見習い ②

「フハァ!」


 瞼を開けると、見知らぬ天井に吊るされたランプが見えた。耳に聞こえるのは波の音と、独特な船の軋み。身体が温かい。見れば、やわらかなベッドの上で清潔な純白のシーツに身を包んでいた。


「ここは……そっか、船の中……私、海賊に捕まったんだっけ?」


 曖昧な記憶を辿っていたルーネが頭を抱えていると、部屋の扉が開き、白衣を纏った顔色の悪い男が入ってきた。

 四十代のやせ細った姿はさながら案山子かかしのようで、やつれた顔には骨と皮しかついていないらしく、ほとんど骸骨のようになっている。

 男は顔に垂れ下がった白髪を指で弄りながらルーネに近づき、懐から調合したばかりの粉薬を取り出し、彼女へ差し出した。


「心配するこたぁ無い。あたしは医者だ。これを飲めばすぐに楽になる」


「え? 私、病気、なんですか? 確かにちょっと気だるいけど、別に熱も無さそうだし」


「いやいや立派な病気だとも。一つ舌を出してごらん?」


 恐る恐る言われたとおりに舌を出すと、医者を自称する男は治療用のスプーンでルーネの舌を押さえつけた。


「ぱぴぷぺぽ、と言ってみなさい」


「……ふぁふぃふぅふぇふぉ」


「やっぱり。君は病気だ」


「えーっ!?」


 驚きのあまりシーツを掴んで飛び退けてしまった。こんな不合理な診察など見たことも聞いたこともない。第一舌を抑えられてぱぴぷぺぽなんて発音出来るものか。


 呆気にとられて固まる彼女をニタニタと笑う医師は、粉薬をビーカーに注がれた水に溶かし始めた。


「飲みにくいならば水と一緒にどうかね? はやく飲まないと、病魔に蝕まれて死んでしまうかもしれないよぉ? ヒッヒッヒ」


「い、いやぁ! 来ないでぇ!」


 すっかり怯えきったルーネは後ずさるものの壁に阻まれ、すぐ目の前まで医師の顔が近づき、その小さな唇にビーカーが押し付けられようとしたとき……。


「ちょっと待ったぁ!」


 突然部屋の扉が押し開けられ、ルーネも医師も部屋に入ってきた人物に目を向ける。


 少年だった。癖のある茶色い髪は短く、白いシャツに黒いベストを着て、腰には金色の柄の短剣がベルトに吊るされていた。少年はベッドに飛び乗ってルーネと医師の間に割って入り、彼女を守るように両腕を広げ、華奢ながらに凄みを利かせる。


「ドクター! また患者を実験台に使おうとしたでしょ!」


「実験台とは心外な。新しい薬を試そうとしただけさ。どうだい、タック。君も一つ飲んでみるかい? 少しは背が伸びるかもしれないぞ?」


「余計なお世話だい!」


 タックと呼ばれた少年は指先を医師の鼻先に突きつける。


「船長命令! 彼女が目を覚ましたらオイラが世話係をするから、ドクターは自分の部屋に戻ること!」


「チッ、余計なことを。まあ船長命令なら従うさね。身体に異常なし。精神的な疲れと空腹で倒れただけだ。しっかりと栄養をつければすぐに良くなる。それではお嬢さん、お大事に。怪我や病にかかったら、遠慮せず、このドクター・ジブの部屋へおいで」


 ひらひらと手を振るジブが部屋から出ていき、仁王立ちしていたタックもへたりと腰から力がぬけてベッドに座り込んだ。


「はぁ~……はははぁ、怖かったぁ」


 乾ききった苦笑い混じりにため息を吐いた少年を、ルーネは驚きと同情で何と声をかければいいのかわからず、ただ彼の引きつった笑みを見続ける以外に術がない。

 驚きとは先程彼が彼女を身を挺して守った勇気でも、その勇気が虚栄であったことでもなく、海賊船に同い年くらいの少年が乗り組んでいることだった。

 てっきりこういう船には屈強で粗暴な野郎ばかりが乗り組んでいるものと勝手な先入観があっただけに、目の前で恥ずかしそうに頬を掻いているタックが何か別の生き物を見るように凝視してしまった。


 そんなルーネの熱い視線を受けた彼は頬を赤らめて視線を泳がせる。


「な、なんだよ、そんなに見つめてさ。顔に何かついてる?」


「え? あ、ごめん。ちょっとびっくりしちゃって。さっきのお医者さんもそうだけど、こんな海賊船に君みたいな子が乗ってるのが意外で……」


「ム……こんな海賊船とは言ってくれるねぇ。そっちだって仲間にして欲しいって言ってたじゃないか。同じ見習いだけど、オイラのほうが先輩なんだからね? 第一、オイラたちは海賊じゃない。ちゃんと帝国から許しを貰ってる私掠船なんだから、そこ間違えないで」


「は、はい……」


 ルーネからすれば一体何が違うのかよく理解出来なかった。

 許しを貰っていようが何だろうが、他の船を襲って乗員を傷つけ、財宝を奪っていくのは同じではないか。

 そもそも帝国がそんな許可状を配布していることすら彼女は知らされていなかった。


 帝位に就いてから教わる事柄だったのかもしれないが、少なくとも今の彼女の頭には、一刻も早くこの船から逃げ出したいと思う気持ちで一杯だった。

 が、彼女も人間。

 いくら悩んだところで欲求には勝てるはずもなく、胃袋が労働意欲を燃え上がらせて始業を求める笛を鳴らした。


 ルーネははしたない音を鳴らしてしまったと俯き、タックは思い出したように手をたたく。


「ああ、そっか! 君、ずっと食べてなかったんだよね? すぐ何か食べ物持ってくるから!」


 部屋から出ていこうとするタックの手を、ルーネは無意識に掴んでいた。

「待って……私も、行く」


「えぇ? 大丈夫かい? まだ休んでいたほうが……」


「船の中を知りたいの。暫く乗ることになると思うから」


 船の揺れ具合からして未だ航海中。次の港まで、不本意ながら船には乗り続けなければならない。しかし、もしも機会があるならば、航海中でも逃げ出せることが出来るかもしれない。


 其の時になって船の構造が分からなければ動きようがない。


 せめてこの部屋から甲板までの道筋さえ覚えれば……などと思案する彼女の脳内など知る由もないタックは、憂う表情を浮かべた後輩をベッドから引き起こす。


「オイラ、タック。見習い兼キャビンボーイ。十六歳。君は?」


「ルーネ。タックと同い年。よろしくね」


 ただ名前を交わすだけの挨拶など何時以来だろうか。

 ドレスの裾を摘んで恭しくお辞儀をする練習ばかりさせられていた彼女には少しばかり新鮮に感じられ、同時に、男性用のズボンの歩き易さにも驚いた。


 息が詰まるようなコルセット、転びそうになりながら歩かねばならないドレスが如何に不便か前々から感じていたが、こうして遠慮無く両足を動かせるのは心なしか気持ちがいい。タックに導かれて船室を出た彼女は狭い廊下を進む。



 ちらりと他の船室を覗いてみたが、男たちの部屋は五、六人が狭い部屋に押し込められ、それぞれ小さなハンモックを寝床としていた。まだ昼間だというのにいびきをかいて寝ている。


「ねえ、タック。かいぞ……私掠船ってお昼寝の時間もあるの?」


「うん? ああ、あれは夜の航海に備えて今寝てるんだよ。昼と夜で交代するんだ。航海しているときは昼も夜も動きっぱなしだからね」


「皆ハンモックだね」


「狭いからね。でもすぐに慣れるよ。女用の部屋もあるからさ。そっちは結構空いてる」


「女の人も乗ってるんだ……」


「あの人はそこら辺の男よりもおっかないよ。戦いになったら真っ先に飛び込んでいくし、喧嘩で負けたところを見たこと無いもの。後で紹介する」


 ルーネが今の今まで眠っていた寝室は、水先案内人等の客人が使う部屋だったらしい。


 他にベッドがある部屋といえば、船長室か航海士の寝室だけとのこと。


「ねえ、タック。キャビンボーイって何をするの?」


 ふと気になったことを尋ねると、タックはバツが悪そうにそっぽを向いた。


「い、いいから黙ってついて来なって」


「えー、教えてよぉ」


「だから……その、あれだよ。ええい、もう、単なるパシリ! 文句あっか!」


「ありません!」


 どうやらタックは下っ端であることにコンプレックスがある様子。


 ともあれ今は空腹を満たさねば考えようにも頭が働かず、食堂へ近づくに連れて厨房から漂ってくる料理の香りがルーネの口内を潤していく。グレイウルフ号の食堂はせいぜい三十人が入れるかどうかという間取りで、簡素なテーブルと椅子が適当に置かれており、その奥に鼻歌を口ずさみながら軽々と鍋を操る大男がいた。

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