VとRのやさしい盟約
玉置こさめ
第1話
どんな子供も吸血鬼について聞かされる言い伝えが三つある。
ひとつ。吸血鬼には女しかいない。
次。彼女らは『暗い森』からやってくる。
最後。それらは母から生まれ母に還る。
吸血鬼は実在する。人々の特徴として平均体温が常人よりも高く、骨を含めた人体組織の回復が異常に早い点や、ごく稀にサイコメトリーが可能といった点が挙げられる。そして身体能力が尋常でない。
南欧の地方の片田舎で育ったその少女が家を追い出されたのは七歳の時だ。ある夜やたらに豪勢な食事が出てきてたらふく食べた。腹いっぱい食べさせてもらえるのも好物ばかり出てくるのも初めてのことだった。あまりの幸福にぐっすりと眠りに落ちた。起きたらもう馬車の上で似たような子供たちが他にも何人か乗っていた。つまりそれは『最後の晩餐』のご馳走だったのだと気付いた。道中、馬の御者は口減らしに売られた子供たちを馬車に乗せられるだけ乗せていった。乗せられてくる子らはみんな女だった。
だが、少女は知っていた。貴族の娼婦の館にさらわれて散々ひどい仕打ちを受けた挙句に気がおかしくなったからという理由で戻されたという噂の隣人が言っていた。彼女は、村人たちから避けられている。けれど少女のことをよくかわいがってくれたし、少女といる時は良識ある大人として振舞うことができた。村人に正気だと悟られれば、もっと過酷なところにまた売られるか、不吉な存在として始末される。だからそのように振舞っているだけだった。彼女は教えてくれた。『森』に連れて行かれれば吸血鬼になる。けれど、『城』に連れて行かれれば狩る側になる。
まだ七歳だったルジャにそう教えてくれた。ルジャは吸血鬼になりたくなかった。だから、馬車のうちで必死に祈った。この場所が城につくように。暗くて狭い馬車の中ですすり泣く子もいれば、喚き散らす子もいた。けれども御者たちによって様々な手段で黙らされた。ルジャはただ我慢して祈っていた。この場所が城に着くように。ルジャを売った家族はルジャの代わりに札束を抱いて眠る。ルジャはルジャで、貧しさのせいで、いつ殺されるか売られるかにわからない恐怖にもう怯えずに済む。だからそれでいいと思った。祈ることはひとつだ。この先が城でありますように!
君主の威光の届かないその地方で、商人たちは聖職者とその直臣の御用聞きに徹し、民の命も平気で差し出した。国を統べるべき皇帝は空席だ。王様は吸血鬼を駆除できない。ルジャは、それは王様が弱いためだと思っていた。だから自分を乗せた馬車が城に辿りついた時、その時点で忠誠を誓った。この土地を治める領土の長のために吸血鬼を駆除する。その役割を果たすと。信じていた。
まさか、教会の地下に『森』があるなんて思いもせず――
問題の教会は初めてルジャの連れられてきた城の隣にあった。よく考えてみたらわかることだった。どうして気付かなかったんだろう。今夜、その森では梟の声さえしない。その静寂の中央に少女は立っていた。足元には最後の警備兵の死体が転がる。彼女はもう十四歳だった。
「あんたがヴィオレータ?」
尋ねる。堅牢な岩を切り出した教会。その一番奥、客人は絶対に通されない神父の居間だ。だが彼はもう事切れた。ルジャの得意のナイフによって。
居間の近くには階段があり、降りていくと鍵つきの扉がある。頑丈な鍵だ。地下室にそれは囚われていた。家具も絨毯もない。かといって、鎖や錠前つきの檻に放り込まれているわけでもなかった。これは本当に囚われているのだろうか、とルジャは疑問を抱く。脆弱な神父を守る私兵たちは確かに鍛えられていた。だが、たいしたことはなかった。恐らくそれよりも遥かに弱い。自然的な日光に晒されることを畏れて地下にいる、それはわかる。だが逃げられないこともなさそうな、手薄な警備だった。ここが本当にその場所で、それが本当に元凶か?
今目が覚めたと云いたそうに、それは石畳の台の上に身を起こした。ルジャが最後の衛兵の帯剣を失敬し、そのままそいつを斬り捨てるのも見ていた。ただ見ているだけだった。
「あんたが元凶?」
「…いらっしゃい、お客さん。君は誰?」
楽しげにそれはルジャに尋ねた。夜明けの薔薇のような明るいピンクの髪。不吉な紫の瞳。間違いない。こんなに目立つ長い髪の女を間違えるはずがない。聞いていた特徴と一致する。この世の不幸の源だ。ルジャは確信する。
「返事をして。あんたがヴィオレータ・ヴィルトーヂ?」
「初めて会うのに呼び捨てされるのは好きじゃないわ」
吸血鬼は寝起きを邪魔されてむっとしている。前を隠していた布をはらりと落とした。白い胸があらわになって、全部が見えた。そのまま後ろ手で枕を払うと、隠されていた持ち手のついたベルを握る。それを鳴らした。リリーン、と空間にベルが響いた。
「誰か来てえ」
間延びした声で呼ぶ。ルジャはぼやいた。無駄だ、と。兵隊はすべて倒してきたのだ。けれども、頭上に雷撃のような衝撃が轟く。天井が軋む。
「衛兵は人だけじゃない。この鐘は同族を呼ぶ道具よ」
繰り返される轟音と衝撃。この地下空間をぶっ壊そうとする勢いの、何かに苛立っているかのような繰り返し。声がする。ヴィオレータ! と悲鳴のように。それを呼んでいる、恐らくはヴィオレータのドナーだった。
吸血鬼に囚われた女はそれに血を吸われるための存在となり、それはドナーと呼ばれる。吸血鬼はそのまま相手を絞りつくして死に至らしめることもある。だが、大半は自らの血を分け与えて眷族とする。それらは独立した吸血鬼として活動するようになる。それをドナーと呼ぶ。ドナーは母体である吸血鬼の危機に敏感だ。恐らくヴィオレータが呼んだのはそれだった。ドナーは元の吸血鬼に対して逆らう行動はけしてしない。場合によっては彼女たちに血を運ぶための手伝いを行うこともある。言い伝えの『母から生まれ母に還る』はこの現象を示す。
「ドナーを呼ぶなんて贅沢だ。あんた自身がかかってくればいい」
岩盤が崩れて落ちかかってくる天井は見ずに少女はヴィオレータを見据えた。彼女がそれにいつ気付くのか、待ってみる。
「私、疲れ気味なの」
気だるそうに吸血鬼は伸びをした。ベッドから降りる。ルジャは敵前であるにも関わらず目のやり場に困る。相手は一糸まとわぬ姿だ。
「狩人さん。天井の下敷きと、私の娘の相手とどちらがいい?」
何度目の体当たりか知れない。ドナーが下をまっしぐらに目指している衝突。天井が割れたらその下敷きになるかもしれない。けれどそうなったとして、もうヴィオレータの居場所はない。岩が砕けて容赦なく落ちかかってくる。ルジャは器用に避けながらヴィオレータに近づいていく。少しずつ。ヴィオレータは下着を身に着けた。そのまま石畳の上の黒い布をマントのように羽織る。
「わが子ながらせっかちね。これじゃ私も天井に潰されかねない」
「あんたの眷属は賢いよ。あたしを襲うなら頭上しかない」
「それ、どういう意味――」
ついに岩盤がひび割れて崩壊する。
そして夜空が見えたなら、その刹那に勝負が決まる。ルジャにはそれがわかっていた。問題は相手がどこから襲ってくるか。落下する瓦礫を避けながら、眼帯を外す。けして、ピンク髪のやつは見ないようにしながら。落ちてくるそのひび割れた石の塊に身を隠して潜んでいたドナーが襲い掛かってきた。
少女はそれを見るだけで良かった。
ヴィオレータの悲鳴があたりに反響する。部屋の灯火が瓦礫に倒れて火が広がり始めていた。ヴィオレータはようやく事の次第を理解する。戦いて後ずさった。その眼前にかつてドナーだったものが瓦礫と共に落ちて転がった。それは確かに少女か若い女であったであろう姿形をしていた。だがもう塊でしかない。登頂からつま先まで焼け爛れてところどころはもう灰になっていた。『見られた』のだ。
「待って、私を見ないで! 焼かないで! 何てことなの――」
吸血鬼はようやく取り乱している。ルジャは眼帯を元通りにして、それを睨んだ。彼女の目の前の焼けカスを蹴っ飛ばし、靴底でピンク髪の頬も蹴飛ばした。
「疲れてるってほんとみたいね。そんなに怯えて、自分でかかってこないなんて。あんたのくそくだらない所業を償わせてやる」
襟元の布を引っつかんで首を絞めるように立ち上がらせる。
「怠け者! あんたはここに巣食って随分貪っていたようね。おしまいよ。今からあたしの人質になるの」
「ちょっと、優しくして――」
「いい? あんたがどんなに速く動ける吸血鬼でも逃げられない。離れるんじゃないわ。飼い犬のように」
「熱烈ね」
岩盤の崩落はおさまったが、ヴィオレータの周辺は守られていた。恐らくは忌まわしい加護の力が働いている。岩の隙間のあちこちから熱を感じる。それらは燃え広がるのも時間の問題だ。いい塩梅に坂になった岩盤を登り、少女は地上に出た。
「無視しないでよぉ。ああ、着替えもないじゃない」
ぶつくさ言いながら吸血鬼は少女についていく。ドナーが開けた穴を出るとそこは教会の建物内部だ。壇上には十字架が掲げられ、礼拝の長机が並んでいる。十字架を見ても吸血鬼はびくともしない。彼女は頭上の建物が礼拝堂であることを知っていた。その無反応によって、その事実を知りルジャはまたむかつきを覚える。不道徳だ。
真ん中の通路に兵隊が倒れている。通路を抜けて中庭に出る。礼服を身に纏い武装した兵の死体がそこここに転がっている。ピンク髪の吸血鬼は呆然とあたりを見渡した。ルジャの顔を覗き込んだ。
「ねえ、私はここに囚われていたけれど――君はこいつらをやっつけてくれた。どう感謝を示したらいいかしら」
「あんた、今まで自分のしてきたことを知っていながらよくそんなこと言えるのね。囚われていたなんて嘘だ。知っていて自分の意思でそうしていたんだわ。感謝なんていらない。あんたは人質。用が済んだら滅ぼすだけ」
「その言い方、君は全てを知っているみたい」
でなきゃ誰が教会の神父やその信者を殺したりするだろう?
「そうよ。だから、ここを壊した――」
「こんなことしたら君の仲間のハンターや他の吸血鬼も困るんじゃない?」
「『こんなことされて困る』ようなら、そいつはハンター失格よ」
険しい表情でルジャは怒鳴りつける。ここは吸血鬼の量産工場だったのだ。哀れな子羊を救う教会を装って人を騙していた。長く、そして確実に疑いの目を免れるために。
「ここをつぶして『困る』ようなハンターは私の仲間じゃないわ。連中のお墨付きの手先に決まってる! だからあんたを囮にするのよ。っていうか、それ以外にあんたに使い道なんかあるの?」
改造型吸血鬼のヴィオレータ・ヴィルトゥーヂ。
それに向けてルジャは毒づいた。彼女ほどに不気味な存在はない。もう伝説といっていいほどによく知られた名だ。もう何十年も前に滅びたと噂されていた。生きていたのだ。彼女を子飼いにする教会の地下で、その能力を発揮して眷属を増やしていた。
「あんたの名前がヴィルトゥーヂだなんて」
「そ。美徳って意味。いい名前でしょう」
「何が美徳よ。ふざけてる。悪徳そのもののくせに――教会は後生大事にあんたを資産化して儲けていた」
「ひどいね、人を悪者みたいに。教会の人たちだってパンが必要だし、私も他者の血が必要だったの。それだけよ? 第一、私は吸血鬼としては善良な方で――」
「言い訳しないで、うるさい!」
その言い草があまりに自然で、ルジャは嫌悪しか覚えられない。生粋の化け物を相手に腹を立てるのもおかしい。だが理由はわかっていた。目の前の少女は恐らく単に『森』に連れていかれただけの女だ。自分の行き先が城だっただけで、その分かれ目に基準なんかない。つまり、目の前のピンク髪の化け物のように――自分もこうなっていたかもしれない、という事実がルジャを苛立たせていた。
「あたしがあんたの立場だったなら、とっくに自分で死を選んでる」
「――そう言いきれるなんてご立派ね」
ヴィオレータの体が漆黒のマントの下に惜しみなく晒されて、足元からの火と闇夜に映えている。ルジャは一瞬何を言うべきかわからなくなった。吸血鬼はにやにや笑うばかりだ。
囚われていたなんて嘘だ。逃げ出そうと思えば逃げ出せたはずだ。こいつを繋ぎとめているような仕掛けは何もなかった。だから怠け者と罵った。わざと囚われていた。教会の連中に。そして罪深き吸血鬼を生み出していた。
教会は、表向きは吸血鬼の情報を融通し、彼女たちの狩人を養育する場として人々の支援を受けていた。けれども実際には教会と吸血鬼は結託して、人々を襲わせ、狩人を派遣することによってその土地の領主たちから莫大な金をせしめていた。そのからくりに気付いた時のルジャの失望は言葉では言い尽くせないほどに強烈だった。情報を掴んだルジャの仲間たちは教会を潰すように動き始めた。だがその裏切りは露見し、教会からの刺客により多くの仲間をルジャは失った。今や、ルジャの使命感は正義のためだけでなく復讐の心がその大半を占めていた。そしてそれを果たした。
単身、ルジャがここまで乗り込むことが出来たのは彼女が最強で無敵の能力を所有しているからだ。それほどまでの強さがなければ挑む資格もなかった。皮肉にもそれは教会の連中によって施された術だ。
「『太陽の瞳』。噂には聞いていたけれど本当にあるのね」
何故か楽しそうにピンク髪は言った。
「太陽の瞳の主ってことは、あなたの名前はルジャね? よろしく」
差し出された掌をルジャは打って跳ねのけた。
「噂に聞いていたのはこっち。伝説の吸血鬼が小物よろしく教会と結託してドナーを生み出していたなんて――」
吐き気がする。
「憎いの? でもこうするしかなかったの。ねえ、仲良くしましょう。何でもするから」
ヴィオレータは下着しかつけていないその胸をあてるように腕を組んで見上げてくる。香水の匂いがルジャを怒らせる。
「不必要に近づかないで」
振りほどいた。
「いいから服をとってきて。夜明け前に港へ行く。追っ手が来る前に」
「ねえ、ルジャ。君のこと『救世主』って呼んでいい? あと、私は海って嫌いなのよう。他の方法で移動しない?」
ルジャはそれを無視した。夜明け前に移動しなければ日光に照らされて目の前の吸血鬼は炭になる。あのドナーのように。その危機感のなさは、つまり彼女が自分を舐めきっている証拠でもあった。苛立つなという方がおかしい。
VとRのやさしい盟約 玉置こさめ @kurokawa
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