赤青きいろ

アルミキャット

赤青きいろ

 国語の授業中、このクラスの担任でもある佐々木は、首にたっぷりと拵えた贅肉をスーツの襟に食い込ませながら、ヘミングウェイ『 老人と海』の一節を読み上げた。


「とにかく、毎日が新しい日なんだ」


 私は視線を外の景色に投げかけ、窓を少し開ける。そうして初夏のぬくぬくとした風を浴びた。これは窓際の特権だな、新しい空気、誰もいない校庭、忍び込んだ野良猫。机の上のプリントがそっと風になびき、飛んでいきそうになる。私はそれを慌てて抑え、静かな教室にバンッという音が鳴り響く。隣の席の沢ちゃんがそれで起きた。居眠り、それも悪くない。少し怒られればそれで終わり。だって食後は眠い。お昼ご飯は空気を澱ませる。満腹になると、どんどん空気は重くなり、白っぽく澱んで私たちにまとわりつく。


「今は、ただひとつのことに集中するときだ」


 私は想像する。毎日朝早く漁に出る老人を、海の上で捕れもしない魚を延々と待ち侘びる老人を。そんな生活でも毎日が新しいのだろうか?そうだとしたら羨ましい。


 私は思う。意識っていうのは漁のようなものなんじゃないのかな。海を形作るたくさんの海水は流れ行く日々の、何の変哲もない部分。網にかかる魚は日々の変化、学び、幸せ、驚き、悲しみ。魚は毎日捕れるわけじゃない。私もずっと不漁。老人と同じ。海水はただ流れ行くだけ。意識の網はなにも捕らえることがない。ただそこは青く深く暗く、音さえなくてどうにも怖い。きっとそこは世界の触れちゃいけない部分。けれど、世界の胎動はそこでしか鳴り響いていないと思う。原始の世界、だから怖いんだ、そこでは私を覆い隠してくれるものが何もない、なんにも誤魔化すことができない。いろんなことがうまく言えなくて、伝わらない。私の言葉は、水の中でボコボコいって泡になる。だからなんにも伝わらない。


 私の前に座っている柳くんは東大を目指しているらしい。だからいつも勉強していて、お昼休みもパンを齧りながら英単語帳を睨んでいる。当然テストも毎回一番。でもちっとも喜んでいなくて、当たり前のような顔ばかり。彼は毎日大漁なのだろうか?今度訊いてみよう。私の妹はどうだろう?最近部活でレギュラーになったらしい。今度の地区大会では絶対勝つんだと毎日汗を流している。彼女は大漁なのだろうか?親友のチカは?最近彼氏ができて毎日幸せそう、それじゃ考えるまでもない。じゃ、私のおじいちゃんは?でもおじいちゃんは去年死んだのだ、網が破れたんだ。


 年老いるってどんな感じなのだろう。意識の網はどんどん古くなって、脆くなって、網の輪が広がって、そのうちなんにも捕らえなくなってしまうのか、いいや、そんなことはないはず。きっと何の変哲もない水の流れにすらなにか意味を見つけることができるようになる、それが年をとるってことだ。ノーイベントグッドライフ、美しい日々の営み。朽ち果てた漁網が意味を失うことはない。でも、それは私にとっての不漁。なんたって私はまだ十代。美しい日々を探すのに忙しい。なんだかそんなことを考えていたら泣いちゃいそうになってきた。おじいちゃん、また会いたいよ。


 チャイムが鳴り響く。最後の授業は数学。とても難しい。どこか整然としていて、簡単な数式でさえ、お偉い博士の言葉みたい。やっぱり数学は苦手、なぜなら、わからないところがはっきりとしているから。わからないところは、そのうちこっそり見つかるもの。疑問を突きつけられても、その答えを探そうとは思わない。湧き出た疑問だけが、私の興味をそそるもの。


 柳くんこの問題教えて、わたし数学苦手なの、この前彼に聞いたときのこと、何度説明を聞いても理解しない私に柳くんは言った。まぁ女に数学は向いてねぇよな。なんで?どうして?女に理屈は通じねぇよ。なんでそんなこと言うの?決してそんなことはないのになぁ。今、理屈の通らないことを言っているのは柳くんだ。確かにあれこれと理屈を並べて整理することは難しくて、苦手で、無意識に避けてしまう。でも私に降りかかってくる言葉は理屈が整っていないぶんだけふわふわしていて優しいのだ。


 ひとりさみしい帰り道、公園の中を歩いて帰る。もうすぐ夏、植物の緑は深々と美しい。だというのに、ホームレスのおじさんが花壇の中で花を毟っている。ぶちぶち、命が千切れる音、花が千切れる音。いけない人だ、花泥棒だ。ホームレスのおじさんは千切った花を紐で優しく縛って、持参していた荷台の手すりに括り付けた。荷台には大きな焼酎のペットボトルや雑巾やよくわからない小物が並んでいる。小汚い荷台に一輪の花が咲いた。おじさんはニコニコ。独り言まで言っている。そして突然踊り出す。クネクネとした変な踊り、わたしはこっそり笑う、一緒に踊ってしまいたい。おじさんはひとしきり踊ったあと、何度も何度も花の匂いを嗅いでは嬉しそうに何かをわめき散らし、そして帰って行った。もうすぐ夏至、まだまだ日は暮れない。夜がどんどん遠くなる。私の影が消えるまで、もう少しだけここにいよう。

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