帝国皇女の私掠船《プライベーティア》-灰色狼たちの航跡

コウヤ

VOYAGE 1

襲撃 ①

 帝国本土から南に海を隔てた小島の岸に打ち寄せる波の音と肌寒い潮風が吹き荒み、船乗りたちの喧騒と娼婦たちの嬌声が入り交じる欲望と悪徳の交響曲が、港町キングポートの月夜に響き渡っていた。


 その一角に、海猫亭うみねこていという小さく寂れた酒場があった。

 蝋燭の灯りに照らされた薄暗い店内にはパイプから立ち昇る濃厚な紫煙が充満し、奏者が操るアコーディオンが曲を奏でている。

 店に屯している連中も陰気なもので、酒を片手に博打に明け暮れるような荒くれか悪党の類ばかりであった。


 そんな中、来客を知らせる鈴が鳴り響き、全身を黒い外套で包んだ男が入店した。

 男は帽子を深々と被って男たちの刺すような視線を無視し、カウンターに肘を乗せて身を乗り出し、仏頂面でグラスを磨く初老の店主に小声で話しかけた。


「ヘンリー・レイディン船長は何処にいる? 常連と聞いたが」


 すると店主は表情を崩さないまま店の隅の席を指さし、不愛想に背を向けた。

 男は大きなカバンを隠すように両手に抱え、ヘンリーのもとへ急ぎ足で寄ってきた。

 ヘンリーはくたびれた白シャツに黒いベストを着こみ、右肩から左脇腹にかけて短剣が差し込まれた革のベルトを締め、首から洒落た赤いアスコットタイを垂らし、金糸で飾られた丈の長い黒い上着ジュストコールを羽織っていた。

 ランプが置かれた円卓に紺色の長ズボンと革のブーツを履いた両足を傍若無人ぼうじゃくぶじんに放り、椅子に座ったまま背を壁に預け、紅い羽飾りがついた黒い三角帽子トリコーン・ハットを顔に載せている。


 まさか居眠りをしているのかと男が顔を近づけると、その鼻先に短銃の銃口が押し付けられた。

 火打ち式のフリントロックピストルだ。

 驚いた男が咄嗟に身を退くと、ヘンリーは帽子の陰から灰色の瞳で男を見据え、銃口を振って正面の席に座るように促した。

 恐る恐る従った男が腰を下ろしたのを見届けたヘンリーはようやく帽子を顔から外して座り直し、気だるそうでふてぶてしい態度で男を睨みつけ、首筋まで伸びた雨雲色の髪を掻きむしる。


 左目は黒い眼帯に隠されていた。


 黒づくめの男は意外そうに唇を尖らせる。

 ヘンリーの顔が想像よりも若々しかったからだ。

 日焼けた肌は老いを感じさせない張りがあり、目鼻が整った顔つきは精悍にしてハンサムで、歳は三十代前後のように思われた。

 そして男を睨む灰色の瞳には知的な精気の輝きが強く宿っていたが、同時に、近寄りがたい危険で獰猛な獣の如き野性の色も濃く含まれていたのである。

 粗野を好む女性からはさぞ人気があることだろう、と男は鼻で笑いたくなった。


「神の教えを説こうってなら今すぐ失せろ。俺は神様って奴が大嫌いなんだ」


「そういう心配なら無用だ。仕事の依頼に来た。神の教えに背くような罰当たりな仕事を」


 仕事と聞いた彼はピストルを腰のホルスターに収め、男を鼻で笑った。


「依頼だぁ? ハッ、わざわざ俺のようなならず者に物を頼む奴がいようとはな」


 大仰に両腕を広げてみせるヘンリーに、男はあくまで冷淡に言葉を紡ぐ。


「ならず者にしか頼めない仕事も世の中にはあるということだ」


 男は抱えていたカバンを机の上に置き、その中で輝く無数の帝国金貨ゲルトのうちの一枚を取り出してヘンリーへ投げ渡した。


「前金として金貨500枚。成功すればさらに500枚やろう」


 ヘンリーは顔色を曇らせた。

 今までにも幾度か個人的な依頼を受けたことはあったが、これほど莫大な報酬など聞いたことがない。

 この見た目にはちっぽけな金貨はたった1枚で1ヵ月は陸で生活できる。

 金貨1000枚といえば豪邸に召使付きで一生遊んで暮らしてもオマケがついてくるほどの額だ。

 おいそれと個人が出せるような金額ではない。


「どっかの国の要塞でも落とせってのか? あんまり無茶な依頼ならお断りだ。こっちも命は惜しいんでね」


「なに、簡単なことだ。ある船を襲撃して貰いたい」


 蝋燭に照らされた男の冷たいナイフのような視線がヘンリーを睨み返した。


「海賊ならばお手のものだろう? 失礼、今は帝国に飼われる私掠船プライベーティアだったな。船長キャプテンヘンリー・レイディン」


「手前の名も名乗らずに人の名をぬけぬけと口にするとは、気に入らんな」


「断るというのならば別の船に頼むさ。それとも怖気づいたか?」


 険悪な空気が酒場を凍りつかせる。

 他の客たちも二人の様子を固唾を呑んで見守っており、中には今か今かと喧嘩の勃発を期待して腕を撫す者もいた。

 暫し睨み合っていたヘンリーと黒尽くめであったが、先に緊張を解いたのはヘンリーの方だった。


「気に入らないが、ビジネスとあれば受けてやるさ。一つ確認しておくが、獲物は商船か? 軍艦か?」


「哀れな海の荷馬さ。名はマーシア号。明後日の正午、この近海に達する予定だ。積み荷はそちらの自由にしてくれて構わないが、一つ条件がある。乗員は一人も生かさないで貰いたい。男も女も全員だ」


「皆殺しとは穏やかじゃないねぇ」


「やるのか? やらないのか?」


「やるともさ。こんな美味しい話は滅多に無いんでね。残りの500枚、忘れるなよ?」


 腰から外した刃渡り60センチ程のカットラスを杖代わりにして立ち上がり、一息にグラスのラムを飲み干したヘンリーは前金が詰まったカバンを受け取り、金貨一枚を指で弾き飛ばして店主が磨くグラスに見事ホールインさせた。


 そして店の戸を蹴り開けた際、思い出したように男へ振り返る。


「ああ、そうそう。一つ言い忘れていた。国に飼われる私掠船というがな、悪事をやるにしても後ろ盾はいるのさ。いまどきの海賊は」


  ヘンリーと同じく、帝国から他国の船舶を略奪する許可を得た私掠船が持ち帰る莫大な財宝や交易品によってこの町は支えられていた。

 酔っぱらいや浮浪者が行き交う石畳の大通りを歩くヘンリーの視線の先には、月明かりに浮かび上がるマストの森が広がっていた。

 大抵は帝国の商船ばかりだが、中には輸入品を運んできた他国の船も停泊している。

 政治や経済のことはよく分からないヘンリーにとって、それは単なる獲物にしか映らなかった。


 無論港の中で略奪をするような真似はしない。

 海賊といえど今は国家から承認されている身。

 免状を取り消されれば途端に取り締まりの対象になってしまう。

 生粋の海賊からは国の狗だとか裏切り者だとか色々と好き勝手に悪態をつかれているが、帝国の貴族や有力者に賄賂などを送って免状を得る船が増えているのが現状だった。


 ヘンリーもそのうちの一人だ。

 おかげで何の憂いもなく略奪に勤しめる。

 結局のところ海賊も私掠船もやることは同じだった。

 相手から見れば残酷な略奪者であることに変わりはないのだから。


 さて、夜の港は悪徳の街に比べて別世界のように静まり返っていた。

 男どもは誰も彼も酒場や賭場に繰り出しているため、船に残っているのは病人か非常食の家畜だけ。

 あるいは仲間はずれにされて留守番を仰せつかった哀れな水夫といったところ。


 船に近づくに連れて夜の帳に隠れていた巨大な船体の全容が明らかになっていく。

 天高く聳える横帆の3本マスト、全長134フィート(約40メートル)、排水量450トン、12ポンドカノン砲を26門と8ポンド軽量砲を12門備えた海の狼。

 其の名を灰色狼グレイウルフ号といい、船種は快速で知られる軽フリゲート船である。

 船の命である帆が灰色であることから、いつしかグレイウルフと呼ばれるようになった。

 長年共に獲物を追ってきた船を見上げる彼の目には絶対的な自信と信頼にあふれている。

 タラップを駆け上がり、海狼の甲板に踊りでた彼の視線の先に、およそ荒くれ共が乗り組む私掠船に似つかわしくない男がいた。

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