はく」


 さっきまで気にしてなかった下半身の冷えが、指摘されたことで増した。恋人の右の紙袋の中身は、もこもこ上着。


「どうしてここが?」


 もこもこ上着をはきながら、恋人に問いかける。


「足跡をたどってきた。雪も降ってなかったし。あ、チョコは冷蔵庫に戻しておいたよ。大丈夫溶けてない」


 恋人。


 そういう人じゃなかったはず。


 私がいなくなっても、気にせず仕事に行く人。そして、しばらくしても私が戻ってこなくて途方に暮れるような人。


「あ、仕事のこと?」


「うん」


 そう。わたしよりも日々の暮らし優先のはず。


「ラップトップ持ってきたから、大丈夫」


「らっぷとっぷ?」


「事務だから。仕事場行かなくても仕事できるんだ」


「そうなんだ」


 初めて知った。


「もう仕事場にも連絡しておいてあるよ。ときどき画面開きながらだけど、どこまでもお供できますよ」


 なぜそこまで。いや、それより前に。


「なんの、仕事をしてるの」


 歩きながら、訊いた。左どなり、半歩前。


「あれ、仕事について喋ってなかったっけ?」


「うん」


 歩く姿が、ちょっと頼りなげ。


「暖房器具の会社で事務をしてます」


 自分の足が止まるのが、分かった。


「暖房器具?」


「あ、エアコンは止めてきたよ」


「いや、そうじゃなくて」


 恋人の家。暖房器具の火事で燃えて。


「家の火事が、暖房器具の不具合のせいでね、あんなことがもう起こらないようにと思って」


「そうだったんだ」


 恋人。頼りなげな背中。


「でもね、火事のおかげで出会えたようなものだから。悪いことばかりでもないと思ってます」


「強いんだ」


「ん?」


「いや、なんでもない」


 恋人は、ちゃんと真摯に生きている。そして自分は、自分自身をなくしてしまいたいと思っている。不思議だった。


「大丈夫」


 恋人が言った。


「どれだけあの火事にあなたが惑わされても、大丈夫」


 恋人。立ち止まる。左どなり。


「いなくなりたいと思っても、簡単にいなくなれないようにしてあるんだ」


「どういうこと?」


「いつも、あなたより帰りが遅いでしょ?」


「うん」


「あれね、仕事帰りに、街の人と仲良くしてるんだ。居酒屋に行ったり、頼みを聞いたりして。冬場は火の用心の巡回とかも」


 知らなかった。


「だから、こういう雪の日にあなたがいなくなっても、街の人が保護してくれるようになってます」


 それも、知らなかった。その前に。


「私がいなくなるって」


「一緒にいればわかるし、デザインしてるものを見ればもっとわかります」


 何を。


「あなたは火事を見て、見えないところに傷を負ってる」


 傷。


「だから、なるべく隣にいようと思ってます。あの」


「あの?」


「あの、火事の日の夜みたいに」


 火事の日の夜。膝を抱えて泣いているこの人を、ずっと見てた夜。


「あのとき左どなりにいてくれた。だから、なるべくあなたの左どなりにいます」


 左どなりにいたのは、左利きだからじゃなかった。

 

「さ、行こう。この時間なら、火の用心で巡回してた人たちが河原に集まって酒盛りが始まってるはずだから」


「おべんとう」


「え?」


「お弁当、あるの?」


「ありますよ。河原に行ったらみんなで食べましょう」


 恋人。頼りなげな姿。左の紙袋を持ち上げて笑っている。左の紙袋の中身は、お弁当。


 なみだが、出てきた。

 

 雪。目の前を舞っている。降り始めていた。夜と白。


 左どなり。恋人がいる。

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春嵐 @aiot3110

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