第二話「家畜のカエデ」

空に浮かぶ楕円状の恒陽は今日も元気に仕事をしていた。その事について喜ぶ者もいれば、鬱陶しがる者もいる。薄汚れた白衣を着たアルパード主任研究員は後者だった。


「しかし暑いな、嫌になってくる」


額から垂れてくる汗を拭いながら、アルパードは周囲を見渡した。小まめに手入れがしてある草原はちょっとした一軒家が建てられる程の広さがあり、周囲には脱走防止用の木で出来た柵が設けられている。名目上は畜人用の放牧スペースで作られた場所だが、アルパードは何故自分がこんなところにいるのか、いささか不満を感じていた。


「俺は研究員として入ったっていうのに、これじゃあどこかの畜農家と変わらないな」


自嘲気味に苦笑いを浮かべたアルパードだったが、すぐにその考えを消した。昔ならいざ知らず、今は畜人の管理も近代的になっている。しっかりとした設備で健康と品質を管理しながら、常により良い状態で出荷できるようにする、それが今の畜農だった。


「となれば、これは金持ちが趣味でやる畜人の放し飼いってやつか」


自分で言いながら、アルパードは妙に恥ずかしくなり白い頬を紅く染めた。どうも、ストレスが溜まるとろくな事を考えない。せっかく地元の学校を卒業して、畜人の研究所に入所できたのはいいももの、やっている事は畜人の餌やりに厩舎の掃除と雑用ばかり。自分の希望した分野である畜人の品種改良については、簡単な遺伝子解析すらやらせてもらえない。


柵にもたれかかったアルパードは、必要以上に大きなため息をついた。目の前のやたら頑丈な作りの施設は今も、他の職員が自分がやりたいであろう研究に励んでいる。だが、今自分の背後にあるものはなんだ?


「ごはん、まだですか」


後ろを振り返ると同時に畜人と目が合った。


「次の餌は昼からだよ」


やる気の無い声でアルパードは答えた。それでも、畜人は目を逸らそうとはしない。水溜りのように濡れた瞳で、じっとアルパードを見つめている。


「ああ、もう、わかったよ」


苛立たしげに白衣のポケットに手を突っ込んだアルパードは、甘豆を取り出して畜人の前に差し出した。


「ありがとうございます」


「他のやつらには言うんじゃねーぞ」


畜人の頭を乱暴に撫で回したアルパードは、黒い髪を靡かせ走り去る畜人を見ながら本日何度目かのため息をついた。品質管理のため、餌の時間は徹底して決められているのに。もし、ばれたら大目玉だろうな。


「いっそのこと、このまま畜農家にでもなるか」


そうすれば、少なくとも食肉には困らないだろう。少しだけ本気で、アルパードは考えた。だが、目の前の施設に目を向けすぐに気を取り直す。


「俺も早くあの中でカエデの品種改良に手をつけたいもんだよ」


先程甘豆をやった畜人の品種を呟きながら、アルパードは再び頭上の恒陽を見上げた。



「今度は上手く行きそうですね」


眼鏡をかけた研究員は力無く笑った。連日の徹夜で体力の限界は超えている。それでも尚、意識を保っているのは彼の備えた職業倫理の賜物だった。


「ああ、これで多くの人が救われるはずだ」


額の禿げ上がった主任らしき人物も、目の前の研究員以上に疲労が顔に浮かんでいた。よく見ればこの二人だけではなく研究室にいる全員が似たような表情だった。少しの異変も見逃さないように終日培養液の前に張り付き、気が狂うような繊細な遺伝子配合を短い間隔で行っていく。培養液の状態もそれに合わせて常に変化させる。それでも、当然原因不明のエラーが起きて一からやり直しとなるのも珍しくは無い。外で暢気に畜人の世話をしているアルパードが見たら、即座に辞表を出すであろう環境だった。


「多機能移植型の第一歩がこれでようやく始まるわ」


長い金髪をまとめた女性研究員の、普段は決め細やかな白い肌も、薄汚れて垢が浮き出ていた。その目には狂気をほんの少しだけ踏み越えた何かが宿り始めている。


「量産の体制はまだかかりそうですけどね」


「実際に運用してみなければ、まだわからないよ」


各々の研究員が好きな事を口に出すが、主任の咳払いで一斉に止まった。全ての目線が主任に集まる。


「それではカエデに続く新たな品種」


主任は大きく息を吸った。


「ツバキの誕生を祝って、乾杯」


大げさに握り拳を作り、上げた。


「「「乾杯」」」


他の研究員がそれに続いた。


培養液の中にいる、ツバキと呼ばれたものがゆっくりと目を開けたが誰も気がつかなかった。

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