隙間

アルミキャット

隙間

1.

 近所に建っていた雑居ビルが取り壊されたのはつい三日前のことで、空き地をじっと眺めていると、同じく近隣住民であるフミさんがどこからともなくあらわれ私に言う。

「いやぁ、空が広くなったわねぇ。とっても清々しい気分だわぁ。」

「ええ、まぁ、ホントですねぇ。」

 日曜日の朝、時刻は七時を少し回ったころ、六月、初夏。朝はまだ肌寒いが、ビルが取り壊されたということでいつもより少しだけ広くなった空は青と白のコントラストを強く描き、灼熱の季節がもう目の前に控えていることを示す。

「私はね、もうここはこのまま空き地のままでいいと思うのよ。でもまぁそれは難しいだろうし、ああ!そうだ!駐車場が良いかしらね、うん、駐車場がいいわ。とにかく背の高い建物はいやよ。ところでウミちゃん随分と朝早くから出掛け?お仕事?」

「いやぁ、その逆というか、今帰りで、はは….。」

「ウミちゃんも去年から社会人だし、いろいろ付き合いがあるのはわかるけどあんまり朝帰りは良くないんじゃないの?余計な御世話かもしれないけど。」

 出た、謎の方向転換。今はビルの話をしていたんじゃないの?だからおばさんはいやなんだ、だから女はいやなんだ。昨晩のお酒が残っているままの頭で、親でもなんでもないおばさんの説教を聞くのは御免こうむりたい。ドロン、さようなら。

「私、この後も家で仕事あるので。フミさんさよなら。ではまた。」

 私は再び自宅の方向へと歩き出す。そして先ほどの空き地は、一つだけピースの足りていないパズルのような、少しのもどかしさを私に引き起こした。空き地は町の欠損、けれど、それは暫くの後に細胞が分裂するかのようにして癒える。そうして何かまた別の建物が生まれる。こうやって街は書き換えられてゆく。人の営みは街へと伝わり、地図を塗り替えてゆく。変わるもの、変わらないもの、変えられないもの。私が昼に目を覚ます頃、きっとフミさんはまたも庭でゴミを燃やし、近隣住民から声にならぬ多数の苦情を寄せ集めているだろう。これがこの街の変わらぬ日曜日の風景。それもまたいつか終わるのだけど。

2.

 自宅にたどり着いたのは朝七時一五分。ミネラルウォーターを一気に飲み干して、徹夜開けの乾いた身体を潤す。眠気はまだ来ない。その後自室に戻り、デスクに腰掛け仕事に掛かる。古びた磨りガラスからは澄み切った朝日がまどろみを伴って部屋へと差し込む。外からは鳥の声、車の走行音。今ここにあるのは「私とは関係なく」爽やかな朝。きっとそれは「世界」の為の爽やかな朝。誰かの為ではない、誰かの為の世界などこの世にはないのだ、きっとそうだ。私はただ夏が少しだけ待ち遠しいだけ。もうすぐ蝉の声もここに加わるのだろう。

「ウミ?帰ってきてるの?あんたまたこんな時間になって帰ってきて…その上仕事?もうちょっと考えて生活しなさいよね。」

 母はドアから顔だけを覗のぞかせると、呆れたトーンで私に話す。私はうーんと唸るような覚束ない返事を返し、椅子からずり落ちるようにして天井を仰ぐ。ねぇ、お母さん、コーヒー飲みたい。

 私は母の淹れてくれたコーヒーを飲みながら仕事を続ける。日曜日も仕事?惰性、これは惰性だ。平日誰よりも速い速度で仕事をこなすのも、土曜日に友達と朝まで飲むのも、日曜の朝に仕事をするのも惰性。仕事に於いて私の評判は良い。だからといって今の仕事にやり甲斐を感じたことも楽しさを感じたこともない。すべて私の惰性の範囲でこなせる事柄だから、やるべき事だけをささっと終わらせているだけ。人によってはやるべき事をやらず、ずっと先延ばしにしている人もいる。しかしそれも惰性なのではないか、要は同じこと、逃げ方が違うだけ。

 時刻は九時五十七分。お腹の底から煙が立ち昇るように、そして窓からは眠気が放射状に白っぽい靄となって押し寄せてくる。私はワンデーのコンタクトをべりっと剥がしゴミ箱へ投げ入れ、倒れこむようにしてベッドへ身を投げた。

3.

 浴槽の中で目を閉じて耳をふさぐ。まっくら。そして聞こえる心臓の鼓動。あ、やっぱり私は生きている、そう思えるのはこの時間だけ。この鼓動だけが生きている証拠。すべての根源、理由。裸になって、頭のてっぺんまでお湯に浸かって、目を閉じて耳を塞いで、プリミティブな命の音を聞く。やっぱり落ちつくねぇ、私は声に出して言う。しかしそれはブクブクと泡になって言葉にならない。ここは言葉すらも通じない。だんだんと息が苦しくなる。比例するようにして心臓の鼓動は激しさを増す。ドク、ドク、ドク。それはだんだんとうるさくなって、強く高まる。この音はどこから聞こえてくるのだろうか。耳で聞いているわけではないけれど、それは聞こえる。ドク、ドク、ドク。止めてやろうか?この音を。そうしなければ、完璧な静寂は訪れない。それはいつの日か、私の最後の可能性。

4.

 時刻は十五時を回った。テレビにはゴダールの映画、延々と続く交通渋滞が長回しによって映し出されている。


『ウィークエンド』


 そうだ、この映画のタイトルは『ウィークエンド』。シネマスコープによる濃い色彩、突如流れ始め、突如途切れる音楽。哲学、薬物、革命、ルイスキャロル、殺人、カニバリズム。それは混沌。道徳は吹き飛び、善悪は己の判断にて。ニーチェ?善悪の彼岸?これぞあるべき姿?奴隷道徳は消え去って、原始の世界をもう一度。ダメだ、眠すぎてもう意識が持たない。マルクス...マルクス....。

5.

「ウミ?おきなさいよ。ご飯だから。ウミ?」

 母の声で目がさめる。ああ、やはり目覚めは母の声に限る。母の声がしたから、私はこの世に生まれたのであって、いつの時も目覚めは母の呼ぶ声が良い。そうして毎日私はこの世に生を享ける。

「今行くよ。」

 私は目をこすりながらリビングへと向かう。時刻は十九時三十分。父が料理の乗った食器をテーブルへと運んでいる。テレビではお笑い芸人が下らない話を下らない視聴者に向けて話していたので私も下らない態度でチャンネルを変える。BSのニュースは北朝鮮がミサイルを発射したと告げる、大洗の原子力研究所で数名が被ばくしたと告げる、日本共産党中央委員会が共謀罪はメールや通話なんかも監視されるのだと告げる、巨人が十三連敗したと告げる、韓国のサッカーチームが試合中に暴動を起こしたと告げる、明日は三十度を超え、暑くなるのだと告げる。私はそれらをぼんやりとした靄のようなイメージとしてしか捉えられない。食べ物を咀嚼することもイメージの精度下げる。ああ、いつだってささみのフライは美味しい。でもそれ以上にこの日曜日の終わりという事実だけが、私の直面している深刻な問題であり、それ以外の出来事は何事も世界を突き動かす事はできない。母はミニバレーの参加人数が減っていると嘆き、父はレクサスのCMを見て欲しいと呟く。私はコーンスープを啜り、なんて美味しいのだろうと思う。小さな幸せ。しかしそれも明日からの憂鬱によりすぐに消し去られる。料理は全滅。ミサイル飛んでくるかもしれないけど、私は明日仕事へ行くだろう、被ばくの症状に怯える人たちの恐怖は想像もつかず、スポーツなんてどうだっていい。私の中で世界など消化できない。テレビは何かが変わることへの不安を告げ、私は何も変わらぬことへの不安を抱える。今できることは残り少ない休日、それを貪るようにして喰い尽し、ただ未来へと思いを馳せることだけ。

6.

 時刻は二十二時四十三分。時間は沈黙のままに過ぎ去る。私はコンビニまで出かけビールを買うと、それを片手に近所の公園へと向かった。ベンチから見上げる星々はちかちかと瞬き遠い過去の光を地球に届けている。明日に向かいつつある今この時と、過去の瞬きが交差して、その境目がアルコールによって曖昧に溶ける。風が吹いて、静かな街に電車の音が轟く。願わくば、明日は私の感じたことのない風が吹けばいい。

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