漂流 ⑤
休日の朝はゆっくりと寝坊したくなるものだが、如何せん身体が仕事に慣れるといつもどおりの時間に起きてしまうもので、ルーネは夜明け前には目覚めて辺りを散歩していた。
岸に押し寄せる波の音が心地良い。
何人かの水夫も既に起床して柔軟体操をしていた。
互いに朝の挨拶を交わしてふと町に一件だけ佇む小さな食堂に目を向けると、煙突から白い炊煙が立ち上っていた。
店の厨房を覗いてみれば、ハリヤードが鼻歌交じりに朝食の支度を一人で進めている。
慣れているとはいえ一度に30人以上の食事を作らねばならないのだから、船の料理人も大変な重労働である。
しかし彼は久々に陸のキッチンで料理が出来ることが嬉しいらしく、いつになく包丁捌きに磨きがかかっていた。
「おはよう、ハリヤードさん」
「うん? ああ、ルーネちゃんか。早起きだねぇ。つかれているなら、二度寝してきてもいいんだぞ?」
「ううん。もう目が覚めちゃったから。それより、お手伝いしてもいい? ご飯を作るのも私の仕事だから」
「それは助かる。じゃあ、ハムを焼いてくれるかな」
「はぁい!」
船での食事は料理かどうか怪しいシンプルなものが多いが、陸ともなれば朝食もしっかりとしたメニューのようで、焼いたハムにふわふわのオムレツ、パンにサラダとコンソメスープ等など、宮殿のそれと遜色ない出来栄えだった。
「ハリヤードさんは何処で料理を?」
「これでも昔は妻と小さな店をやっていた。故郷でもそこそこ評判ではあったのだが、生意気な客が料理を粗末にしてね。それを見たら後先考えずに手を出してしまって、そこからは坂を転がり落ちるように店も潰れ、妻にも先立たれた……」
「ご、ごめんなさい。余計なことを聞いてしまって」
「いいんだ。こうやって誰かに料理を味わって貰えるだけでもうれしいものさ。特に、皇女様のお口に入ると思えば何よりの栄誉だよ。料理人にとっちゃぁ」
そんな風に言われると何やら気恥ずかしくなってしまい、ハリヤードに笑われながら出来上がった料理を大皿に盛り付けてテーブルに並べていく。人数が多いので自由に小皿に持っていけるよう、店のフロアを活用したビュッフェとなった。
ハリヤードは店の外にでるとフライパンを強く叩いて音を鳴らす。
「野郎ども! 飯の時間だ! 起きろ!」
食事と聞いた水夫たちが次々に家から出てきた。どいつもこいつも二日酔いで頭を痛めており、中には迎え酒と称して朝からラムをグイグイ飲む不届き者さえいた。
ルーネも目覚ましのために家々を回り、黒豹が眠る民家の戸を叩くと、彼女はなんと一糸まとわぬ姿で家から出てきた。眠たそうに欠伸をし、手の甲で目尻を擦っているが、黒豹の逞しい裸体が突然目の前にさらけ出されたのでルーネは大慌て。
「ちょっと姉さん! 裸は不味いって! はやく服を着てよ!」
「ん~? 堅苦しいこと言うなってぇ。どうせ甲斐性のない野郎しかいないし」
「姉さんが良くても私が恥ずかしいの!」
「ああ、分かった分かった。お願いだから大声出さないで……頭痛い……」
「って、あんたも二日酔いかぁ!」
「やめてぇ……本当に勘弁してよぉ……」
どれだけ血に飢えた猛者でも酒のちからには勝てないらしい。
それに比べてウィンドラスは休日の朝でもピシっとシャツを着こなしている。
ノックをして屋内に入ると、彼は窓際で聖典を読みふけっていた。
二日酔いをしている様子もない。
「おはよう、ウィンドラスさん。朝食が出来たよ」
「おはようございます。殿下」
恭しく一礼した彼にルーネは怪訝な顔を浮かべた。
「その呼び方、嫌いです」
「貴女はこのような場所に居るべきではない御方です。もしも万一のことがあれば、帝国は支えるべき柱が無くなり、帝室が脆いと見れば、今まで服従していた貴族や諸民族が反旗を……」
「ウィンドラスさん!」
ルーネの蒼い目がウィンドラスを睨み、彼に言葉を飲み込ませる。
「朝ごはん、冷めちゃいますよ? 次は船長を起こさないと……」
静かに閉じられた扉を、ウィンドラスは後悔と共に見つめていた。
彼女は逃げたわけではない。身をつぶすほどの重圧を知っているからこそ、軽々しく口にした彼に怒りを覚えた。迂闊だったとウィンドラスは溜息を吐き、これ以上彼女の機嫌を損ねないように朝食を味わうことにした。
さて一番の問題人物を起こしに島の屋敷へ足を運んだものの、屋敷の中にヘンリーの姿はなく、何処へ行ったのかと屋敷の回りを探しまわってみれば、彼は町の住人たちが埋まっている墓標の前に腰を下ろして紫煙をくゆらせていた。
鎮魂? 慰霊?
まさか。と、ルーネは脳裏に過った考えを一笑に付す。
故に尋ねた。何を思って墓前に立つのか、と。
「何のことはねぇ……神様を笑ってやってたんだ。あんたが精魂込めて創った善良な連中は全部俺達が喰っちまった。てめぇが創った呪われた子に泥を塗られて、さぞや悔しいだろうってな。ついでに地獄の悪魔とやらにも伝えておいた。これだけ綺麗な魂をくれてやったんだ。もう少し長生きさせてくれってな」
「神様が憎いの? 何故?」
「逆に聞きたいね。何故神を愛するのかと。お前は神に何をしてもらい、愛するだけの恩と義理があるのかと。俺は無いね。人間も所詮は天然自然から産まれた獣よ。俺は自然の掟に従って生きているだけだ。獣は神なんぞに祈らん。ただ飢えを癒やすための肉を求めるだけだ」
「私は神に感謝しているけど? あの檻のような宮殿から外に出られたのだから」
「そうかい。好きにしな。他人の信心までとやかく口出しはせん。だが俺の前で神の話はするな。船底にこびりついたフジツボを見るよりも胸クソが悪くなる。まあ、お前さんには分からん世界だろうさ」
「でも興味はあるわ。どうやったら船長みたいな自由な人が出来上がるのかって」
「お前、人の傷ほじくって楽しいか? 案外女王様に相応しいかもな。その道じゃぁ」
「どの道かは存じ上げないけれど、私、気になったらトコトンなの」
「だろうな。でなきゃ鉄火場に居たいなんて言わねえよ。十年も海に居りゃ、立派な女海賊になれる。請け合うぜ? べっぴんさんだしな」
「どうも。貴方はいつから海に?」
「物心つく前からさ。気がついたら商船でこき使われていた。ろくに飯も与えられず、寝床もなく、ヘマをすれば鞭で打たれる日々だ」
「奴隷だったの?」
「奴隷ならまだ割り切れた。奴らはただ鬱憤の捌け口が欲しかっただけだった。奴隷なら反乱を起こされることもあるが、ガキならそんな心配もない。ただし、俺じゃなかったらな」
ヘンリーは愛用しているフリントロックピストルを取り出した。
「背中の皮が剥がれるまで鞭で打たれた夜、こいつで船長をブチ殺した。銃声を聞いて他の連中も船長室に駆け込んできた。そいつらには油をぶっかけて燃やしてやった。俺は燃え盛る船からボートを下ろし、何日か海を彷徨った後に海賊船に拾われた。そこで見習いやって独り立ちして、一杯殺して一杯奪った。もう後戻りも出来なかったからな。お前さんの親父が取り締まりを厳しくしちまったもんだから、海賊お断りの港が激増してな。仕方なくキングポートの貴族に賄賂送って私掠船になったわけだ。それもオジャンになったがな」
「左目は、戦いで?」
「生まれつきだ。世間でいう母親って女の腹から出てきた時には、もう見えてなかったんだろうよ。物心ついたときには見えなかったからな。お前さんだって知ってるだろ? 産まれたときに目や腕が無い子供は、神に見放された呪われた子だって話を」
「で、でも、それは間違いって聖堂教会も発表したじゃない」
「ああ。最近ではな。全くお笑いだ。人間が神の教えを都合よく書き換えてるんだからな。だが俺の母親も敬虔に神を信じていたんだろう。だから俺を捨てた。神に見放された呪われた子を育てることは、神の怒りに触れるとでも思ったんだろう」
ヘンリーはルーネの頭をぐしゃぐしゃと撫で回しながら立ち上がる。
「昔話は終わりだ。腹が減った。朝飯、出来てるんだろう?」
「う、うん……」
「とっとと行かねぇと無くなっちまう。お前の飯、結構美味いからな」
外套を翻し、パイプを咥えて潮風に吹かれる彼の背中は、どこか淋しげだった。
食堂に戻ると全員が食事を始めないまま二人を待ちわびていた。
粋な連中にヘンリーもルーネも笑いがこみあげ、その後は取り放題が災いして食堂が戦場と化すのであった。
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