第六話「狭い会議室と広い世界」
子供の頃の思い出が、泡のように浮かんでは弾けていった。一つ割れるたびにそれは、当時の色や香りまで思い出させてくれる。どういうわけか、心地がいい。
「準備は出来た?」
不愉快な声が聞こえた。けど、驚かない。私はもう知っている。
「家畜としての準備は出来た?」
実体が無い世界で、私は無言で頷いた。
「あはは、流石生まれながらの家畜だね。受け入れるのが早いよ」
私の記憶が少しずつ知識として変質していく。私の名前、私の思い出、私の経験。それらがまるで、一冊の本を読んでいるように他人事のように思えてくる。
「じゃあ、せっかくだからさ。ちょっとしたプレゼントを上げる。これからの貴女にとってとても役に立つものだよ」
何をくれるの?
「選択肢。貴女にはこの世界で最も多くの選択肢を上げる。でも、それは見てのお楽しみ。それじゃあ、また暇になったら来るよ。じゃあね」
「変な夢でも見たのかな」
目元に溜まった涙を拭いながら、椿はベッドから降りた。何気なく自分の額を触ってみたが相変わらず固い感触がある。
「少なくとも、これは夢じゃないか」
周りには眠る前と同じ風景が広がっていた。簡素なベッドに所々汚れた壁。病的なまでに白い自分の身体と無駄な肉がそぎ落とされたかのような華奢な四肢。
「少なくとも、人間じゃないよね、これ」
椿の脳内に、妹が好んで読んでいた小説の内容が浮かび上がった。事故かなにかで死んだ主人公が異世界に転生するというものだが、大抵主人公は何らかの能力を手に入れていたはず。なら、自分にも何か備わっているのだろうか。
「ちくじん、だっけ。もしかしてそれがこの世界のレアスキルだったりして」
そんなわけないか、という含みを持たせながら椿は小さく笑った。なんだか余裕出て来たかも、まあ、なんとかなるかな。ほら、今は狭くてもこんなに風が気持ちいい世界なんだし。
「風……?」
自分のうなじを撫でる感触に疑問を感じた椿は背後へ振り向いた。
「あれ、いつの間に?」
部屋の扉が大きく開かれていた。周囲には誰の気配も無い。それでも椿は、世界が急速に広がっていくかのように感じ、吸い込まれるように部屋の外を出た。すでに人を刺した時の手の感触は薄れている。それがもう、たいしたものでは無いように思えたからだ。
「馬鹿か、お前は」
パイルは呆れ顔でサーバスの顔を見た。
「いえ、私は努めて正気です」
サーバスの顔はさっきとは打って変わって自身に満ち溢れている。
事の顛末を見ていたカルテナとマギアは、目の前のハゲオヤジをどうやって畜人の餌へするか、必死で頭を回転させていた。
目を覚ました当初のサーバスは連続殺人が発覚した小市民のように動揺していた。その様子はパイルだけでなく、カルテナ達ですら違和感を感じるものであったが原因はすぐにわかった。
「ギムナス審問官、そろそろ礼拝の時間では無いだろうか?」
即座に解決策を導き出したパイルは、同行してきた男に和やかな表情で語りかけた。
「ああ、そうでしたね」
ギムナスと呼ばれた男は間髪いれずに何かを思い出す振りをする。若年者でありながら審問官に任命されるだけのことはある、見事な察し振りであった。
「それでは皆様に泡神様のお慈悲がありますように」
「ええ、どうぞごゆっくり」
当分帰って来るなという意味合いをたっぷり持たせて、パイルは笑顔でギムナスの背後を見送った。
「さて、邪魔者はいなくなったな。正直に言え。噓や隠し事をしたら教会本部へと通達させてもらうからな」
好々爺の笑みを消し去ったパイルは、自身の血圧が急激に上がっていくのを感じた。まさか、いや、しかし。
「はい、多機能移植型への改良のため、人間の要素を混ぜてみました」
サーバスは全く悪びれる様子もなく、堂々と言った。その言葉を聞いて、信仰心が平均以上に薄いマギアは思わず神の名を呟き、そこそこの上流階級生まれのカロテナは育ちの悪い町娘のような罵詈雑言を、心の中で叫んだ。
「この世界で最も信じられないものは研究者の良心と倫理観だ」
パイルの脳裏に過去の恩師の言葉が甦っていた。
「誰も知らなかったのか?」
パイルが救いを求めるような視線を、二人に向けた。
「知っていたら殺してでも止めていました」
「まさかここまで狂っているとは思いませんでした」
巻き添えを食らいたくないという鉄の意志を感じるような声で、両者は答えた。確かに二人ともが信仰心は薄いし、学会では異端児扱いされている。だからこそ宗教的な制約が緩いこの研究所に来たのだが、その二人からみてもサーバスの行ったことは擁護できないものであった。
「どうやって、二人にばれないようにやったんだ……」
「はい、皆が寝静まった後に一人でやりました。もちろん魔力係数にも細工をして数値上は正常になるようにも気を使いました」
「何故、そんなことをした……」
パイルの心にはすでに諦観に支配されていた。
「やってみたかったからです。ですが神に誓って、人間を作ろうだなんてこれっぽっちも思っていません」
お前が神の名を口に出すなと、叫びそうになるのをぐっと堪えたのは人間としての良識が咎めたからではない。徹底的な学者筋であるパイルは既に起きてしまった問題の対処方法へと思考を移していた。
「どれだけの予算をつぎ込んだんだ?」
「既に、半期分は」
思考を切り替えたマギアが淀みなく答えた。
「知っているものは?」
「詳細に関して言えば私達だけです」
聊か遅れてカロテナも答える。
パイルの脳内で多数の人格による会議が開かれた。早急に殺処分すべし。だが教会と国にはどう報告する。ここまで予算をつぎ込んで単純に失敗しましたでは次がなくなるぞ。だが、ばれたら関係者は全員が死罪だ。大丈夫だ、ギムナスには媚薬をかがせておけばいい。そう上手く行くのか。正直に答えたらどうなる。死罪に決まってるだろう。
幾つかの思考が複雑に絡み合い、解きほぐすように簡潔な答えを描き出していく。
「絶対に外部へ洩らすな。厳重に保管しろ」
非の打ち所のない素晴らしい回答だった。室内にいる誰もが反論を示さない。唯一つ問題があるとすれば、答えを出すには少しばかり遅すぎたという事だった。
ピルが所長を務める西方畜人総合研究所は、この日に侵入者と脱柵者を同時に対処することになる。
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