口裂け女は二度見しない
@SUMEN
第一話
『口裂け女は二度見しない』
これは私が十年前に経験した話である。
当時、私は予備校の講師をやっていて、少ない稼ぎだったが、教え子を合格へと導くことにやりがいを感じ、それなりに楽しく過ごしていた。
あれは、試験が間近に迫り、予備校生の質問に答えていて、すっかり夜遅くなってしまった帰り道でのことだった。
私は高架下を通って、いつものルートで帰宅していた。街灯は切れかけていて、チカチカと点滅し、その周りを羽虫が飛び交っていた。夏のじめっとした暑さが肌にまとわりつき、汗が絶えなかった。高架下は薄暗くて、気味が悪かった。
すると私の歩く少し先に、一人の暗い影があった。周りが暗かったので、その影はかろうじて輪郭をとどめている程度で、むこうを向いているのか、こちらを向いているのかさえわからなかった。その影はちょうど、私の行く手をさえぎるところにあった。
私は仕方なく、その影に近づいていった。
「すいません、ちょっと、道を開けてくれませんか」
影はゆっくりと振り向いた。それは、マスクをした若い女性だった。私は、こんばんは、と挨拶をして、ふたたび、道を開けてほしいと伝えた。しかし女性はいっこうに退く気配がない。ただ黙って、じっと私を見つめるばかりだった。私は気味が悪くなったので、別の道で帰ろうと引き返した。そのときだった。その女が喋った。
「私、きれい?」
「え?」
たしかにその女は、瞳がつぶらで、色が白く鼻が高くて、ひいき目に見ても、きれいだった。
そこで私は、素直に「きれいだよ」と答えた。
すると女は嬉しそうにくすくす笑い出した。それからぱったりと笑うのをやめて、こう言った。
「これでもか!」
そう言って女は、マスクを勢いよく剥がした。するとそこには、耳元まで裂けた口があった。その口は、女が笑うと、不気味にぱっくりと開き、かすかな吐息をもらしていた。
わたしは驚いて、尻もちをつきそうになったが、それでもなんとかこらえ、改めて女の顔を見た。たしかに女は口が裂けて、それは人間のものではなかった。しかし、それを加えても、その女の顔は私の好みのタイプで、とても嫌いにはなれなかった。
だから私は、こう言った。
「いや、きれいだと思いますよ」
「え」
女は、心底驚いたようで、目を丸くして、しばらく私を見つめていた。女は口を閉じると、もはや普通の女とは変わらず、むしろあまり見かけないくらいに美人だった。女の頬はやや紅潮していた。
私がもう一度、「きれいです」と言うと、女は目を伏せて恥ずかしそうにした。その恥ずかしがる姿が、余計に可愛らしくて、私はすぐに、この女を好きになってしまった。
「きっとその口がコンプレックスなんだろうけれど、ぼくはあんまり気にする必要はないと思います。それもひとつのあなたの特徴ですし、それを加えても、あなたはとてもきれいだと思います」
すると女はやや、たじろいだ。
「ごめんなさい、私、あまり褒められるのに慣れてなくて。いつもはこういう風に、裂けた口を見せると、みんな逃げようとするんです。だから私は寂しくて、ついこのナイフで切りつけちゃうんです」
たしかに、女の手には、血にまみれたナイフが握られていた。
私は少なからず驚いて後ずさりをした。すると足が何かにぶつかった。見るとそこには、血を流し倒れている男がいた。男は喉を裂かれたようで、声を出すことができず、かろうじて残っている意識で、必死に何かを伝えようとしていた。
「あの、本当に、私のこと、きれいだと思いますか」
そう言いながら女がにじり寄って来る。ナイフの握られた手は、いつ襲ってきてもおかしくない状態だった。
「バカやろう!」
そこで私は、思い切って、その女の手を叩いた。ナイフが音を立てて地面に落ちる。
「そうやって、人を傷つけてばかりいるから、誰もおまえに近寄らないんだ。ちゃんと自分のコンプレックスと向き合えよ! そうやって人の評価ばかり気にしているから、自分に自信が持てないんだよ。大丈夫、おまえはそのままで十分きれいだよ。だから、もうこんなことはやめちまえ」
女はうなだれた。しばらくすると、かすれた泣き声が聞こえてきた。女は何度も、ごめんなさい、と呟いている。
「私、五年もつきあっていた彼にふられて、それで見返してやりたくて、もっときれいになってやろうと、それで整形したら失敗して、もう生きてる意味なんてないんです」
私は泣きつづける女を抱き締めた。
「そうか、いろいろ辛いことがあったんだな。でも、もう大丈夫だ。俺が自信を持って、あんたに言うよ。あんたはきれいだ。生きてていいんだよ」
「ありがとう」
そのとき、私はお腹に鈍い痛みを感じた。それで女を離して腹部を見ると、そこには太いハサミが刺さっていた。見ると女はまた、裂けた口をぱっくりと開いて、笑っている。
先ほど足をぶつけた、道に転がっている男が、かすかな声でこう言った。
「俺もそのパターンでやられたんだよ」
口裂け女は二度見しない @SUMEN
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