生徒会BB

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プロローグ

 ――夕暮れ。

 日が沈むまでの僅かな時間、町が綺麗な茜色に染められ、普段何でもないような景色に彩を加える。

 それは町の外れにある、人気のない廃ビル地帯も同じで、無機質なコンクリートの冷たいイメージを少しでも払拭するかのように、橙色に照らされていた。

 誰もいないはずの廃ビルの屋上で、一人の少女がそれと退治する。

「はぁ……はぁ……」

 金色の長い髪を左右に揺らす、年端もいかない少女。息を切らしながら、ジリジリと、フェンスの壁に追い詰められている。

 身を覆い隠すような黒いマントが風でなびく。隙間から時折見える白く細い腕は、目の前の脅威を拒否するかのように、ガタガタと小刻みに震える。

「……しつこいわね」

「…………」

 目の前には、自分より一回りも二回りも大きな、黒い影。

 それは、何かしらを比喩した表現ではない。眩しい程の夕日に照らされているにも拘わらず、その部分だけ光が当たっていないかのように、それはただただ黒く、禍々しい。

 少女を執拗に追い詰めるそれは文字通り、黒い影。

 おぼろげながらも、人の様なかたちをしていた。顔、肩、腕、胴体、脚とそれらしく、人間と思わしき形状をしているが、陽炎のようにゆらゆらと輪郭がぼやけ、頭部と思われる箇所には目であろうか、紅黒い二つの光が中央に横に並んでいる。それ以外の顔のパーツ、鼻や口などは見当たらない。

 その影はゆっくりと、しかし確実に、距離を詰めていく。

「くっ……」

 一歩接近される度、少女は一歩後退する。

 ガシャリと、背中に何かが接触した。少女は警戒を続けたまま首を僅かに動かし、眼だけで後ろを確認する。

「そんな……」

 錆付いてボロボロになった金網のフェンスだった。背中に伝わる感触が、もうこれ以上、逃げる事は適わないと警告する。少女は焦りの表情を露にする。

 その間にもまた一歩、影が近づく。

 少女は必死に考えた。どうすれば、この目の前の敵から逃れられるかを。

 今の自分に、この影に対抗できる力は持ち合わせていない。先程までこの手に握っていた武器は、屋上に逃げるまでの間に、影に弾かれてどこかへ飛んでいってしまった。

 何とか、何とかしないと……

 今日も昨日も一昨日もその前も、絶えず影と鬼ごっこを続けていた。そのせいで、まともに食事も取ることが出来ず、体力はもう殆ど残っていない。

 武器も体力もない。追い詰められたこの状況でさらに、気力も削がれていた。既に少女は限界に達している。

 だがそれでも、この場をなんとか凌ぎきろうと、少女は足掻く。

 こんなところで諦めるわけにはいかなかった。何の為に自分はここにいるのだと。

 腑抜けそうになる気持ちに、自分自身に渇を入れる。

 ――そうよ。私はあの屋敷で送る毎日が嫌だったから、アイツが嫌だったから、わざわざこんな島国まで逃げて来たのよ? ……こんなところで、おとなしく捕まるわけにはいかない。

 あんなところには、もう絶対に、戻りたくない――!

 その一心で、ボロボロの身体に更に鞭を打つ。

 ギラリと、少女は睨みつけた。

 さらに一歩近づいた影は、その眼に反応するように動きを止めた。

 長いようで短い沈黙が、この屋上の張り詰めた空気を更に膨張させる。

 ダンッ! と、

 歯を食いしばり、少女は一歩。

 その細い脚を後ろではなく、前に踏み出す。

 覚悟を決めるしかなかった。これ以上逃げられないのなら、と。この手に武器がなかろうが、この身体が酷くボロボロだろうが、そんなことは関係ない。

 立ち向かって、活路を無理やりこじ開けるしかないのだ。

 姿勢を低くし、踏み込んだ右足に集中する。間合いを自ら詰めることで、相手の攻撃のタイミングを狂わせてやると画策する。

 だが、しかし。

「無駄だ、今の生身のお前では、この状態から逃げる事は叶わん」

「!」

 屋上から、更に上。

 何も無い筈の上空から、非情な言葉が放たれた。

「――っ」

 次の瞬間には、少女の視界が黒い塊によって遮られていた。

 踏み込んだ足は無情にもコンクリートの地面から離れる。少女の決意はあっけなく、簡単に砕かれた。

 影のそのおぞましい腕が、少女の小さな身体を捉え、背後のフェンスに叩きつける。その弾みで身に着けていたマントが外れる。この状況に似合わない、ゴシック調のボレロ服が露になる。

「フン、手間取らせおって……」

 酷く冷たい声が、少女の耳に入る。

「はな……して!」

 腕の中で暴れるが、少女の今の力では振り払う事ができない。おぞましい程のその力で、次第に意識が遠のいていく。

「暴れられたら適わんからな。そのまま眠らせろ」

 その声に従うように、影は更に力を入れ、フェンスに押し込む。そのせいで悲鳴を上げることもできず、代わりにギシギシとフェンスが音を立てて激しく軋んだ。

(もう……だめ……)

 不意に。

 金属の弾ける音が、屋上に響いた。

 それは、フェンスを支えていたボルトが外れた音。

 長い間放置されていたせいで、さび付いたボルトはその強度を失っていた。少女の意識を奪いかねない程の力が加われば、崩壊するのは当たり前の事であった。

 フェンスはそのまま外側に向かって倒壊する。当然、押付けられていた少女も一緒に、足場も何もない、屋上の外へと投げ出された。

「――――え?」

 一瞬、自分の身に何が起きているのか、意識を失いかけていた少女は理解ができなかった。

 分かったのは、身体が不意に自由になったことと、背中に感じていたフェンスの感触がなかったこと。

 ぼやけた視界が映すのは、何故か自分よりも下に見える空。そして、逆さまになって立っている、影の姿。

 そこでようやく、自分の置かれている状況を理解した。

「ああ」

 出した言葉はそれだけだった。

 なんのことはない。自分はただ、ビルの上から落下している。ただそれだけの事だった。

 これ以上、何も抗う事はできない。この状態で足掻いたって、自由落下するこの身体をどうする事もできない。

 ――こんな最後を迎えるために、私は必死にここまで逃げた訳じゃないのに――

 少女はこの瞬間、初めて死というものを覚悟した。今まで感じていたものとはまた別の恐怖が、身体を覆うように襲い掛かる。

 どうにもならないと分かっているのに、逆さまになった茜色の空に向かって、必死でその手を伸ばした。だが、その小さな手は何も掴む事もできない。

 こんなところであっけなく、終わってしまうの――?

 思った途端、不思議と身体はこの浮遊感を受け入れた。力が自然に抜けてゆく。自然と瞼が閉じられてゆく。

 別に死ぬ事を受け入れたつもりではない。迫る「死」と向き合って、少女は思ったのだ。

 

 あの屋敷に戻るよりは、死んだ方が遥かにましなのではないのか、と。

 このまま地面に叩きつけられるのも、存外悪くないかもしれない、と。

 

 だが。

 死を肯定する事を真っ向から否定するように、

『届けぇぇぇ!』

 何も掴むことが出来なかったその手に、暖かい何かが触れた。

 それは野蛮で、品性の欠片もない。しかし、一切の曇りを感じさせない真っ直なその声は、少女の奥深くにまで届いた。

 閉じていた瞼をゆっくりと開く。

 その視界に広がる景色は、夕日に染められた空ではなかった。

 会ったことも見たこともない少年が必死の表情で、自分と同じ目線にいる。

 ――だ……れ?

 見ると、自分の手は少年がしっかりと握っている。暖かい感触の正体は、自分の手よりも大きな、少年の無骨な手。

 力強く掴まれた少女の小さな手は少年に引き寄せられ、少女はしっかりとその大きな腕でに抱きしめられた。

 ――あったかい。

 薄れゆく意識の中。少女はその全身で、見知らぬ少年の暖かさを感じていた。

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