第2話 始動

翌日15:00、ルカとアインズはラボに姿を現した。コンソールルームで待っていた4人に指示を飛ばしていく。


「イグニス、ユーゴ!昨日送った報告書通りだ。私とアインズ・ミキ・ライルはダークウェブユグドラシルに向かう。二人にはその間私達の体のモニターを頼みたい。但し万が一の際は二人にも来てもらうことになるのでそのつもりで。いい?」


「了解しました。我々はバックアップ要員ですね」


「ルカ姉、久しぶりに本格復帰ですかい?あんまりあぶねえ橋は渡らないでくださいよ?」


全くだ、とルカは思った。未だ確認されていないが、過去の歴史からプレイヤーがユグドラシルサーバ内で死ねば、その意識も消失する可能性が高い。イグニスはそのような事は微塵も思っていない様子だが、ユーゴが口をへの字に曲げて心配するのも頷ける話だった。しかしそれが、愛する友の為だったらどうだろうか。ルカ・ブレイズは笑顔で死地に飛び込むだろう。それが愛する夫のためならばどうだろうか。ルカ・ブレイズはその者を護るため、全てを破壊する鬼神と化すであろう。ルカ・ブレイズとは、そういう女性だった。4人は制服を脱ぎ捨てて下着姿となり、実験棟に入った。


実験棟には全部で8台の保存カプセルが横一列に並んでいるが、それを入れても余りある面積で、薄緑色の外壁で囲まれたバスケットコートといった様相を呈していた。コンソールルームと同じく天井も高く、優に10メートルは超えるだろう。ルカ・ミキ・ライルは部屋の中央に立ち、円陣を組むように並んだが、道を塞がれたアインズは立ち止まり、何をするのかと戸惑っていた。


「何してるのアインズ、早くこっち来て」


「...あ、ああ」


ルカに手招きされ、アインズは慌ててその円陣の中に加わった。


「それではルカ様、本ミッションの方針を」


重々しい真剣な声でライルが促した。


「...これより私達は、アインズウールゴウン魔導国の大使として行動を開始する。目指すはアーグランド評議国、スレイン法国、竜王国、カルサナス都市国家連合、海上都市、そしてエリュエンティウだ。特に注意すべきはアーグランド評議国、スレイン法国とエリュエンティウ。以前のような隠密偵察ではなく、表立っての行動となる。知っての通り、奴らは世界級ワールドアイテムを所持している可能性が高い。こちらも世界級ワールドアイテムで固めている以上敵ではないと思うが、決して警戒を怠るな。アインズ達を傷つけるような行動に出た場合は即座に殲滅戦に移る。ただ忘れるな、今回のミッションは大使としての気品が要求される。可能な限り攻撃的な言動は避けろ。相手の心を読め。その上で最善の答えを導き出せ。まず私達の最初の仕事は、リザードマンの集落で起きた異変を調査することだ。全員アインズの指示には絶対に従え。彼が死ねと言ったら死ね。そのつもりでことに当たれ。いいな?」


『了解』


ミキとライルが返答し、実験棟の壁がミシリと音を立てた。アインズはリアルの世界で殺気というものを感じた事がなかったが、これは違う。今のバイオロイドの体では、耐性レジストゼロの状態で絶望のオーラを浴びているに等しかった。アインズは彼女の背後に死神を見た。しかしその殺意は決して自分に向けられたものではなく、自分を包み込むように護るための殺意だと知り、言いようもない心強さを感じていた。


ルカは無言で拳を握り、腕を水平に構えた。ミキ・ライルもそれに続く。アインズもその意図を察し、拳を握った。(ゴツン!)と音を立てて円陣中央で四人の拳がぶつかりあうと、四人はそれぞれの保存カプセルに散っていった。ルカとアインズは中心にある2台の保存カプセルの前に立ち、ミキ・ライルはすぐさま左右の保存カプセルに横になった。それを見たイグニス・ユーゴが二人の体に電極を取り付け始めた。ルカは隣りで横になろうとするアインズを引き止めるように、左手でアインズの手の平を握った。アインズはその感触からルカだと判断し、反射的に指を絡め優しく握った。


横になろうとした体を止め、アインズは体を起こしてルカと向き合った。バイオロイドとはいえ、そこに立つルカはユグドラシル内のアバターと一糸乱れぬ姿で、悪魔的に美しかった。頬にタトゥーはないが、そのせいで赤い瞳が大きく見えるのは気のせいではあるまい。ルカは顔を上に向けたまま、アインズに体を寄せた。


「アインズ...こんな私、嫌い?」


「こんなとは?」


「だから、命令口調というか...」


要するに、殺気を放つ自分が嫌いか?ということを言いたいのだとアインズは判断した。


「嫌いなものか。普段のお前も、あの時のようなお前も、俺は大好きだぞ。全ては俺を守るためだと、お前は言っていたじゃないか」


「ほんと?」


「ああ、本当だ」


「....ん」


ルカは握っていた両手を離し、アインズの首を抱き寄せて、唇を重ねた。


ルカの柔らかな薄い唇が、アインズの厚めな唇を包む。アインズはいきなりの不意打ちに最初慌てふためいたが、ルカの落ち着きようを感じて徐々に冷静さを取り戻し、アインズも背中に腕を回した。アインズにとってのファーストキス。ルカにとっては二度目だった。静かで、穏やかな時間が過ぎていく。


───時間の経過も忘れていたが、やがて二人は満足して唇を離し、慈しむようにお互いの頬を撫であった。目の前には涙ぐみ、優しく微笑するルカの美しい顔がある。アインズがそれを見て惚けているところへ、大きな咳払いが一つ響いた。


「ゴホン!お二方、あいすいませんが、続きは現実世界に帰ってからにしてもらえませんかね?」


ユーゴの声に阻まれて、二人は慌てて体を離した。しかしルカの顔を見ると、アインズを見つめながら晴れ晴れとした表情を浮かべている。それを見て安心したアインズは、自分の背後にある保存カプセルに横になった。ルカも横になり、備え付けられたヘッドマウントインターフェースを被り、首の後ろのブートボタンを押した。そしてイグニスの手で全身に電極を付けられ、ルカは目を閉じた。その口には思わず溢れたと言わんばかりの笑みを讃えている。やがて保存カプセルのキャノピーが閉じ、静寂が支配した。ルカが右を見ると、隣の保存カプセルで自分を見つめるアインズの姿があった。彼は保存カプセルの中で、左手の親指を立ててルカに向けた。それに答えるようにルカも右手の親指を立てて、アインズに返答する。


そして唐突に目の前が真っ暗になり、複数のウィンドウが開いた。その中をプログラムの数列が高速で駆け巡っていく。イグニスとユーゴが組み上げた、ダークウェブユグドラシルに入るためのオートログインプログラムだ。


(Mental...ok. Vital...ok. Welcome to the Yggdrasil!)


データスキャンが終わり、閉じた目に光が差してくる。目を開けると、そこは見覚えのあるエ・ランテルの街並みだった。人の往来が激しかったため道を逸れるが、左を見るとミキが自分の状態を確認するかのように手の平を見つめ、握ったり開いたりしている。向かいの通りを見ると、そこに立つライルも同じような仕草をしていた。ルカはライルに呼びかけて自分たちのいる通りの向かい側に招き、皆でお互いの姿を確認しあった。


全身漆黒のレザーアーマーを纏い、その上からフード付きの黒いマントを羽織っている。腰に巻いたベルトパックの中を確認すると、赤く光る帰還用のデータクリスタルが複数個入っていた。


「それにしても...2年ぶり、か」


誰にともなくルカは独りごちて、街を見回した。以前とは違い、ゴブリンやオーガ、そしてナーガやドワーフ、人間を含む様々な種族が大通りを行き交っている。彼らの顔は皆明るく活気に満ち、その事から平和に共存できていることが見て伺えた。空にはフロストドラゴンが絶えず街の上空を出入りしており、その光景は正に多人種国家と言って相違なかった。装備を確認し終えたところへ、頭の中に一本糸が通るような感覚がよぎり、アインズからの伝言メッセージが入った。


『ルカ、問題なくログインできたか?』


『ああ、3人とも問題ない。今どこにいるの?』


『街の東部にある屋敷だ、今迎えを出す。えーと、お前たちは今どのへんにいる?』


『街の南側にいるよ』


『分かった。ハンゾウをやるのでそれについてきてほしい』


『了解』


しばらく待っていると、突如高速で近寄ってくる何かを足跡トラックが捉えた。ルカは前に立ち、相手が飛び込んでくる方向にタイミングを合わせてロングダガーの刃を突き立てた。その”何か”は一切の身動きが取れず、透明化スニークを解除した。そこには忍装束を着た男が一人、体を仰け反らせて立っていた。


「...あのさー。人を迎えに来るのに透明化スニークってすごい失礼だよ」


「...あっ....その、申し訳ありません!」


「うん。それで、アインズの所に案内してくれるんでしょ?」


「はい!こちらです、ご案内致します」


目の前にいるハンゾウはおどおどしながら、ルカ達3人を街の東側へと案内した。召喚モンスターであるハンゾウのレベルは80。ルカであれば武器が掠っただけで殺せるレベルである。それを知ってか、ハンゾウは一切の無駄口を叩かなかった。


そして案内された先には、背後に三重の城壁が控え、その手前に建てられた立派な3階建ての家屋が目に入った。その建物の右隣には、さらに贅を尽くしたであろう4階建ての貴賓館とでも言うべき建築物が並んでいる。


ハンゾウが正面入口の扉を開け、奥へ進むと右手にある扉の前にメイドが控えていた。ルカ達3人の姿を見てメイドが扉をノックし、先に入る。そして扉を開けて入室許可を口にした。


「ルカ・ブレイズ様、ミキ・バーレニ様、ライル・センチネル様。ようこそお越しくださいました。魔導王陛下が中でお待ちです。どうぞお入りください」


それを聞いてルカは目を伏せて部屋の中に入った。ミキ・ライルも同じようにしていただろう。部屋の中央に立ち顔を上げると、まず真っ先に骸骨───死の支配者オーバーロードの姿が執務机の向こうに目に入った。そしてその向かって左には、目も覚めるほどタイトなホワイトドレスを着た絶世の美女。そして右手には、橙色のシャープなスーツを着た細身の男性が凛として立っていた。


ルカがどちらから対応すれば良いか迷っていた所へ、左に立つ美しい女性がアインズに許可を乞うように首を向けた。アインズはそれに同調し、無言で右手を差し出して、”行け”と促した。


それを受けて彼女はルカの目の前に歩み出た。その表情は今にも泣き出しそうなほど緩んでいる。


「アルベド...帰ってきたよ」


ルカがフードを下げて手を差し伸べるとアルベドは走り寄り、ルカの胸に飛び込んできた。ルカはそれを笑顔で受け止め、抱きしめる。ルカとは異なるフローラルな香水の香りが体を包んだ。右肩のマントにアルベドの涙が滴っている。


「...バカ。こんなに長く待たせて...」


「ごめんねアルベド...でも、ちゃんと帰ってくるって約束は守ったでしょ?」


「守るなら、もっと早くにして。私はあなたとずっと一緒にいたいの...」


「そういう意味なら、今回は長く居れると思うよアルベド。何せ私は、魔導国の大使になったからね」


「引き受けてもらえるの?」


アルベドはルカの首から体を離し、両肩に手を乗せて正面から問いただした。ルカがマントの裾でアルベドの涙を拭う。


「ああ。どうやら私達にしか出来ない案件らしいからね。それに、君たちも私にやってほしいと思ってたんでしょ?」


「...ルカ。大好きよ」


「私も大好きだよ、アルベド」


ルカはアルベドの額にキスをして、二人は体を離した。

そしてアインズの右に立つ男性に笑顔を向けた。


彼は余裕から来る微笑を讃え、アインズに一礼することで許可を求めた。アインズは左手を前に差し出して許可を与えた。


デミウルゴスは右腕を前に掲げ、ルカの目の前に立って一礼した。自信に裏打ちされたその微笑は正に紳士。メガネの奥に光るダイヤモンドのように青白い目がルカを見下ろした。


「ルカ様...本当に、よく帰ってきてくださいました」


「デミウルゴス、ただいま。元気そうだね」


ルカはそのままデミウルゴスを抱きしめ、彼の胸元に顔を埋めた。柔らかいミントのような清涼感ある香りがルカの鼻孔に溢れる。デミウルゴスもルカの背中に手を回して抱き寄せた。


「ルカ様もお元気そうで何よりです」


「フフ、ありがとう」


ルカは体を離し、デミウルゴスの左頬をひと撫ですると、満足そうにアインズの隣へ下がっていった。


「さて、まだ再会が済んでいない者達もいるが、それは後にしよう。アルベド、デミウルゴス、私達はこれから蜥蜴人リザードマンの集落へ調査に向かう。留守の間街を頼んだぞ」


『ハッ!』


アインズは机を回り込んでルカ達の前に立つと、左の壁に向けて人差し指を向けた。


転移門ゲート


そう唱えると、壁の手前に暗黒のトンネルが姿を表した。アインズが先に入ると、ルカ・ミキ・ライルも後に続いた。



─────鋭き尻尾レイザーテール族の集落 正門前 15:52 PM



転移門ゲートを潜ると、強い日差しがルカの目に差した。目を薄めながら上を見上げると、そこは雲ひとつない一面の青空が広がっていた。ルカは目を閉じて鼻から大きく息を吸い込み、深呼吸して空気を肺に満たした。薄っすらと水の香りが漂ってくる。恐らくは近くにある湖の香りだろうと心の中で思い、大きく息を吐き出す。(戻ってきた。)心の中でそう唱え、言いようのない高揚感と共にルカの口には自然と笑みが溢れていた。


左を見ると、先端が鋭く尖った木で組まれた高さ3メートルほどの防柵が目に入った。一辺が300メートル程あり、以前に比べて広大な敷地を擁している事が伺える。その一角には、頭上高く魔導国の国旗が二枚はためいており、その下に頑丈な木枠で組まれた門が固く閉ざされていた。


物見櫓に立っていた蜥蜴人リザードマンらしき人影がアインズ達を見つけると、下に何事かを叫んでいる。門の前につくと、アインズは前に出て扉の向こうに呼びかけた。


「門を開けよ」


すると扉の裏側から(ゴトン、ゴトン!)という錠を外す音が聞こえ、ゆっくりと扉が開いた。扉が完全に開き切り中へ進むと、門の両脇で片膝を付く蜥蜴人リザードマンの門番二人が恭しく頭を下げた。


『魔導王陛下、ようこそお越し下さいました!』


アインズは鷹揚に右手を上げてそれに答える。


「うむ、警備ご苦労」


正面を見ると、整地された円形の広場となっており、その広場の周囲を取り囲むように、高床式住居や大小様々な小屋が放射状に立ち並んでいる。広場では蜥蜴人リザードマンの子供達が走り回り、大振りな魚を何匹も肩から吊り下げる者、水瓶を両手に抱えて歩く者等でごった返し、のどかで平和な様相を呈していた。


その広場の奥にコキュートスの姿を見つけた。羊皮紙のスクロールを手に、蜥蜴人リザードマン達と何か相談をしている様子だった。そこへ向かおうと広場に一歩入ると、アインズの姿を見つけた蜥蜴人リザードマン達が驚いた様子で、一斉にその場で片膝を付いた。


「おお、陛下...」


「魔導王陛下...」


「陛下、ようこそお越しくだされました」


皆が口々にそう言いながら、その声が広場中に伝播するように、アインズの姿に気づいた者達が次々と片膝をついていく。


その異変に気づいたコキュートスがアインズの姿を確認し、足早に門の方へと歩いてきた。やがてアインズの目の前まで来ると、他の蜥蜴人リザードマン達と同じくコキュートスもその場に片膝をつく。青白く艷やかで氷のような甲殻が日差しを反射し、眩く輝いている。そしてまるでオオスズメバチのように強靭な前顎を持つ昆虫の頭部に、四本の腕を持つ阿修羅のような風体。武神という言葉をそのまま体現したような逞しい姿。これこそが、コキュートスであった。


「アインズ様、オ呼ビ立テシテ申シ訳アリマセン」


「良い、コキュートス、立て。私もお前の報告を受けていたにも関わらず、後回しにしてしまった事を許してほしい」


「イエ、滅相モゴザイマセン!ソレデアインズ様、ルカ様ハ無事コチラニ着カレタノデショウカ?」


それを聞いて、アインズの背中に隠れていたルカはひょいと腰のあたりから顔を出し、ピースサインをして笑顔を向けた。それを見てコキュートスは立ち上がった。


「オオ、ルカ様!」


ルカはコキュートスに走り寄り、タックルするようにコキュートスの腰に抱きついた。それを受けてもコキュートスは微動だにせず、ルカを両手で支えて受け止めた。


「ただいまコキュートス!帰ったよ」


「ルカ様、ゴ無沙汰シテオリマス。コノコキュートス、ルカ様ノオ帰リヲズット待チワビテオリマシタゾ」


コキュートスの体からは、氷が気化した時のような冷気特有の涼やかな香りがした。


「ありがとう。んんーコキュートスの体ひんやりして気持ちいいー」


「喜ンデモラエテ光栄ノ極ミデス」


「ね、コキュートス。昔みたいに抱っこして」


「ハッハッハ!喜ンデ」


そう言うとコキュートスは腰を屈めた。四本のうち上腕二本の腕でルカの背中と両足を優しく支えて上に持ち上げ、軽々と抱きかかえた。ルカは首に手を回して、コキュートスの左頬に頬ずりした。


「んんースベスベ、ひんやり。元気だったコキュートス?」


「モチロンデゴザイマス。ルカ様モアレカラオ変ワリナク?」


「私?私はなーんにも変わってないよ。毎日実験の繰り返しだったからね」


「左様デゴザイマスカ。ナラバ結構、結構!」


(ハッハッハ!)という笑いと共に、コキュートスはまるで子供をあやすかのようにルカの体を軽く揺さぶり、嬉しそうにしていた。


そこへ、アインズの後ろから2メートルを超える巨躯の影がユラリと姿を現し、コキュートスの前に立った。それを見てコキュートスの動きが止まる。


鬼神のようにゴツゴツとした四角く青白い顔に、角ばった大きい鼻、長く太い眉、その奥に潜む落ち窪んだ赤く鋭い眼光。目の下に彫られた幾何学模様のタトゥーは、血が乾いた痕のような紅殻色をしている。厚い唇を真一文字に結び無表情であるにも関わらず、それだけで殺気が籠っているような近寄りがたいオーラを放っていた。そしてマント越しでも全身が筋骨隆々と分かる程の屈強な体格、それを象徴するかのような背中に吊るされた凶悪な大剣。その姿はまさに戦う為に生まれてきたような男だった。


コキュートスは腰を屈めて抱きかかえていたルカをゆっくりと地面に降ろし、二人は火花が散るかのようにお互い睨み合った。


「...常闇の竜王ディープダークネスドラゴンロードとの一戦以来だから、2年ぶりか?コキュートス」


「...ソウダナ。オ前モ変ワリナイヨウデ安心シタゾ、ライル・センチネル」


「少しは鍛えたのか?」


「...ワタシガ鍛錬ヲ怠ルヨウニ見エルカ?」


「フッ、愚問だったか」


「...オ前モ以前トハ雰囲気ガ違ウナ。...何ヲシタ?」


「何、体術というものを学んでな。ルカ様に一から鍛え直してもらったまでよ」


「ホウ、ルカ様直々ニ...。ソノ力、今ココデ試シテミルカ?」


(ズン!)とコキュートスが一歩前に踏み出た。二人の間に殺気が迸る。しかしライルは首を横に振った。


「いや、やめておこう。今回私達は魔導国の大使としての任を受け、この世界に戻ったのだ。いわばお前も同志であり、護るべき対象だ。違うか?」


それを聞いて、コキュートスの体から瞬時に殺気が消え失せた。


「...オ前ガ私ヲ護ルダト? ...フフ、悪イ話デハナイ。ナラバ私モ誓オウ。オ前ノ背後ニハ誰モ立タセナイト」


「忘れるな、全てはここにいるアインズ様とルカ様をお守りするためだ」


「当然心得テイル、我ガ戦友ヨ」


コキュートスとライルは歩み寄り、ガシ!とお互いの右手を掴んだ。不敵な笑みを浮かべてライルはアインズの後方へ下がると、スラリとした華奢な影がアインズの背後から姿を現し、前に進み出た。コキュートスも颯爽と前に進み出て、華奢な影と目線を合わせるためにその場で片膝をついた。


「ミキ殿、ヨクゾコノ地ニオイデクダサッタ。ソノ節ハ大変世話ニナッタ」


「フフ、いいんですよコキュートス。あなた達もルカ様の為に戦ってくれたのですから、お互い様です」


コキュートスは真正面からミキの顔を見据え、その菩薩のように整った美しい顔立ちを眺めて、ホウと溜め息をついていた。小顔ながら切れ長の大きな目と細く長い眉、目の下に彫られた紫色のタトゥー、透き通るように青白くきめ細かな肌に、スラリとした鋭角な高い鼻、薄い唇。長く艷やかな髪がはらりとフードの外に落ち、ふくよかな胸に垂れている。それがまた一層彼女の妖しい魅力を引き立てていた。同じ黒髪のせいか、ルカと二人で並ぶとまるで姉妹のように見える。ルカが快活な妹なら、ミキはそれを見守る大人の姉といった印象だ。じっと黙って見つめるコキュートスに向かい、小首を傾げて微笑を返した。


「どうしました?コキュートス」


「...イエソノ!ツイ見惚テシマイマシテ!大変失礼ヲシタ」


「まあ、お上手。コキュートス、今度もルカ様をよろしくお願いしますね」


ミキは嬉しそうに目を細め、コキュートスに右手を差し出した。コキュートスはその自分と比べて小さな手を優しく掴むと、ミキがゆっくりと力を込めて握り、コキュートスを引っ張り上げた。フワッとコキュートスの巨体が軽くなり、その力に任せてそのまま立ち上がった。この細腕の一体どこにこんな力があるのかとも思ったが、コキュートスは知っていた。外見には現れぬ、その秘めたる強さの真髄を。ミキの攻撃を受けて成す術なく崩れ去った、あの時の自分の姿を。


「承知!コノコキュートス、此度ノ大役ヲ使ワサレシ貴方達3人ヲオ守リスルコトヲココニ誓イマショウゾ!」


ブシュー!と白い冷気を吐き、コキュートスは握った手をそっと離した。それを受けて微笑み返し、ミキはアインズの横へと下がった。


辺りを見回すと、あり得ない状況を見たとばかりにポカンと口を開け、こちらを凝視している蜥蜴人リザードマン達の姿があった。アインズは首を振り、仕方なさそうに右手を上げて蜥蜴人リザードマン達に声をかけた。


「皆の者!邪魔をして済まなかった。さあ、立つがいい。そしてそれぞれの成すべきことをして欲しい」


広場中にアインズの声が響き渡った。それを命令と受け止めた蜥蜴人リザードマン達は次々と立ち上がり、荷物を抱えて普段の生活に戻っていった。


彼らが広場を往来する中、何故か未だ立ち上がらずにその場で両膝をつき、こちらを見据える蜥蜴人リザードマン達が数名いた。アインズはそれに気づき、一番手前に座る年老いた蜥蜴人リザードマンに近づいていく。しかしアインズが目の前に立っても、彼の目は遥か後方に釘付けとなっている。不思議に思ったアインズは、その蜥蜴人リザードマンに声をかけた。


「ん?どうした?私は立てと言ったのだ。跪く必要はない」


その言葉で我に返った蜥蜴人リザードマンは、慌ててアインズを見上げ返答した。


「...はっ!!申し訳ありません魔導王陛下。し、しかし...そこの、そこの旅のお方!こちらへ参られよ!」


その老人が真っ直ぐに見ていたのは、ルカ達3人だった。大きく手招きをし、こちらに来いと促している。後方で控えていたルカはそれに気づき、頭の後ろで組んでいた手を解いて彼に歩み寄った。それに合わせてミキ・ライルもあとに続く。


ルカは腰を屈めてフードを下げ、笑顔でその老人の顔をまじまじと見た。


「なーに?あたし達に何か用?」


「...その目、その格好...あんたもしかし...ゲホッゲホッ!!」


突然老いた蜥蜴人リザードマンは口を手で塞ぎ、背を曲げて苦しそうに咳き込み始めた。ルカは慌てて腰を屈め、老人の背中をゆっくりとさすった。


「ちょっと、おじいちゃん大丈夫?!」


「...はは、ありがとう旅のお方。よる年波には勝てんもんじゃて」


そう言って老人は体を起こしたが、離した手に血がこびり付いている。口の端にも吐血した血がこぼれていた。


「おじいちゃん...」


ルカはマントの裾で口についた血を拭ってあげた。


「...持病ですじゃ。この様子じゃと、わしもお迎えが近いのかもしれん。しかし最後に一目あんたに会えたんじゃ、わしに悔いはない...」


ルカはそれを聞いて溜め息をついた。


「...もう、それを先に言いなさいよ。いい?おじいちゃん。生きとしいけるものはいずれ土に帰る。でもね、そこには必ず原因があるの。生きることを簡単に諦めちゃいけない。少なくとも、私がこの場に来た以上、誰も見捨てたりはしない」


ルカは地面に両膝を付いて目を閉じ、年老いた蜥蜴人リザードマンの額と腹部に手を当てて、呪文を詠唱した。


体内の精査インターナルクローズインスペクション


そう唱えると、額と腹部に当てたルカの手に青い光が宿る。そしてその光が老人の体にも移り、全身を巡るように激しく光が交差し始めた。ルカの脳内に、彼の体のステータス情報が流れ込んでくる。やがてその中から1つ、異常を示す項目が現れた。ルカの脳裏に、視覚的な体内の状況が映し出される。


ルカはゆっくりと目を開けて、老人を見た。


「...肺を痛めているね。それに気泡の衰弱。そのせいで気道も炎症を起こしている。咳に血が混じるのはそのせいだ。そして致命的なのは、肺壁の変質だ。...癌、って分かる?おじいちゃん」


老いた蜥蜴人リザードマンは自分の体の異常を全て言い当てられ、呆気にとられていた。


「...い、いや、そのガンという言葉は知らないが、胸と喉が痛むのはお主の言うとおりじゃ」


「簡単には治らない病気の名前だよ。横になって、治してあげる」


「お、おお」


ルカは左手で老人の背中を支え、右手で額に手を当てて押し、されるがままに老人は地面に横になった。気がつくとその一部始終を見守っていた他の蜥蜴人リザードマン達が、周囲を取り囲んで息を呑み、凝視している。


ルカは彼の胸を押し包むように両手を当て、目を閉じた。


魔法三十最強トリプレットマキシマイズ最強位階上昇化ブーステッドマジック損傷の治癒トリートワウンズ


(ボッ!ボッ!)という音と共に、ルカの両手に青白い揺らめく炎が宿った。その炎が老人の体内にゆっくりと吸い込まれていく。やがて体の全身に激しい炎が広がり、眩い光を放ち始めた。その炎の中にいるルカは微動だにせず、一心に老人の胸を押さえ込んでいる。


その様子を見て周囲の蜥蜴人リザードマン達から悲鳴が上がった。それでもルカは一心に祈り続ける。(ゴオ!)という音を立てて青白い炎が一際激しい燃焼を見せるが、それはすぐに収束し、凝縮されるように炎が小さくなっていく。ルカはゆっくりと目を開け、老人の胸から両手を離した。目の前には、圧縮されて黒く変色した小さい炎が浮いている。ルカは笑顔でその炎を右掌で受け止め口を近づけると、(フッ!)とその炎を吹き消した。


「終わったよおじいちゃん。ゆっくり深呼吸してみて」


老いた蜥蜴人リザードマンは目をぱちくりさせながら上体を起こし、言われるがままに空気を肺に満たした。そして吐き出し、痛んでいた左胸をさすっているが、別段異常はない様子だ。


「どう?まだどこか痛む?」


「...い、いや、治って...しまったようじゃ」


「良かった。さあ、立って」


ルカは立ち上がると、老人の手を取ってゆっくりと引っ張り上げた。心なしか老いた蜥蜴人リザードマンの全身に血色がみなぎり、鱗にも艶が戻ったように見える。老人はルカの手を取り、溢れた涙を隠そうともしなかった。


「あ...ありがとう旅のお方。昔と同じじゃ。やはりあんたじゃった...」


そう言って嗚咽を堪える老いた蜥蜴人リザードマンを、ルカは不思議そうに覗き込んだ。


「ねえ、さっきから言ってるその”旅のお方”って、何なの?」


そう言うと、両膝をつきながら後方で見ていた一人の蜥蜴人リザードマンがよろけるように立ち上がった。


「...う、嘘だろおい...あの時のまんまじゃねえか...」


その蜥蜴人リザードマンは目を見開き、体の力が抜けたようにフラフラとこちらに歩いてくる。ルカはその蜥蜴人リザードマンに目を向けた。大きい。身長は2メートルを遥かに超え、全身に傷跡がある。筋肉で盛り上がった胸には、梵字のような焼印が押されている。そして一見して彼を特徴づけていたのは、左腕に比べて右腕が異常発達しており、筋肉で巨大に膨れ上がっている事だった。彼は目の前に立ち、目を見開きながらルカを見下ろすと、崩れるようにその場へ跪いた。


ルカは目の前に跪いた巨大な蜥蜴人リザードマンの顔を覗き込み、微笑を返した。


「...ん?だーれ君?」


「誰って...俺だよ。覚えてないのかよ、ルカ...お姉ちゃん」


その呼び方を聞いた途端、まるでフラッシュバックするように、ルカは過去の記憶が一気に呼び覚まされた。


「...え、うそ。....まさか、ゼンベル?」


「...そうだよ」


ルカは目を見開いて呆気に取られていた。後ろにいたミキとライルも驚いた様子で顔を見合わせる。ゼンベル・ググーは跪いたまま這いずるようにルカの前まで来ると、ルカの腰に手を回して抱き寄せ、子供のように胸元に顔を埋めて大粒の涙をこぼした。


「...何だよ...何だよ!!急に居なくなっちまってよお...たった一言、たった一言最後にお別れが言いたかったのに、それも言えずじまいだったじゃねえかよルカ姉ちゃん!!」


ルカはその悲痛な叫びを聞いて、ゼンベルの頭を抱きしめ、優しく頭を撫でた。


「...大きくなったね、ゼンベル。ごめんね、あの時はああするしかなかったの」


「ひでぇよ!俺、ルカ姉ちゃんみたいに強くなりたくてここまで生きてきたってのによお!」


「...ゼンベル!ルカ様ニ無礼ダゾ!」


コキュートスが歩み寄ってきたが、ルカは手を上げて制止し、首を横に振った。


「ありがとうコキュートス。私は大丈夫よ」


「何だ、お前たちは知り合いなのか?」


一部始終を見ていたアインズが隣に寄り添い、ルカに問いかけてきた。未だルカの胸で泣き崩れるゼンベルの頬を撫でながら、アインズに返答した。


「うん。昔ちょっと、いろいろあってね...」


ルカはゼンベルに目を落とし、子供をあやすように背中をトントン、と叩いた。


「ほう。面白そうな話だが、先にコキュートスの報告を聞こう。それで、何があったのだコキュートス?」


「ハイ、ココヨリ西の沼地ヲサラニ進ンダ森ノ奥ニ、奇妙ナ物ヲ見ツケタトイウ報告ガ蜥蜴人リザードマン達カラ入ッテオリマス」


「奇妙な物?具体的には何なのだ?」


「ソレガ、話ノ内容ガ的ヲ得ズ、ドウイッタモノカ詳シクハ分カッテオリマセン。タダ一ツ判明シテイルノハ、以前ニハソノ場所ニ何モナカッタトイウ点デ、証言ガ一致シテオリマス」


アインズは顎に手を当てて考え込んだ。


「誰かその何かを見た者はいないのか?」


「... それなら俺が見たぜ、陛下」


声のした方を見ると、ルカの胸元で泣き腫らしたゼンベルだった。落ち着きを取り戻した様子で立ち上がり、アインズに一礼した。


「どういうものだったか説明出来るか?」


「わからねえ... です。あんなもの俺は見たことがねえ。とにかくデカくて黒い石の塊だった。表面はスベスベしていて、何か文字のようなものが彫り込まれていたが、俺にゃあさっぱり意味が分からなかった。ただ間違いなく言えるのは、以前そこにそんな物は無かったって事です」


「ふむ...やはり行ってみるしかないか。早速そこへ向かいたいのだが、誰か案内を頼めるか?」


「魔導王陛下、お待ちを!」


アインズを止めたのは、先程ルカに治療を受けた年寄の蜥蜴人リザードマンだった。


「案内にはゼンベル族長がお供します。良いなゼンベル?」


「ああ、長老。元よりそのつもりだぜ俺は」


「うむ。ただ陛下、ここからですと彼の地までかなりの距離がございます。日も落ちて参りました事ですし、夜は大変危険なモンスターが彼の地に徘徊しております故、本日はこちらにお泊まり頂いて、明朝ご出発なされるのがよろしいかと具申致しますが」


「ふむ...」


アインズは空を見上げた。夕暮れ時に差し掛かり、空がほんのりと朱色に染まり始めている。それを見てアインズは長老に小さく頷き返した。


「いいだろう。お前たちがそれで良いというのなら、それで構わないぞ」


「おお...!畏まりました、それではすぐに床の準備と宴の用意をさせますので、今しばらくお待ちください。ゼンベル、皆に声をかけてくれるか?」


「へへ、喜んで。おいみんな、聞いてのとおりだ!今日は魔導王陛下がこちらにお泊まりなさるってよ!お前ら宴の準備だ。さあさあ、早速取り掛かってくれ!」


周りに集まっていた蜥蜴人リザードマン達がそれを聞いて、「おおー!」と嬉しそうに声を上げた。


「では陛下、ご案内致します。こちらへどうぞ」


「うむ」


アインズとコキュートス、そしてルカ達3人は長老の後に続いた。




───鋭き尻尾レイザーテールの集落 住居内 大集会所 18:30 PM



大広間の最奥部、アインズを上座に一人頂き、向かって左にコキュートス、右にフードを下げ、マントを脱いだルカが胡坐をかき、その隣にミキ、ライルが腰を下ろしていた。


コキュートスの隣には長老・ゼンベルが座り、そのさらに隣にはゼンベルと同じように胸に梵字のような焼印を押された逞しい蜥蜴人リザードマンが一人と、透き通るように真っ白な、アルビノ種と思われる女性らしき蜥蜴人リザードマンが足を崩して座っていた。彼女の懐には、小さな子供の蜥蜴人リザードマンが抱きかかえられている。そしてその手前にもズラリと族長格と思われる者たちが席に付き、皆酒を片手に思い思いに談笑していた。四角く囲む彼らの輪の中には、色とりどりの魚を主体とした料理と、スパイシーな香りがする何かの穀物を焼いたパンのようなものが、草で編んだ皿に盛られて並んでいる。また皆の座る下には、どこで手に入れたのか、シルクのように滑らかな分厚い座布団が敷かれていた。


「...んんーこの刺身美味しい!油が乗ってるね!」


ルカは自前の箸で肉厚の刺身ブロックをつまみ、舌鼓を打っていた。それを聞いたミキとライルも箸をつける。


「この集落で養殖している魚です。言われたとおり血抜きをして腸を抜き、水できれいに洗い流した切り身ですが、喜んでいただけたようで何よりです」


ゼンベルの左隣に座る蜥蜴人リザードマンが満足そうにルカに返答を返し、自らも素手で刺身をつまみ、口にほおりこむ。そして木の実の殻を半分に割った盃になみなみと注がれた酒で流し込んだ。


ルカもそれに合わせて盃を手に取り、ぐいっと呷る。


「かー!相変わらず効くねえこれ。久々にこのお酒飲んだよ」


「ルカ姉ちゃん、いける口だな。どんどん飲んでくれや」


「ありがとうゼンベル」


向かいに座るゼンベルが酒瓶を手に取り、ルカの盃に注ぎ込んだ。


「ホッホッホ、あなた達が守った味です。ささ、お連れの方も一献いかがですかな?」


「ああいえ、私は結構ですわ。ありがとう」


「ふむ、それでは俺はいただこう」


ミキが丁重に断り、代わりにライルが酒を注がれる。そこへ何かが焼けるような香ばしい匂いが部屋の中を漂ってきた。ルカの背後から料理が運ばれてくる。そしてルカ達3人の前に、身の開かれた大振りな焼き魚が並べられた。運んできた赤みがかった鱗を持つ女性の蜥蜴人リザードマンが、ルカ達の背後で何故かそわそわしている。


「うひょー、うまそー!」


「あ、あの...言われたとおり弱火でじっくり焼いてみたんですが、味の方はどうなっているかその、自信がなくて」


「大丈夫、焼き加減バッチリじゃん!ここに軽く塩を振ってと...んーフワフワ!おいしいよ、食べてごらん!」


「え?!わ、私がですか?」


「大丈夫だって絶対美味しいから。はい、あーん」


ルカは箸でひと切れ掴むと、女性の口の中へ焼き魚の身を運んだ。パクっと食べて咀嚼し、目をつぶって味を確認している様子だったが、ゴクリと飲み込むと目を開き、口元に手を当てて頬を紅潮させた。


「お、おいしい...かも」


「でしょー?」


その途端、『ワッハッハ!』と部屋中の蜥蜴人リザードマン達が一斉に笑った。


「ここらで焼いた魚を食ったメスなんて、お前が初めてじゃないかリーシャ?」


「リーシャが美味いと言うんだ、食べてみようじゃないか。俺達の分も焼いてくれないか?」


「ええ?!そ、その、別に構わないけど...」


そのメス、リーシャ・キシュリーは今まで浴びた事がないほどの注目を集めた。集落内ではその赤い体から皆に知られているが、地味な性格もあって活発という訳でもなく、これと言って目立ったところもなく慎ましく暮らしていた。それが集会所で準備をしていた際、たまたま中にいたルカに声をかけられ、料理の注文を受けた事が全てのきっかけだった。


「リーシャっていうんだね。きれいな名前だ。どうする?みんなもこう言ってるし、焼いてくる?」


「は、はい!その、ルカ様...ありがとうございます!」


「そんな、私はお礼を言われるような事はしてないよ」


「いいえ、そんな事はありません!そ、それでは魚を焼いてきますので、失礼致します!」


リーシャは腰からくの字に折れるようにお辞儀をすると、集会所の出口へと小走りに立ち去った。ルカが小首を傾げながら席に座ると、その様子を見ていたゼンベルが酒を片手に話しかけてきた。


「ルカ姉ちゃん、あいつはリーシャ・キシュリーってんだ。緑爪グリーンクロウ族の出身でな。性格は良いやつで、アルビノ種に次ぐ珍しさを持つ赤い鱗を持ってるから、一応人気者ではあるんだが、あの引っ込み思案な性格が災いしてな。なかなか嫁の貰い手も付かず、一人で地味に暮らしてるのよ」


「そうなんだ」


「ああ。それにしてもあいつに料理の才能があるとは驚いたな。そう言えば俺が昔行ったドワーフの国でも、肉や魚を確かに焼いて食ってたな。姉ちゃん、それ美味いのか?」


「食べて見れば分かるよ。はいゼンベル、あーん」


「あーん」


言われるがままにゼンベルは口を開き、ルカは大きく摘んだ焼き魚の身をゼンベルの口に運んだ。ゼンベルはそれを咀嚼して味を確かめている。


「うーん...うん?うん」


「美味しいでしょ?」


ゴクリと飲み込み、舌を一舐めしてゼンベルは頷いた。


「なるほど。今まで生しか食ったことがなかったが、こりゃ美味いな。下の上でほぐれて、脂身がジュワッと滲み出てくる。香ばしくて、生とはまた違った味わいがあるな」


「フフ。初めてにしてこの焼き加減はすごいよ。普通焼きすぎて焦がしちゃったりするからね」


「あいつはそういう見どころがあると思ってたよ」


「可愛いじゃないあの子。ゼンベル貰ってあげたら?」


「いっ、いや俺は特にそういうのはねぇんだ。修行に明け暮れて、気がついたらこの年になっちまってたしな」


「早くしないと、誰かに取られちゃうよ?」


ルカは頬杖をつき、妖しく薄笑いを浮かべてゼンベルに問いかけた。


「だから!...勘弁してくれ、俺はほんとにそう言うのはねえんだって」


「じゃあ、誰ならいいの?」


「そっ!それは、その、だな...」


ゼンベルは目を下に落とした。


「...もしかして、あたし?」


そう言われた途端、ゼンベルは顔を真っ赤に紅潮させた。


「いっ...いや!その、あくまでその、理想という話であって...だな」


ゼンベルは身振り手振りを使って誤魔化すように説明したが、ルカはそれを聞いてクスクスと笑い、頬杖をやめて優しい笑顔を向けた。


「だめよゼンベル。私にとってあなたはまだまだ子供。それに理想が高いのはいいけど、私が欲しかったらねー...」


そう言うとルカはユラッと立ち上がり、上座に座るアインズの肩にもたれかかった。


「この人くらいかー...」


そして再度ルカは立ち上がり、ゼンベルの隣に座るコキュートスの肩に寄りかかった。


「この人と同じくらい強くなきゃダメ。君にそれができる?」


「...そ、それはさすがに無理かも、ルカ姉ちゃん..」


それを聞いて周りから笑いが起こった。ルカはコキュートスに抱きつきながら、奥に座る族長たちに微笑み返した。


アインズは蜥蜴人リザードマン達と打ち解け合うルカを見て、眩しい視線を送っていた。彼女はこうして200年という長い歳月を過ごしてきたのだ。力で支配した自分には出来ない行動を、彼女は見せている──いや、見せてくれている。それも魔導国の為に。そして、この集落が豊かに暮らせている事を自分に分からせてくれている。恐らくコキュートスも同じような心境だろうと察しながら、アインズは気づかれないように、深い溜め息をついて小さく頷いた。


そこへ一人、よたよたとゼンベルの背後を歩きながら近寄ってくる小さな子供の蜥蜴人リザードマンがいた。身長は70センチもないほど小さく、灰色の鱗を持ち、手を前に掲げてルカを真っ直ぐに見ながら歩いてくる。ルカはそれに目を輝かせ、コキュートスの首から手を離してしゃがみ込んだ。


「きゃー可愛い!おいで!」


ルカが子供に向かって手を広げるが、その両親である二人が止めに入る。


「あっ、こらシャルース!」


「シャルース!だめよ戻ってきなさい!」


強い口調で止めに入るも、子供──シャルースの歩みは止まらない。ルカはそれを手を上げて制止した。


「大丈夫。私こう見えても子供の世話には自信あるのよ?」


「鬼さんこちら、手のなる方へ」という掛け声と共に(パン、パン)と軽く手を叩き、足元がまだ覚束ない子供を自分の方へ誘導する。そしてルカの膝にタッチすると、子供を勢いよく抱き上げて、胸元に手繰り寄せた。


「はいよくできましたー!おりこうさんでちゅねー」


ルカはその蜥蜴人リザードマンの子供を抱っこして、小さなほっぺにキスした。その子はルカの首にしがみつき、ひしっと体を密着させる。


「んーかわいー!この子名前は?シャルースでいいの?」


ルカは子供の背中をトントンしながら、地面に座る父親に尋ねた。


「は、はい。シャルース・シャシャと言います」


「そっか。シャルース?お姉ちゃんでちゅよー」


そう言われたシャルースは首から手を離し、無垢な瞳でルカの顔をまじまじと見た。ルカは笑顔で問いかける。


「シャルースは何才なのかなー?」


「んー、2」


子供は指でピースサインをしてルカに示した。そしてルカの柔らかい胸元をぽよんぽよんと手で押しながら、再度言葉を発した。


「マァマ?」


「アハハ、マァマじゃないよー。ママはあっちにいるよー。私はねぇね。ルカねぇねよ、言ってごらん?」


「んー...う...か。うかねぇね?」


「ル・カ。ルカねぇねよシャルース」


「ル...カ、ねぇね?」


「そう、いい子ねシャルース!よくできましたー」


その後ルカはシャルースを自分の席に連れ帰り、あっち向いてホイ等のじゃんけん遊びを教えてひとしきり楽しんだ。大人たちもその微笑ましい光景を眺めて、平和な時間が過ぎていった。そしてルカはシャルースを両親の元に返すべく抱きかかえたが、その途中で歩みを止め、上座に座るアインズの左隣へと両膝をついた。それを見て唯一両親たちが中腰になり固まっていたが、周りの族長達は何も起きまいと安心の目で見ていた。


「アインズ、シャルースよ。抱いてあげて」


「...え?!私がか?」


「そう。あなたが生かした命。そして、これから守っていくべき命よ」


ルカは優しく微笑みながらシャルースの両脇を持ち、アインズにそっと受け渡した。アインズはおっかなびっくりでシャルースを抱きかかえたが、その腕の中でシャルースは大人しくしており、アインズの顔をじっと見つめていた。


「シャルース?この人はねー、陛下っていうの。言ってごらん?」


「んー...へーか?」


「そうよ、いい子ね。ほら陛下、名前を呼んであげて?」


「あ、あー...んん。シャルース?」


「へーか。へーか」


そう言うと、シャルースはアインズの骨の顔にぺたぺたと小さな手を伸ばしてきた。柔らかな手の感触がアインズの心に響く。何の警戒心も抱いていない無垢な命。この両手に少し力を加えれば容易く砕け散る命。そんな黒い考えは、隣にいるルカの笑顔によって全て溶け落ちた。自分が護るべき命。それが今この手の中にあると。


「...ハッハッハ!小さくて可愛いな。大事に育てるが良いぞザリュース、そしてクルシュ・ルールーよ」


「...ハッ!ありがとうございます魔導王陛下」


それを聞き、アインズの膝下に座るシャルースをルカが抱き上げた。そして両親である二人の元へ連れていき、アルビノ種の母親にそっと受け渡した。ホッとした顔でシャルースを抱きかかえ直すと、母親はルカに頭を下げた。


「息子を構っていただき、ありがとうございますルカ様」


「いいのよ、同じ魔導国の仲間じゃない。クルシュ、でいいんだよね?」


「はい、以後お見知りおきを。それとあの、もしよろしければ、また息子と遊んでやってくださいますでしょうか?」


「もちろん!私は大歓迎よ」


シャルースに小さく手を振りバイバイをして、ルカは自分の席に戻った。


「ごめんねアインズ、私ばかり騒いじゃって。アインズも飲む?」


そう言うと右上方の空間に手を伸ばし、中から1本の立派な黒いシャンパンボトルとカクテルグラスを取り出してアインズに見せた。アンデッドでも飲めるエーテルメインの酒(カリカチュア)だ。


「うむ、では1杯いただこう」


それを聞くとルカはアインズの隣に両膝をつき、グラスを手渡して(ポン)とコルクの栓を抜いた。それを丁寧にグラスの中に注ぎ込んでいくと、たちまち辺りに桃にも似た果実の良い香りが染み渡った。(シュワー)という音を立ててピンク色の液体が気化し、カクテルグラスの上半分をエーテルの靄が覆っている。アインズがそれを一口飲むと、喉の辺りで気化し、その下にある肋骨にエーテルの靄がスゥッと溶け込んでいく。舌がないので味は感じないが、鼻に抜ける後味が非常に香り高く、しっかり酔えるというのもあり、アインズはこの酒を気に入っていた。ぐいっとカクテルグラスを仰ぐと、隣に座っているルカがニコニコしながら酒を注いでくれた。それを受けながら、ふと思い出したようにコキュートスの隣に座る老人に声をかけた。


「ところで長老...で良いのか?ゼンベルもだが、お前達はこのルカの事を知っている様子だったな。どんな経緯で知り合ったのだ?」


「これは名乗りもせず大変失礼を致しました陛下。私はヴァシュパ・イニと申します。このゼンベルに譲る前に、竜牙ドラゴンタスク族の族長を務めさせて頂いた者にございます。そこのルカ様とお連れのお二人とは、かれこれ数十年前にお会いし、我らの土地を救っていただいた大恩がございまして」


「陛下、俺なんかこのルカ姉ちゃんがいなかったら、もう二度は死んでるんだぜ」


「ほう。そうなのかルカよ?」


ルカは微笑したまま目を伏せ、自分の席にあった座布団をアインズの隣に引き寄せて座り、盃に入った酒をぐいっと飲んで返答した。


「...また懐かしい話だね。それに私は別に、大したことはしてないよ」


「あなたが来なければ、このゼンベルはおろか、竜牙ドラゴンタスク族は確実に滅んでいた。そのあなたが今こうして、魔導王陛下と一緒に我々蜥蜴人リザードマン達の前へ姿を現した事には、きっと何か意味があるはずなんじゃ」


熱っぽく語る老いた蜥蜴人リザードマンを見て、アインズは左手を顎に添えた。


「ふむ、面白そうな話だ。ヴァシュパと言ったな、良ければその詳しい話を私にも聞かせてはもらえないだろうか?」


「...あー、それだったら俺が話すぜ陛下。何しろ事の最初から最後までを全部見届けたのは、俺一人しかいねえからな」


「ゼンベルか、良かろう。聞かせてくれ」


「ああ、陛下...」


ゼンベルは盃に入った酒を一気に飲み干し、天井を見上げた。



───27年前 湖南西・トブの大森林西部奥地 20:53 PM



甘かった。あまりにも考えが浅はかだった。そう自分を呪いながら、蜥蜴人リザードマンの少年はただひたすら全力で森の中を走った。絶望的な雷雨が降りしきる中、溢れてくる涙が恐怖から来るものなのか、それとも悔し涙なのかすらも判別がつかない。豪雨のせいで地面がぬかるみ、足が取られて思うように走る事もままならない。しかし背後には、少年を追って巨大な足音がすぐそこまで迫って来ていた。もはや少年は体力を使い果たし、全身の筋肉が悲鳴を上げていたが、足を止めれば死ぬ。それだけは理解できていた。


と、そこへ───(バギャ!)という音と共に、少年の背後にあった大木が薙ぎ倒され、頭上を大きな何かが掠った。


「ひいっ!」


情けない悲鳴を上げて別方向に逃げ出すが、その追手は間髪入れずに少年の後を追ってくる。途中で松明を落とし、時折瞬く稲光だけが唯一頼れる光源だった。その暗い木の影を掻い潜り、1メートル程の小さな体を活かしてなるべく木々の密集した方へと体を滑り込ませるが、背後の追手はそれらの木々を薙ぎ倒しながら容赦なく迫ってくる。無我夢中で逃げ回り、元来た方向さえ完全に見失っていた。悪夢のような状況の中で、ついにその終わりの時が来る。


背後で巨大な武器が振り下ろされると、地面に叩きつけられた衝撃で少年の足が縺れ、太い木の根に足を引っ掛けて勢いよく倒れてしまった。体ごと地面に転がり、そのまま大木の幹に激突して少年が喘いでいると、背後からの追跡者が目の前で動きを止めた。その姿を確認し、少年は戦慄する。


身長は優に5メートルを超え、黄緑色の皮膚を持ち、筋骨隆々の下腕側面には骨が異常発達した鋭い鋸状の刃が並んでいる。腰蓑を付け、右手に巨大なウォーハンマーを装備し、頭部はボサボサの長い髪で覆われ、赤く充血した目と異様に垂れ下がった長い鼻は鬼のそれを思わせる、沼の巨人スワンプトロールだった。少年は木の幹へ背中を押し付けるように後ずさる動作をしたが、もはや逃げ場はない。全身がガタガタと震え、足腰にも力が入らず、それでも本能から何とか逃げようと頭を巡らせるが、もはやそれも叶わないと悟った蜥蜴人リザードマンの少年は頭を抱えて目を塞ぎ、蹲った。それを見た沼の巨人スワンプトロールはニタリと笑い、巨大な左手で少年を鷲掴みにしようと手を伸ばした、その時だった。


(ボン!)という音がした。次にドシャリと何かが地面に落ちる音。少年はガチガチと歯を鳴らしながら身を伏せて死を覚悟していたが、いくら待てども一向に何かが起きる気配がない。恐る恐る頭を上げて目を開けると、少年の目の前が暗い影に覆われていた。次いで右を見ると、何かに切断された巨大な腕だけが地面に落ち、血溜まりを作っている。それを見て少年は我に帰った。上体を起こすと、影だと思っていたのは目の前に立つ漆黒のマントを着た何者かが立ち塞がっているからだと気づいた。そして絶叫が木霊するが、それにも構わず前に立つ黒い影の冷静な声が響いた。


「...へー、沼の巨人スワンプトロールってこんな所にいるんだ。覚えとこ」


それは女性の声だった。何が起きているのか分からず少年はその黒い影を見上げていたが、次の瞬間、恐ろしい程の速さで黒い影は沼の巨人スワンプトロールに突進し、両手に持ったロングダガーを沼の巨人スワンプトロールの胴体目がけて一閃した。するとハンマーを振り上げていた巨人の動きが止まり、左肩から右腰にかけて胴体が真っ二つに寸断され、ズルリと斜めに滑り落ちる。残った下半身もガクッと地面に膝を付き、その場に崩れ落ちた。


あり得ない光景を見て少年は恐怖も忘れ呆気に取られていたが、その女性が事も無げに振り返り、武器を抜いたまま自分の方へ足を向けて来た時に、忘れていた恐怖が復活した。ふと気が付くと、少年の左右にもいつの間にか同じような恰好をした2人が立っており、こちらを伺っている。もしかしたら、次に殺されるのは自分の番かも知れないと恐れたからだ。しかしもはや少年は固まってしまい動けない。そして女性が少年の前に立ち、手に持ったロングダガーの血を払い(キン!)と素早く納刀すると、彼女は懐から小型の永続光コンティニュアルライトを取り出して少年を照らした。


「....リザードマンの子か。おい、大丈夫か坊主?喋れるか?」


その黒い影はガタガタと震える少年の目の前にしゃがみ込んだ。光が反射してその女性の顏が露わになる。黒い髪が前にかかっているが、フードの奥に赤く光る大きな目と、その下に刻まれた幾何学的な紋様の赤いタトゥーは、まるで血の涙を流しているようだった。少年は言葉を出そうと必死で声を絞り出した。


「あ....あ....その、うん....」


「そうか。運が良かったな坊主、怖がらなくていい。どこか怪我してる所はないか?」


そう言うとその女性は、少年の体の上から隅々に光を当てて調べた。やがて少年の足に光が当たると、そこで動きを止める。


「...足を酷く切ってるな、今治してやる」


女性は右足の脛に負った深い裂傷を挟み込むように両手を添えた。


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(ブゥン)という音を立てて女性の両手に青白い光の球体が宿り、その光が少年の足にも移る。するとみるみる裂傷が塞がり、その光は足を超えて少年の体全体を包み込んだ。ぬるま湯に浸かるような心地よい感覚を覚え、疲れ切っていた体までも嘘のように回復してしまった。


「よし。もう大丈夫だとは思うが、他に痛いところはあるか?」


「....え?あ、ううん、ない」


「そうか。立てるか?」


幼い少年は土砂降りの雨の中で座り込んだまま、目の前で起きた事が信じられずにいたが、自分は助かったのだという実感が少しずつ湧いてきた。その女性に促されて立とうとしたが、足に力が入らず滑って尻餅をついてしまった。


「...フフ、腰が抜けちまったか。仕方ねえな、よいしょっと!」


女性は少年の両脇を掴むと体を持ち上げて、軽々と抱きかかえた。


「こんな奥地から一人で帰らせる訳にはいかねえからな。家まで送ってやる」


「え?!で、でも、そんな」


「ん?それともここから一人で帰って、また沼の巨人スワンプトロールに追いかけられたいか?」


少年は大きく首を横に振った。


「なら決まりだな、とりあえずは東へ出よう。ミキ、ライル、足跡トラックはどうだ?」


「ハッ!ここから更に西に敵の反応が散在しておりますが、東側には大して敵はおりません」


「OK、じゃあとっとと行くか。蜥蜴人リザードマンの集落だから、お前の家は湖のある方角だろ?お前の種族は何だ?」


「うん、竜牙ドラゴンタスク族」


「...成程あそこか、分かった。ミキ、ライル、念のため周囲を警戒」


『了解』


そうして雷雨が降り注ぐ中、少年と黒い影3人は森の東へと向けて出発した。沼の巨人スワンプトロールから逃げていた時は必死で気づかなかったが、ずっと雨に打たれていたせいで少年の体は冷え切っており、思い出したようにガタガタと体が震えだしていた。


「どうした、寒いか?」


そう言うと女性は自分のマントの裾を掴み、蜥蜴人リザードマンの少年の体を包んで雨に濡れないようにした。言いようもない柔らかな良い香りと温もりに、少年の警戒心が幾分解けていく。女性の首に掴まりながら、少年は質問した。


「あ、あの、お姉ちゃん達は誰なの?」


「おね....ま、まあいいか。そうだな、俺達は言ってみれば冒険者ってとこだ」


「ぼうけんしゃ?」


「ああ。そう言えばまだ名前を聞いてなかったな、何て言うんだ?」


「えと、僕はゼンベル。ゼンベル・ググー。お姉ちゃんは?」


「そうかゼンベル。俺の名はルカ・ブレイズだ、よろしくな」


「うん。ルカお姉ちゃん、助けてくれてありがとう」


「な、何、いいって事よ!俺達もたまたま通りかかっただけだしな」


ゼンベルの子供らしい素直なお礼を聞いて、ルカは明らかに照れていた。足跡トラック上に高速で動く2つのシグナルを感知し、その動きから恐らく何者かが追われていると察知して駆けつけた事をルカは隠したままでいた。それを誤魔化すように、歩きながらルカはゼンベルに質問を返した。


「そういやゼンベル、何だってこんな時間にあんな奥地をウロウロしてたんだ?」


「うん、薬草を探しに来たんだ」


「薬草?誰か病気なのか?」


「僕のお母さんとおじいちゃんが病気なの。...ううん、それだけじゃない。他の友達のお父さんやお母さん達も、たくさん病気にかかってるんだ」


「...伝染病の類か。それで、その薬草は手に入ったのか?」


「ううん、だめだった。村の祭司様に薬草の色や形を聞いて探したんだけど、全然見つからなくて....」


「それであんな奥地まで入っていったって訳か」


「....うん」


「それにしても、何故一人で来たりしたんだ?危ないにも程があるぞ」


「違うよ、友達3人と一緒に来たんだ」


「その友達はどうした?」


「それが....みんな...みんな後ろから来たあの沼の巨人スワンプトロールに...食べられちゃって....僕、恐くて何も出来なくて....」


ゼンベルは包まれた黒いマントを握りしめた。目の前で食いちぎられていく友人の光景を思い浮かべて、歯を食いしばり嗚咽を堪えて悔し涙を流した。ルカはそれを見て、ゼンベルの頭を自分の胸元へ抱き寄せた。


「そうか、災難だったな。でももう大丈夫、安心していい」


「...お姉ちゃん、僕悔しい。誰も助けられなかった。僕もルカお姉ちゃんみたいに強くなって、あんな巨人やっつけられるようになりたい!」


「そうだな、でもまずは家に帰る事が先だ。きっとみんな心配してるよ?」


「...うん」


精神的な消耗からか、ゼンベルは泣き疲れてルカの腕の中で眠ってしまった。ルカ達はそのまま速足で森の出口まで辿り着き、待機させてあった漆黒の馬車に乗り込んだ。そして馬車の中にある座席にゼンベルを横にして、アイテムストレージから取り出した毛布をかけると、馬車は出発した。スヤスヤと眠るゼンベルを見て、ルカは慈愛に満ちた目を投げかけていた。それを見て隣に座っていたミキがクスクスと笑う。



「ルカ様は、子供には本当に甘いですわね」


「え?そ、そうかな、ハハ...。何というか、甥っ子と姪っ子を思い出しちまって。それに元々子供には好かれやすい質なんだよな俺」


「前に人間の子供を救った時にも同じことを仰ってましたね」


「あー、うん。何だろね」


「母性本能に目覚めてきたのではありませんか?」


「バッ...て、そ、そうなのかな?」


「ルカ様はもっと女性らしくした方が、私は好きですよ」


「そう...なのか?ミキに言われると何か複雑だな」


「フフ、良い傾向です」



そんな話を2人は続けながら、夜の闇を馬車は疾走した。




───竜牙ドラゴンタスク族の集落 23:11 PM



「ゼンベル?ゼンベル、着いたよ。起きて」


「ん、うーん...ルカお姉ちゃん、もう着いたの?」


「そうだよ、お姉ちゃんの馬車は特別製だからね」



目をこすりながらゼンベルは上体を起こすと、ルカはかけていた毛布をきれいに畳んでアイテムストレージの中に収めた。窓から外が騒がしいのが聞こえてくる。


「みんな待ってるみたいだから、ゼンベルが先に馬車から降りてもらってもいい?」


「うん、分かった」


馬車の扉を開けてゼンベルが姿を現すと、門の外で松明を掲げ待ち構えていた蜥蜴人リザードマン達から一斉にどよめきが上がった。それに続いてルカ、ミキも馬車から降りる。ライルは先に御者台から降りて、周囲を警戒していた。ゼンベルの姿を見て、恐らくは夫婦と思われる蜥蜴人リザードマン二人が慌てて前に出てきた。ゼンベルはそこに向かって走り寄っていく。



「ゼンベル!ああ、無事で良かった...」


「一体何処に行ってたんだゼンベル!」


「お父さんお母さん、ごめんね心配かけて。あのお姉ちゃん達が助けてくれたんだ!」


それを聞いて蜥蜴人リザードマン達の目が一斉にルカ達の方へ向くと、ルカは笑顔で右手を振りそれに答えた。一様に疑り深い目を投げかけていたが、両親達の前でゼンベルが事情を説明すると、あちこちからどよめきが上がった。


「あの沼の巨人スワンプトロールを?! 西の森に出る化物じゃないか」


「それもたった一撃で....」


「...ヤバいんじゃないかおい?」


皆がお礼を言ってよいものかどうか言葉に詰まっているところへ、一際体格のいい蜥蜴人リザードマンがルカ達の前に一歩踏み出てきた。


「旅人よ。ゼンベルを救ってもらい、心より感謝する。我々も子供たちを探そうと準備していたところだったのだ。しかしまさか西の森まで遠出しているとは....」


その蜥蜴人リザードマンは大きく首を振って項垂れた。


「子供だけで行かせちゃだめだよ。ゼンベル以外の子供達は残念だったけど...まあ、あそこは大人がいても危ないだろうからね。話はゼンベルから聞いたけど、ここの病気はそんなに酷いの?」


「その話を聞いたのか。...ああ、酷いなんてもんじゃない。流行り病だと皆が噂しているが、祭司でも歯が立たないほどの病気だそうだ。幸い俺にはまだ症状は現れていないが...」


「良ければ、わた....俺が診てみようか?何か助けになれるかもしれない」


「何、本当か?!」


「ああ。その代わりと言っちゃなんだけど、蜥蜴人リザードマン竜牙ドラゴンタスク族にしか伝わっていないような情報を分けてもらえると嬉しいな。もちろん無いなら無いでそれに越した事は無いけど」


「我々にしか伝わっていないような情報...か。それならいくつかある。お前達が絶対に秘密を守ってくれるというのなら、話してやってもいい」


「おお!話せるね。じゃあ早速病気の人を診せてもらってもいいかな?」



そこへ他の蜥蜴人リザードマン達から反対の声が上がる。


「ちょっと待ってくれ族長!身も知らぬ奴を中へ入れるなんて、危険すぎる!」


「そうだ!大体人間と関わってろくな目にあった試しがねえ!」


「族長だからって勝手は許さねえぞ!」



それを聞いた、族長と呼ばれる体格の良い蜥蜴人リザードマンの顏がみるみる歪んでいく。


「うるせえ!!お前ら少し黙ってろ!!このまま放っておいて竜牙ドラゴンタスク族が滅んでもいいってのか。お前らに祭司でも治せなかったあれが治せるってのか、ああ?!」


「そ、それは....」


あまりの迫力に皆が黙り込む。その様子を伺っていたゼンベルが族長の隣に駆け寄り、皆に向けて言った。


「みんな、族長の言う通りだよ!ここにいるルカお姉ちゃんは、祭司様みたいな魔法が使えるんだ!僕の酷い怪我を一瞬で治してくれたんだよ!」


「何?魔法を...」


「それならひょっとしたら....」


ゼンベルの言葉を聞いて、他のリザードマン達がざわめき始めた。それを受けて族長の意思は固まったように見えた。


「話は決まりだな、ゴタゴタして済まなかった。俺の名はヴァシュパ・イニ。ここで族長をやっている。あんた達の名前を聞かせてくれ」


「俺はルカ・ブレイズだ。こっちがミキ・バーレニ、こっちのデカいのがライル・センチネルだ。よろしくなヴァシュパ」


そうして喜ぶゼンベルに手を引かれ、ルカ達は集落の中へと入っていった。そして案内された先、一軒の広い高床式住居に足を踏み入れると、左奥の窓の傍、通気の良い場所に老人が麻の布団をかけられて横になっていた。そこには奇怪な紋様を白の染料で体に書き込んだ、蜥蜴人リザードマンの祭司と思われる老婆が側に控えており、ゼンベルがそこに駆け寄っていくと、横になった老人に声をかけた。


「おじいちゃん、大丈夫?」


「お、おおゼンベルか。帰りが遅いので心配しておったぞ」


「心配かけてごめんね。この人が僕を助けてくれたんだよ!ルカお姉ちゃんお願い、おじいちゃんとお母さんの病気を診てあげてよ」


「分かった。おじいちゃん、どこがつらいか症状を教えてもらえる?」


「あんた、人間...なのか?」


「フフ、ちょっと違う。ほら、いいからどこがつらいか言ってみな」


「う、うむ。では済まんが、わしの布団を剥いでもらえるかの?」


そう言われてルカはゆっくりと老人にかけられた布団を下に下ろしたが、それを見てルカは目を見開き、絶句した。老人の体は、両掌と両足の末端から、まるで蝕むように石化し始めていたのだ。ルカは急いでレザーグローブを外し、老人の額に右手を当てて体温を測ったが、かなりの高熱を宿しているようで息が荒かった。ルカはそのまま左手を老人の腹部に置いて、魔法を詠唱した。


体内の精査インターナルクローズインスペクション


ルカの手を置いた箇所を中心に、老いた蜥蜴人リザードマンの全身に青く細い光が無数に交差し始め、脳裏にステータスのリストが流れ込んでくる。その中で異常を示すものが2つあった。一つは(感染)、もう一つは(呪詛)だった。それを見てルカは首を傾げた。感染の理由は想像がつくが、石化しているのであれば(石化)とそのまま表示されるはずが、これでは(呪詛)により石化している事になる。ユグドラシルでもそのような遅効性の石化など聞いた事がなかった。しかしまずは一つずつ確実に原因を潰していくため、再度魔法を詠唱した。


位階上昇化ブーステッドマジック病気の除去ディスペルディジーズ


ルカの手を中心に老人の体が緑色に発光し、荒かった老人の息がスウッと落ち着き、体温も下がった。次に石化した両手を握り、続けて魔法を詠唱する。


魔法最強化マキシマイズマジック石化ディスペルの除去ペトリファクション


(キィン!)という音を立てて老人の体が銀色に光り、石化に蝕まれた箇所がみるみる後退していく。それを後ろで見ていた祭司が驚嘆の声を上げていた。


「おおぉ!お主は何という....何という強大な力を秘めておるのじゃ」


「.....いや待って、おかしい。これを見て」


老人の体から銀色の光が消え去り、ルカは老人の左手を皆に見せた。一瞬見た限りでは完治しているように見えるが、手と足の指先第一関節辺りが未だ僅かに石化している状態だった。


「通常の石化であれば、どんな状態でもこの魔法で完治するはずなんだ。しかしこれを見ると、ただ緩和したに過ぎない」


「し、しかしこれで病の進行は防げたわけじゃろう?」


「...時間を置いてみなければ分からない。おばあちゃん、この病気が流行りだしたのっていつ頃からか分かる?」


「ん?うーむそうじゃな確か...一ヵ月程前からじゃと思ったが」


「じゃあそれ以前に、この村総出で石化を使うモンスターと戦ったりした?」


「そんな事はしとらん!第一そんな危険なモンスターはこの周辺にはおらんて」


「なら、同じような症状を持つ人は他にどのくらいいる?」


「この村の約半数といったところじゃな」


「.....感染が早すぎる。....ミキ、バッドステータスは呪詛だ、頼む」


「畏まりました」


ルカは横にずれて場所を開け、そこにミキが両膝をつき、老人の胸の中心に両手を当てて魔法を詠唱した。


魔法最強化マキシマイズマジック闇の追放バニッシュザダークネス


(ブン!)と音を立ててミキの体が青白く光り、老人の全身にもその光が移っていく。そして光が収束したところでルカは老人の手を見たが、指先が石化している状態は変わらなかった。


「バカな!闇の追放バニッシュザダークネスで解呪しない呪詛なんて...」


と、そこまで言いかけてルカは言葉を止めた。頭の片隅で何かが引っ掛かっていたが、ようやくその答えが見えてきた気がした。過去170年以上戦い抜いてきた記憶の中で、そこから取り出したパズルのピースが少しずつ組みあがろうとしていた。突然黙り込み、宙を見て上の空のルカを心配して老婆が声をかけた。


「お、お主、大丈夫か?」


「シッ!」


ルカは口に人差し指を当てて老婆を制止した。そしてゆっくりと部屋の周囲を見渡す。ゼンベル、その両親、ヴァシュパ、老婆、そして老人。このうち病を発症している者がゼンベルの母親と老人のみ。ルカは咄嗟に声をかけた。


「ゼンベル、こっちおいで」


「うん!」


ルカは足を崩し、ゼンベルを抱きかかえて膝の上に乗せた。


「どうしたの?」


「大丈夫、じっとしててね。体内の精査インターナルクローズインスペクション


ルカは左手でゼンベルの腹部を支えたまま額に右手を置き、魔法を詠唱した。ゼンベルの全身に青い光が幾重にも交差し、ルカの脳内にゼンベルのステータスが流れ込んでくる。その結果はルカの予想通り、全てにおいて異常が無かった。それを見てルカは更に部屋を詳細に見渡す。家の柱、天井、入口、水瓶、鮮魚、麻の布団、水桶。それを見てルカは質問した。


「ねえゼンベル、普段何食べてる?」


「うん?お魚だよ」


「そのお魚って、どこかで買ってきたの?」


「違うよ、お父さんが捕ってきた魚だよ。美味しいんだ」


「そっか。じゃあ、お水は何飲んでる?」


「何って?」


「例えば、湖の水とか」


「僕んちは井戸水しか飲まないよ。祭司様にそうしろって言われてるからね」


「という事は、湖の水を飲んでいる人達もいる訳だね?」


「うん、いると思うよ」


「じゃあ次に奥さん、あなたは発症してるが、同じ食生活なのかい?」


「え?ええ、主人が捕ってきた魚を食べていますが」


「では、湖の水に触れる機会は無い?」


「? いいえ、うちは水を使い分けているんです。飲み水は井戸から取って、洗い物をする時は湖から汲んできた水を使います」


「では次に旦那さん、あなたは見た所発症していないね。魚を捕る時はいつもどうしてる?」


「どう....と言われましても、普通に捕っていますが」


「その時、湖の水には手を触れるかい?」


「ええ、もちろん。そうしないと引き揚げられませんから」


「ゼンベルは、湖の水には手を触れない?」


「ううん、触るよ。お父さんの魚捕りを手伝う時もあるから」


「ヴァシュパ、あんたは今の話を聞いてどう思う?」


「どう、と言われてもな。俺もどちらかと言えば、ゼンベルに近い食生活だな」


「おばあちゃん、あんたはどうだい?」


「どうもこうも、わしは生まれてこの方井戸水主体の生活じゃわい」


「そうか。旦那さんとゼンベル、そしてヴァシュパとおばあちゃんは病気を発症していないのに、奥さんとおじいちゃんだけが発症している。この違いは何だ?」



そう言われて、全員が首を傾げた。しばらく待って返答がないので、ルカが切り出した。



「...つまり、場所が違うからだ」


ルカはゼンベルを膝から降ろして中空に手を伸ばし、アイテムストレージから羊皮紙のスクロールを取り出すと、床に広げた。そこには、ルカ達自身が歩んできた寸分違わぬ正確なマップが表示されており、ルカ達の現在地点が赤く明滅を繰り返していた。


「俺達の今いる場所がここ。そこから北に広がる瓢箪型のエリアが湖だ。旦那さん、あなたはいつもどの辺で狩りをしている?」


「...すごい、何て分かりやすい地図なんだ!....ああええとすいません、私はいつも、この湖の東から北に上る手前の、この辺で狩りをしています」


父親が指さしたところへルカが操作し、マーカーをつけた。


「次に奥さん、あなたはどの辺で湖の水を汲んでいる?」


「ええ、この地図ですとそうですね....ここから少し西寄りにある入り江で汲んでいますから、大体この辺になると思います」


「つまり、ここから北北西だね」


ルカは母親が指差したところにもマーカーを点灯させた。


「さて、最後の質問だ。おじいちゃん、あなたは湖の水、特に汲んできた水に触れる機会が多かったんじゃないか?」


「お、おおそうじゃ。わしは井戸水よりも自然の恵みである湖の水が好きでな。病に臥せってからもよく飲んでおったわい」


「...ひょっとして、その水桶に入っている水も湖から汲んできたものかい?」


ルカが鋭く水桶を睨むと、母親がおどおどしながら返答した。


「え、ええ、その通りです」


「なるほどね。毒素の看破ディテクトトキシン


ルカが水桶に手をかざして魔法を唱えると、水面が淡く濃い緑色に発光した。ルカの脳内に、(石化毒)という表示が過ぎる。片や(呪詛)、片や(石化毒)。この矛盾する状況に、ルカは過去遭遇した経験があった。ほぼ確信に近い答えを得られたルカは立ち上がり、周囲の者達に指示した。


「ヴァシュパ、旦那さん、ゼンベル、急いで他の動ける蜥蜴人リザードマン達全員を一か所に集めるんだ。奥さんもそこに合流してね。ミキ、ライル、彼らを手伝ってやってくれ。それとおばあちゃん、俺をその井戸に案内してほしい。今の説を検証したい」


「わ、分かった!」


「頼んだよ」



そしてルカは祭司の老婆に案内された井戸に着くと、ロープを伝って水面ギリギリまで降り毒素の看破ディテクトトキシンを唱えたが、推測通り全く異常はなかった。井戸から上がると、リザードマン達が松明を持って村の中央広場に集まっていた。ルカは先頭に立つヴァシュパの隣に立つと、大きい声で皆に呼びかけた。


「みんな、集まってくれてありがとう!病気の正体が分かった、それは北の湖にある入り江付近の水だ!いいか、その水と最近そこで捕れた魚は今すぐに捨ててくれ!念のため、入り江以外の場所で汲んだ湖の水も全て一か所にまとめて捨てるんだ!あと捨てる際、手に触れないように気をつけろ!俺がいいと言うまでは、全員井戸水だけを使用する事!それが終わったら、症状が酷い者から順に家を回って俺が応急処置を行う!夜更けに済まないが、早速取りかかってくれ!」


そこまで言い終わるが、蜥蜴人リザードマン達はそれを聞いてざわつき、すぐに動こうとはしなかった。それを見かねた老婆の祭司が声を張り上げ、叱責するように皆へ呼びかけた。


「この者の言っている事は本当じゃ!!このルカという娘は、わしよりも強大な魔法を行使できる!病人の巡回にはわしも立ち会うから、何も心配は要らん!さあ皆の者、急いでこの者の言う通りにするのじゃ!」


竜牙ドラゴンタスク族一の祭司が発した言葉を受けて、蜥蜴人リザードマン達はようやく信じる気になった様子だった。皆慌てて自分の家に帰り、集落の外にある離れた場所へ水瓶と魚を運び始めた。その指揮はヴァシュパに任せ、ルカと祭司、ゼンベルは石化や感染の症状が特に酷い者達から順に家を周り、一通り全ての家の応急処置が完了した。


これにはさすがのルカも疲労を隠せず、ゼンベルの家に入るとマントを脱ぎ、倒れ込むように横になった。一緒に全ての家を回ったゼンベルは、目をキラキラさせながらルカを見ている。そこへヴァシュパが大きめの水瓶を持ってゼンベルの家に入ってきた。


「お疲れさん。助かったぞルカよ」


「いやー参った...あの人数相手に魔法使いまくったからな」


「どうだ、一杯やらないか?疲れが取れるぞ」


「おっ!いいねえ、是非いただくよ」


ルカは飛び跳ねるように笑顔で起き上がると、木の実の殻を半分に割った盃を受け取り酒を注いでもらった。次いでヴァシュパ、ゼンベルの父親も酒を手に取り、皆で盃をぶつけた。


「はい、かんぱーい!」


ルカはそう言うと、盃の半分ほど酒を一気に流し込んだ。お世辞にも後味はそれほど良くも無いが、麦焼酎のような舌ざわりで、疲れ切ったルカの体には何よりのご褒美だった。


「かー、効くねえこの酒!」


「我々の秘宝で作った酒だ。遠慮せずにどんどんやってくれ」


「ほお、そいつはうれしいね。ライル、お前の好きそうな味だぞ。飲んでみろよ」


「....ヴァシュパ、俺も一杯いただこう」


「では私も少しだけ」


ライルとミキに言われて、ヴァシュパは彼らの盃にも酒を注いで再度乾杯した。そこへ一人うらやましそうにしていたゼンベルも混じってきた。


「族長、僕も飲むー」


「こーら、子供にはまだ早いぞ。ゼンベルはこっちね」


そう言うとルカは中空に手を伸ばし、アイテムストレージからオレンジ色の瓶と栓抜きを取り出した。(シュポッ)という音と共に栓を開けると、ゼンベルに手渡して栓抜きを中空に収めた。


「わー、ルカお姉ちゃん何これ?」


「飲んでみれば分かるよ。はい、ゼンベルもかんぱーい」


「かんぱーい!」


ルカのあぐらの上に座ったゼンベルは早速一口飲むと、目を輝かせながらルカを振り返った。


「あまーい!シュワシュワ!これ何て飲み物なの?」


「オレンジスカッシュってんだ。美味いだろ?」


「うん!」


時間は深夜2:00を回っていたが、ルカ達は酒を交わしつつ今後のミーティングを始めた。

ヴァシュパが進行役となり、口火を切る。


「それで、明日はどうする?」


「ああ、まずはその入り江に向かってみる。きっと何かあるはずだ」


「了解した。俺も同行させてもらおう」


「僕も行くー!」


ルカの上に座り、オレンジスカッシュを高々と掲げてゼンベルがアピールしたが、大きなため息を吐きながらヴァシュパが窘めるように言った。


「だめだゼンベル。お前は留守番だ」


「やだ!僕もお姉ちゃんと一緒に行く!」


「ゼンベルー?おじいちゃんみたいに手が石になってもいいのー?」


「水には触んないもん。それにルカお姉ちゃんがいるから大丈夫!」


「...フフ、生意気言っちゃって」


「ね?一緒についていっていいでしょ?」


「んー、どうしよっかなー?」


ルカは手に持った盃で八の字を描き、わざとらしく迷っている振りをした。


「お願い!僕も将来ルカお姉ちゃんみたいに強くなるために、お姉ちゃんが何をするのか見ておきたいんだ!」


「お、一丁前にそう来たか。...んー分かった。でもちゃんと離れて見てるんだよ?」


「ほんと?やったー!」


「ほらほら、あんまりはしゃぐとジュースこぼすよ!」


ルカは盃を床に置いてゼンベルの体を支えた。ミキとライル、そして両親とヴァシュパも苦笑しながら、その平和な光景を見つめていた。


そして皆が就寝し寝静まったころ、ゼンベルは一人眠れずにいた。目をつぶると脳裏に甦るあの凄惨な光景。子供にとってトラウマ確実の経験をしたゼンベルは、フラッシュバックするように何度もあの時の光景を思い起こし、再び恐怖で体が支配されそうになっていた。止むに止まれず起き上がり、気が付けば藁で編んだ枕を持って、少し離れた右隣に寝るルカの前に来ていた。起こさないようにそっとルカの隣に枕を置き、ゼンベルは横になった。(この人がいれば大丈夫)と何度も心の中で唱えてふとルカの顏を見ると、赤く光る眼がゼンベルを射抜いた。ルカは薄目を開けて微笑しながら、自分にかかっていた麻の掛け布団を半分ゼンベルの上に被せ、自分の枕元に抱き寄せた。


「ルカお姉ちゃん....」


「どうした、眠れないの?」


「うん。目をつぶると、あの時の事を思い出しちゃって...」


「昨日の今日だもんね。大丈夫、お姉ちゃんがいるでしょ?」


「うん...」


そう返事はしてみたが、怖くてたまらずにゼンベルは布団の中に潜り込み、ルカの胸に顔を埋めた。小刻みに震える体を抑えきれず、ルカの香りと温もりを感じて安心しようと必死だった。ルカはゼンベルの背中に手を回し、さすりながら耳元で囁いた。


「ゼンベル、お姉ちゃんが魔法かけてあげよっか?」


「魔法?」


「そう、怖くなくなる魔法。かけてほしい?」


「...うん。お願い」


ルカは大きく深呼吸し、ゼンベルを両手で優しく抱き締めて呪文を詠唱した。


「...魔法最強化マキシマイズマジック恐怖耐性プロテクションの強化エナジーフィアー


すると横になったルカを中心に緑色のオーラが立ち昇り、それが抱きしめたゼンベルの体にも瞬時に移る。友人の死が、沼の巨人スワンプトロールの影が、暗闇を逃げ惑う狂気が、幻影だったかのように溶け落ちていく。そして最後に残ったのは、まどろみだけだった。ゼンベルは布団から顔を出し、ルカの顏を見た。まるで母親のように優しく見つめるその表情を見て、ゼンベルは純粋に癒されていた。そしてこの人のようになりたいと強く願った。


「すごいやルカお姉ちゃん。何でもできちゃうんだね」


「フフ、そうでもないよ。もう寝れそう?」


「うん、ありがとう。寝れると思う」


ルカはゼンベルの額にキスをして、布団を掛けなおしてあげた。



「おやすみ、ゼンベル....」



───翌日 10:27 AM



ゼンベルが目を覚ますと、目の前には熟睡するルカの顏があった。余程疲れたのか、深い眠りに落ちている様子だ。起こさないよう静かに起き上がり、麻の布団をルカにかけなおすと、ゼンベルは家の外に出た。階下では集落の中に入れた馬車の前で、既に起床していたミキとライルが巨大な馬2頭の世話をしている。ゼンベルは階段を降り、二人に挨拶した。


「ミキお姉ちゃん、ライルお兄ちゃん、おはよう」


「あら、おはようゼンベル」


「おはよう。ルカ様は?」


「ううん、まだぐっすり寝てるよ」


「そうか。昨夜はお疲れだったからな、寝かせておいてやってくれ」


「うん。....ねえ、ライルお兄ちゃん」


「何だゼンベル?」


「その背中に背負ってる大きいのって、剣なの?」


「フフ、そうだ。興味あるのか?」


「うん!見せて!」


「いいだろう」



ライルはその巨大な剣を片手で軽々と抜き、ゆっくりと前に差し出すと、ゼンベルはあまりの迫力に圧倒された。剣と言うにはあまりに無骨。両刃の剣で、刃渡りは柄尻から切っ先まで入れて6尺程もあり、刃幅に至っては50センチを遥かに超えている、化物級に超肉厚の大剣だ。そしてそのような鉄板じみた外観にも関わらず剣として認識できるのは、その刀身を見れば明らかだった。柄から剣の腹まで全てが漆黒に染まっており、そしてその刃の部分だけが青く、暗く、怪しく光っている。剣の鍔は揺らめく黒い炎にも似た形をしており、その凶悪な外観を見てゼンベルは背筋に悪寒が走ると共に、開いた口が塞がらなかった。怪しい輝きに魅せられて剣の腹にゼンベルが手を触れようとした時、ライルが強く制止した。


「だめだ!触るな。...よく見てろ」


ライルは馬の飼葉桶から葉を一枚取り出し、大剣の刃の上でそっと手を離した。舞い落ちる葉が剣の刃に触れると、音も無く真っ二つに両断されて地面に落ちた。その大剣に似つかわしくない恐るべき切れ味を見て、ゼンベルの背筋に再度冷たいものが走った。


「すごい....凄すぎるよライルお兄ちゃん!これ、何て言う剣なの?」


「あまり詳しくは教えられないんだがな。名前くらいはいいだろう。この剣の名は、”ダストワールド”と言う。この世に2つとない、俺の相棒だ」


「ダストワールド...。ねえ、握ってみてもいい?」


「お前にこれは持てない。....手を添えるだけだぞ」


「うん!」


ゼンベルがライルの足元に来ると、ライルは剣を正眼に構えたまま、両腕の間にゼンベルを通すように片膝をついた。ライルが柄を握っている隙間に小さな手を添えると、意外な感触にゼンベルは驚いた。漆黒の柄の部分は非常に細かい砂の目状にザラついており、手に吸い付くような滑り止めの役割を果たしていた。その極太の柄はとてもゼンベルには握れないが、手を添えて刃の切っ先を見ていると、自分が握っているような錯覚に陥りゼンベルの胸は高鳴った。ライルの大きい懐の中、ひんやりとした金属の感触に浸っていると、遠くからゼンベルを呼ぶ声がした。その方向を見ると、集落の中央付近にある井戸からヴァシュパが手を振っていた。


「おーいゼンベル、こっち来て水汲み手伝ってくれ!」


それを聞いたライルは正眼の姿勢のまま立ち上がり、静かに剣を背中に収めた。


「今行くー!ありがとうライルお兄ちゃん!」


ライルはその言葉に無言でニヤリと笑い答えると、ゼンベルは井戸まで走っていった。その様子を見て、ミキが意外そうな顏をしながらライルに微笑んだ。


「優しいのね。あなたがその剣を他人に触らせるなんて、初めてじゃない?」


「....フン」


「可愛いわね、あのくらいの子供は」


「まあな」


ライルは巨大な黒馬・メキシウムの顏を撫でながら、井戸に走っていくゼンベルの小さな背中を見つめていた。


蜥蜴人リザードマン達が水瓶を持って列を作る中、ヴァシュパとゼンベルは井戸から桶を引っ張り上げ、それを水瓶に流し込むという配給作業を行っていた。ルカ達に少しでも良い印象を持ってもらおうというヴァシュパの思いからだったが、井戸の脇では老婆の祭司が控えており、「うんうん」と頷きながら嬉しそうにその様子を見守っていた。そして蜥蜴人リザードマン達全員分の配給が完了した頃には、日が真上に差し掛かっていた。井戸から汲んだ水を飲んでヴァシュパとゼンベルが一休みしていると、ゼンベルの家の入口から身支度を終えたルカが姿を現した。それを見たゼンベルは立ち上がり、嬉しそうに走り出した。階下まで降りたルカの前に着くと、ゼンベルはルカの腰に抱きついた。


「ルカお姉ちゃん!よく寝れた?」


「ああ、ありがとうゼンベル。よく眠れたよ」


後から続くように、ヴァシュパと祭司がルカの前に歩いてきた。


「おはようルカ。ゆっくり休めたか?」


「おはようヴァシュパ、遅くなって済まない。だがおかげでMPも全快したよ」


「MP?何だそれは?」


「あーえっと、つまり魔法を唱える為の精神力ってやつかな」


「ハハ、そうか。俺は戦士だからな、魔法の事にはとんと疎いんだ」


「...行くのか?ルカよ」


「うん、おばあちゃん。そっちの準備が出来次第向かおうと思う」


「お前なら心配ないとは思うが、十分気を付けていくのじゃぞ。妙な胸騒ぎがするのじゃ。わしは第二位階まで魔法を行使できるが、お主達はその遥か上を行く強大な魔法詠唱者マジックキャスターだという事が、昨日の治療を見てよーく分かった。あの沼の巨人スワンプトロールを一撃で仕留めたというのも、今なら納得できる話じゃ。だが詳しくは聞かぬ。わしらにとってお主たちは奇跡じゃ。だから無事に帰ってきてくれ。わしが願うのはただそれだけじゃ」


「ありがとう、大丈夫。乗りかかった舟だ、最後まで付き合うよ」


「感謝するぞ、ルカよ」


「さて、ヴァジュパ、ゼンベル。準備はいい?」


「俺ならいつでもいいぞ」


腰に差した2本のマチェットを握りしめ、ヴァシュパは返答した。


「僕も大丈夫!」


腰に巻いた布を締めなおして、ゼンベルも返事を返した。


「よし、二人共馬車に乗って。ミキ、御者を頼む」


「畏まりました」


こうして5人は一路、北の湖に向かって出発した。



───湖南端の入り江 13:34 PM



湖畔の手前で馬車を停止させ、ヴァシュパの案内で西寄りの入り江に辿り着いた。幅50メートル程の広い入江で、せり出た陸地部分には真っ白な砂が敷き詰められ、水面は太陽を反射してライトブルーに輝き、波も立たず透明度の高い湖だった。目を上に上げると、遠くに冠雪したアゼルリシア山脈が一望できる。このおよそ二十キロ四方の巨大な湖は、瓢箪を逆さにしたような形をしており、上の湖と下の湖に分かれていた。今いる入り江は、比較的水深の浅い下の湖の更に最南端となる。白い砂のかからない所までヴァシュパとゼンベルを後ろに下がらせ、ルカ達3人は入り江へと足を踏み入れた。ミキとライルが左右に展開し、入り江の両端にある石畳に上って周囲を警戒する。ルカは二人に向かって尋ねた。


足跡トラック?」


「クリア」


「こちらもクリア」


周囲2キロ四方に敵の反応はない。ルカは水辺ギリギリの位置で腰を下ろし、水面に手をかざして魔法を唱えた。


毒素の看破ディテクトトキシン


すると入り江一帯の浅瀬から沖に向かって、半径150メートル以上の広範囲に渡り水面が濃緑色に発光し始めた。脳裏に過ぎる毒の種別は、やはり(石化毒)。後ろで見ていたヴァシュパとゼンベルはその光景を見て、驚きのあまり目を見開いていた。ルカは立ち上がり、毒に汚染された範囲を詳細に見渡す。それを確認すると、ヴァシュパ達のいる方へ引き返し、真剣な表情で声をかけた。


「他にも毒で汚染されている水域があるかも知れない。念のためゼンベルの父親が漁をしていた東側のポイントまで、湖畔沿いに調べてみよう。一緒に来てくれ」


「わ、分かった!」


「ルカお姉ちゃん....かっこいい....」


目を輝かせながらルカを見つめるゼンベルの手を引き、5人は地図を確認しながら東へ移動した。200メートル置きに水辺を調査し、そうして約3キロ程歩いた所で目標の地点まで到着した。先程の入り江と異なり、ゴツゴツとした岩棚からすぐ下が水面となっている。底を見ると水深がかなりあるようで、1メートル程ある大きな魚影が複数確認出来た。このような漁のしにくい離れたポイントまで来ているのは、恐らく他の村人達との競合を避けるためなのだろうとルカは想像した。そして岩に体を預けるようにして下に手を伸ばし、水面に向かって魔法を詠唱したが、異常は見受けられなかった。


「ゼンベル、場所はここで間違いないね?」


「うん!いつもお父さんと来ている場所だよ」


「よし、さっきの入り江まで戻ろう。あの周辺だけが汚染されている」


ルカは左手首に巻かれた金属製バンドのプッシュボタンを押すと、青いイルミネートが表示された。時刻は15:00を回ろうとしている。5人は少し早足で湖畔を引き返し、最初の入り江まで戻ってきた。白い砂の上に立ち、ルカは再度魔法を唱える。


危機感知デンジャーセンス


するとルカの視界には、魔法有効範囲の50ユニットに渡り黄色く光る水面が映し出された。それを見て小さく頷くと、ルカは続けて魔法を唱えた。


飛行フライ


体が宙に浮きあがり、水上50cm程の低空をゆっくりと飛びながら、ルカは注意深く湖底を探っていった。外縁から渦巻き状に飛び、先程見た毒の汚染範囲と照らし合わせ、遠浅となっている一帯をくまなく調べていく。そして範囲が狭まり、汚染された水域の中心近くまで来ると、一際強く光る黄色い水面を発見した。そこに近づき、湖底を見たルカは溜息混じりに呟いた。


「やっぱりね...」


揺らめく水面の底に見えたのは、直径1.5メートル程の灰色に光る魔法陣だった。危機感知デンジャーセンスに反応するという事は、トラップ属性も併せ持つ魔法という事だ。ルカはすぐさま水面に手をかざし、再度魔法を詠唱した。


上位封印破壊グレーターブレイクシール


(パキィン!)という音を立てて、湖底にあった魔法陣が割れるように崩れると、ルカの視界を覆っていた異常を示す黄色い光が一斉に消え去った。


毒素の看破ディテクトトキシン


念には念を入れてもう一度調べたが反応は無く、そこには穏やかな青い水面が映るのみだった。それを確認し、ルカは入り江に向けて飛翔した。砂浜で待機していたミキとライルの元に降り立つと、ルカは後ろに控えていたヴァシュパとゼンベルに向かって大きく手招きした。


「何だ、どうしたルカ?」


「何か見つかったの?」


ルカはそれには答えずニヤリと笑い、レザーグローブを脱ぎ捨てて水辺の中に足を踏み入れた。そして足首まで水に浸かるとその場にしゃがみ込み、両手で水を掬い上げて口の中に含んだ。


「ル、ルカお姉ちゃん?!」


「おい?!一体何を....」


慌てるヴァシュパとゼンベルを他所に、ルカは味を確認するかのようにブクブクと口の中を濯ぎ、そのままゴクリと飲み込んだ。ペロリと唇を舐めて砂浜に戻り、地面に落ちたレザーグローブを拾い上げて装備しなおすと、呆気に取られる2人に笑顔を向けた。


「うん、冷たくておいしいねここの水。あのおじいちゃんが好きなのも頷けるよ」


「も、もう毒は無いのか?」


「大丈夫。毒の大元を消したから、飲んでもいいよ」


「やったー!」


それを聞いてゼンベルは水辺に駆け出し、腰まで浸かってはしゃぎまわった。その様子を皆笑顔で見守る。空にはほんのりと夕日が差し掛かっていた。


「ルカ、それではこの事を早速村にも伝えねば」


「...いいや、まだだ」


ルカは小さく首を横に振り、ヴァシュパに答えた。湖の水平線を真顔で見つめるルカの表情を不思議に思い、夕日の光を浴びて朱色に染まる横顏を覗き込んだ。


「...ヴァシュパ、忘れてない?水はきれいになったけど、村人達の病気はまだ治ってないんだよ?」


「そ、それは分かっている。しかしお前の魔法でも完治できないのであれば、もはや打つ手は....」


「違う。俺の消した毒の魔法陣を、この湖に仕掛けた奴がいる」


「何だと?一体誰だそいつは?」


「追々分かるさ。こちらが魔法陣を破壊したことを、術者である本人も気づいているはずだ。そいつを叩かない限り、この湖は再び毒で汚染されるだろう」


「...それで、どうするつもりだ?」


「今夜一晩ここで待とう。気付かれないように、少し離れた位置で入り江を監視する。あそこに見える馬車を止めてある辺りが丁度いいだろう」


「分かった。俺に何か手伝える事はあるか?」


「そうだな、じゃあ俺達と一緒に寝ずの番だ。俺、ミキ・ライル・ヴァシュパの4人で、2時間交代で監視しよう。万が一の時はゼンベルの安全を最優先しろ。いいな?」


「承知した、ルカ」


「ゼンベルー!ほらもう行くよー、上がっといでー!」


「はーい!」


気付かない内に随分と沖の方まで泳いでいったらしい。まるでワニのように滑らかな泳ぎでこちらへ戻ってきたが、水から上がるとゼンベルの右手には、自分の背丈ほどもある大振りの魚が握られていた。それを砂浜に引きずりながら、ルカとヴァシュパの前へ差し出してきた。


「へへー、すごいでしょ?」


「ゼンベルお前、それ素手で捕ってきたのか?!」


「素手じゃないよ、尻尾で叩いて気絶させたの」


「すごいじゃないゼンベル!食事はお姉ちゃんが用意しようと思ってたのに」


「ううん大丈夫。僕もお腹空いたし、このお魚みんなで食べようよ!」


「これは監視の前にまずは腹ごしらえだな、ルカ」


「了解。とりあえずはみんな馬車の所まで戻ろう」


500メートル程後方に止めてあった馬車に戻ると、ヴァシュパとゼンベルは魚をさばく為の大きな葉を何枚か集め、その上に魚を置いた。ルカはアイテムストレージから木製のまな板を取り出し、その上に調理器具と材料を並べて下ごしらえを始めた。ミキは馬2頭の飼葉と水を用意し、ライルは焚き火用の薪を森から切り出して調達してきた。ヴァシュパが魚の腹にマチェットを差し込んだところで、ゼンベルがルカに尋ねてきた。


「ルカお姉ちゃん達もお魚食べるでしょ?」


「あーいや、私達は生魚食べられないから、ヴァシュパとゼンベルで半分こにしていいよ」


「そう?美味しいのに」


「フフ、ありがと。でもお姉ちゃん達はこっちの肉を食べるから、大丈夫」


そう言うとルカは、まな板に置かれた巨大な肉のブロックを持ち上げた。


「それ何のお肉?」


「牛肉の霜降りサーロインよ。柔らかくておいしいの!」


「ふーん」


ルカは包丁で肉を7枚厚切りにし、その一枚一枚に塩胡椒を振って丁寧に指で伸ばしていく。それが終わるとジャガイモと玉ねぎ、ニンニクの皮を剥いてそれぞれの大きさにスライスした。焚き火の準備が終わりライルが魔法で火を付けた所で、ルカは中空に手を伸ばしてキャンプ用の折り畳み式テーブルに大き目のフライパン、皿を取り出した。そのフライパンを焚き火の上に乗せて温めた所で、ブロック肉から切り出した牛脂を投入して満遍なくフライパンに馴染ませる。そしてニンニクのスライスを入れて油に香りを付けた所で、厚切り肉を一気に3枚投入した。焦げないように揺すりながら、肉汁が表面に浮いてきた所でターナーを使い、3枚の肉を裏返した。絶妙な焼き加減である。


ここで更にアイテムストレージからワインボトルを取り出し、フライパンに一振りすると食欲をそそる香ばしい香りが辺り一面に広がった。その間ミキがテーブルの上に皿を並べ、焼き過ぎないように火が通った所で3枚の肉を1枚の皿に移した。その後はフライパンに残った旨味成分たっぷりの肉汁を使い、ジャガイモと玉ねぎのスライスを炒めて3枚の皿にそれぞれ付け合わせた。そうして残り4枚の肉も丁寧に焼き上げて、3人分の厚切りサーロインステーキが完成した。ルカ・ミキの分が2枚ずつ、体の大きいライルの分は3枚である。


ルカはキッチンペーパーでフライパンの油をきれいに拭き取り中空に収めると、その中からナイフとフォークに大きなパンを取り出し、ミキとライルに分けていった。そして調理用のワインを中空に戻し、飲食用の立派な赤ワインボトルとグラスを2個取り出して、そこになみなみと注いだ。ライルとヴァシュパの分の地獄酒とゼンベルのジュースも手渡して、ようやく食事の準備が整った。


「はい、ヴァシュパ、ゼンベルもお待たせ。それじゃ、いただきます!」


『いただきまーす!』


1メートルはある大振りの魚を2枚にさばき、それを更に食べやすいように3等分した生魚のブロックにヴァシュパとゼンベルは夢中で齧り付く。ブツリと噛み切っては口の中に鮮魚の旨味が広がり、ムシャムシャと実に美味そうに食べていた。


そしてミキとライルもステーキにナイフを通すと、音も無く厚切り肉がススッと切れていく。その一切れを口の中に運ぶと、ジュワッと肉汁が溢れ、噛むまでも無く舌の上でほぐれていくような柔らかさであった。肉本来の旨味が一切損なわれておらず、そこへワインとニンニクがアクセントとなった上質な油が混然一体となり、喉に滑り落ちていく。その度肝を抜く美味さにミキとライルは頬を紅潮させていた。付け合わせとパンの相性も抜群である。


「ああ、ルカ様....この味はもはや犯罪ですわ。幸せすぎて溶けてしまいそうです....」


「全くだミキ。前から思っていたが、ルカ様の手料理は黄金の輝き亭を遥かに凌駕しているぞ」


「フフ、ありがとう。この世界へ転移する前に、サブクラスでシェフマスタリーのルーンストーンを食べたからね。まあそうじゃなくても、リアルでは好きでよく料理作ってたから」


「こんなに美味しい料理を旅の最中に食べられるなんて、私達は本当に幸せ者です」


「全くだミキ!叶う事なら毎日でも食べたいくらいだ。しかしこれでルカ様がお嫁に行かれても、俺は後顧の憂い無し。将来の婿殿が羨ましい....」


「嫁って....嫁ってライル君!!」


そうして冗談も交え、笑顔の絶えない食事が進んだ。ミキとライルは遠出の際に毎回ルカの手料理を食べている訳だが、彼らにとって未だ不思議だったのは、一口食べる毎に体の奥底から力が湧き上がってくるような感覚に包まれる事だ。そして事実、ルカの作る手料理には強力なバフ効果が付与されていた。


全員の食事が終わり、ルカはいそいそと後片付けを済ませて焚き火に薪を加えた。4人とも炎に照らされて感無量といった表情で、まったりムードである。ルカはそれを見て自分の席に座り、赤ワインを一口飲んだ。


「みんなお腹いっぱいになった?」


「こんなに食ったのは久々だ。ゼンベルのおかげだな」


「僕もー入らない....」


「完全に満腹です、ルカ様」


「体が喜んでいますわ、ルカ様」


「よし、じゃあ夜まで少し休憩!」


ルカは笑顔で空を見上げると、青く美しいグラディエーションがかかり、遠くに見えるアゼルリシア山脈の上空には、薄っすらと星々が輝き始めていた。左腕の金属製リストバンドに目をやると、イルミネートランプは18:55を告げている。場所が美しい湖と森という自然に囲まれている事もあり、さながらキャンプファイヤーの様相を呈していた。周囲は静まりかえっており、ただ(パチパチ)という焚き火が燃える音だけが響く空間。5人共焚き火を見つめ、それぞれの思いに浸っていた。炎を見つめる事で孤独感に浸りながら、同時に仲間が周りにいるという安心感を味わう矛盾した感覚。炎の魔術だった。


やがてその黄昏に負けたのか、ゼンベルがルカの隣にやってきた。目がうつらうつらとしている。


「お姉ちゃん、眠い....」


「少し寝なさい。今日は一晩中ここにいるからね」


「うん」


そう言うとゼンベルは、足を崩したルカの太腿に頭を置いて横になった。


「フフ、全く。甘えん坊ね」


ルカはゼンベルの頬を撫で、腰に手を乗せてトン、トンと一定のリズムで叩いた。フードを降ろし、艶やかなフェアリーボブの黒髪が炎に照らされて、微笑しながらゼンベルに目を落とすその様はあまりに美しく、神々しさすら漂わせていた。それを見た向かいに座るヴァシュパがルカに質問した。


「ルカ、何故お前は俺達蜥蜴人リザードマンに優しく接する?」


「何故って、優しくされたらいや?」


「そんなことはない。しかしお前ほどの力を持つ者が、何故こんな辺境の地へ姿を現し、ゼンベルを救ったのか。それが気になってな」


「...成り行きだよ、特に意味は無い。俺達がトブの大森林を調査していた所へ、たまたまゼンベルがいた。この子が何者かに追われているのを俺達は魔法で察知した。だから助けた。そしてお前達竜牙ドラゴンタスク族の村へ送り届けて、今俺はここにいる。その目的は情報だ。この世界の謎を解くための鍵、それを俺達は探している。お前達がそれを持っているとは思わない。しかしそこに僅かなヒントが隠されているかもしれない。それを期待しているだけさ」


「なるほど、理由は分かった。しかしお前達の力を持ってすれば、こんな回りくどい事をせずとも力づくで情報を聞き出す事も可能なのではないか?何故それをしない?」


「殺してどうなる?そこであるべき情報が途絶えてしまう。脅してどうなる?その先にあるのは歪められた虚偽の真実だけだ。確かに俺達は、お前達のあの村をほんの10秒で灰に出来る。お前達の村だけじゃない。この世界に数多ある一つの国家そのものを一瞬で消し去る事も可能だ。しかしそんな事はしない。すれば自分達の首を絞めるだけだと知っているからな。行く先々の土地で信用と信頼を勝ち得てこそ、虚偽の無い真の情報が提供される。そうやって俺達は長い....本当に長い時間を旅してきた。もうかれこれ170年以上になる」


「170....年...。お前達3人は人間ではないのか?」


「違う。俺達はセフィロトという異形種だ。分かりやすく言えばアンデッドの上位種族だと思ってもらえればいい」


「アンデッド...それはスケルトンや伝説に聞くヴァンパイアと言った、あのアンデッドか?」


「そうだ」


「アンデッドは生者を憎むと聞く。お前達もそうなのか?」


「憎んでいるように見える?」


ルカはそれを聞いて可笑しくなり、目を見開いておどけるように微笑んだ。


「....フッ、アンデッドがそんな可愛い顔をするはずがないか」


「まあ、俺達の話はここらへんにしよう。少しは信じてもらえたかい?」


「誤解するな、俺は最初からお前達3人を信じている。ただ、事情が知りたかっただけだ」


「そうか。ヴァシュパも少し横になったらどうだ?その間は俺達が監視する」


「...そうだな、そうさせてもらおう。お前達が見張っていてくれるのなら安心だ」


ヴァシュパは腕を頭の後ろで組み、そのまま上体を倒して地面に寝そべった。ルカが目を上げた先には入り江が見えており、足跡トラックにも敵の反応はない。膝枕で横になるゼンベルの小さな寝息が耳に入り、ルカはその肩に手を乗せた。


───5時間後 1:37 AM


月明りの下、ミキは一人御者台に座り星空を眺めていた。背後にある森からは、風に揺られて葉擦れの音や獣たちの鳴く声が微かに聞こえてくる。ルカとライル、ヴァシュパとゼンベルは馬車の中で仮眠を取っていた。焚き火の火も落としてあるので、星々と月光がより鮮明に澄み渡り、フードを被ったミキの美しい顏を照らし出している。足を組んで背もたれに寄り掛かり、憂いに満ちた目で静寂の中に佇むその姿は、月の女神と呼ぶに相応しかった。


そこへ、背後から馬車の扉が開く音がした。ミキは組んだ足を降ろして左を向いたが、人影は見当たらない。しばらく様子を見ていると、御者台脇に付けられた梯子を誰かが上がってくる音がした。そして小さな蜥蜴人リザードマンが、ひょこっと頭だけを覗かせた。ミキはそれを見て微笑し、そっと背もたれに再度寄りかかった。


「ミキお姉ちゃん」


「ゼンベル、どうしたの?眠れないの?」


「ううん、もう沢山寝たから大丈夫」


「そう。こっちにいらっしゃい」


「うん、ありがとう」


ゼンベルは御者台に上り、ミキの左に腰かけた。


「見て、ゼンベル。空の星がきれいよ」


「ほんとだね。僕、外でこんな時間までいた事ないから、何かドキドキしちゃって」


「フフ、大丈夫。私達が守ってあげるから」


「うん」


ミキが左肩をそっと抱き寄せると、ゼンベルはそのままミキの体に寄り掛かった。柑橘系にハーブを織り交ぜたような、シプレベースで落ち着きのある大人の香りがゼンベルを包んだ。ルカとは違った温もりにゼンベルは軽くトリップ感を覚え、それに身を委ねるように目を閉じた。


「....ねえ、ミキお姉ちゃん」


「何?」


「お姉ちゃん達は、アンデッドなの?」


「....聞いていたのね、ルカ様の話を」


「うん....」


ミキはそれを聞いて、宥めるようにゼンベルの左肩をゆっくりと摩った。


「私達がアンデッドだったら、怖い?」


ゼンベルはふと心配になり、目を開いて上を見上げた。しかしそこには優しく微笑むミキがいる。


「怖くないよ、お姉ちゃん達優しいもん!」


「でもねゼンベル、この世界にいるアンデッド全てが、私達のように友好的とは限らない。その殆どが話の通じない、怖いアンデッドだと思っておいた方が良いわ。迂闊に近寄ったりしちゃだめよ?」


「う、うん、分かった...」


ゼンベルは俯き、地面につかない足を振って落ち着きなくパタパタさせた。


「なあに?まだ何か聞きたい事があるの?」


「うーんとその、ルカお姉ちゃんは女なのに、何で族長とか他の人と話す時だけ自分の事を”俺”って言うの?僕の前では言わないのに」


「....それはねゼンベル、ルカ様は遠い昔に色々あったの。でもゼンベルと出会えた事で、ルカ様は以前にも増してとても自然に振舞えているわ。そういう意味では、あなたには感謝しなくちゃね」


「んー、よく分からないけど、分かった。あまり深くは聞かないよ」


「ありがとうゼンベル」


その直後、ミキの脳裏にレッドアラートが鳴り響いた。敵数1、北西の方角約1.8キロ。その動きから恐らくは湖畔沿いに、何者かが高速でこちらへ接近してきている。ミキは背後を振り返り、馬車の中に続く窓を静かに開けた。


「ルカ様、ライル!」


「ああ、起きてるよ。やっとおいでなすったな」


「いかがいたしましょう、こちらから先制しますか?」


「まあ待て、今外に出る」


馬車の扉が開き、ルカとライルは音もなくユラリと地面に降り立った。それに続いてヴァシュパも飛び降りる。ミキに促され、慌てて御者台の梯子を下りるゼンベルの背後から、ルカは両脇を掴んで抱き上げ素早くヴァシュパの前に降ろした。ミキも御者台から飛び降りてルカの前に立つ。ヴァシュパは腰に差したマチェット2本を引き抜いて周囲を見渡し、ルカに尋ねた。


「どこだルカ?どこに敵がいる?!」


「ほーら慌てないのヴァシュパ。あそこ、暗いけど見える?。入り江の脇にある石畳に隠れてるけど、あの向こうからこちらに接近してきている。数は1」


「そ、そんな遠くの敵を察知出来るのか?」


「まあね。ヴァシュパはここでゼンベルを見ていてくれ。俺達3人で入り江に向かう」


「そういう訳には行かない!俺も戦士だ、お前達と共に戦う」


「ぼ、僕も!」


「だめだ。戦闘になる公算が高い、危険すぎる」


竜牙ドラゴンタスク族の族長として、俺はあの村を守る義務がある。お前達ばかりに頼りっきりでは、村を代表する者として申し訳が立たん!」


「....死ぬよ?」


無表情でヴァシュパを見つめるルカの体から、ユラリと黒いオーラが立ち昇った。その途端、氷の剣山で突き刺されたかのような感覚が全身を襲う。戦いに行くまでもなく、死は目の前にあった。初めて向けられたルカの凝縮された殺気にヴァシュパとゼンベルは凍り付いたが、二人とも歯を食いしばり、辛うじて必死に踏みとどまっていた。しかしそれを受けても尚、二人の目に宿る決意は固い。ルカはその様子を見て諦めたかのように首を横に振ると、溜息混じりに殺気を解いた。ヴァシュパとゼンベルは一気に体が弛緩し、乱れた息を整えようと喘ぐように肩で呼吸する。


「....仕方ない、見ているだけなら許そう。あの入り江の右にある大きな石畳、あそこの岩陰に身を隠していろ。但し絶対に声を出すな。一気に走るぞ、付いてこい」


そう言うとルカ達3人は入り江に向かって疾風の如く駆け出した。ヴァシュパとゼンベルもその後を追って走り出すが、恐るべき速度で移動するルカ達3人を前に、みるみる距離が開いていく。2人はそれを追いかけ500メートルを全力疾走して、息も絶え絶え岩場まで到着した。既に岩陰に身を隠していたルカ達は息一つ切らしていない。ヴァシュパとゼンベルの呼吸が整うのを待って、ルカは小声で話しかけた。


「これから奴さんがどう出てくるかを確認する。お前達2人は何があってもここから動くな。俺達3人だけで相手する、いいな?ヴァシュパ、ゼンベル」


「わかった」


「お姉ちゃん、気を付けてね」


ルカはゼンベルに笑顔で返すと、岩陰から立ち上がった。そして3人はお互いに距離を取り、口を揃えて同じ魔法を詠唱した。


部分空間干渉サブスペースインターフェアレンス


すると3人の横に空間の裂け目が口を開け、その等身大の暗黒空間がルカ達それぞれの体を包み込んでいく。そしてその裂け目がピタッと閉じると、影も形も気配さえも、完全に掻き消えてしまった。


「き、消えた....」


「そんな....ルカお姉ちゃん?!」


ゼンベルは唐突に不安になり周囲を見渡すが、そのどこにも3人の影はない。それならば正面と、ゼンベルは石畳を上り恐る恐る顔半分を出した。上空の月明りに照らされて、入り江の真っ白な砂浜がその光を反射し、全貌がはっきりと見て取れる。しかしその砂浜にもルカ達の姿は無い。ゼンベルに釣られてヴァシュパも石畳を上り、顏だけを出して入り江を見渡した。二人はこれから何が起きるのかという不安に駆られ、ゴクリと固唾を飲む。


その時だった。(ザザザザ!)という音を立てて、入り江を挟み向かい側にある石畳の上に、何者かの大きな影が姿を現した。2人はそれに気づき、咄嗟に頭を下げる。岩の陰に隠れて光が届かず、未だその全様が見えないが、ゼンベルは目を凝らしてその影を凝視した。ここから見ると人型に見えるが、それにしては不安定にユラユラと左右に揺れ、周囲を伺っている様子だ。やがてその影は石畳の先端まで移動し、何故か湖の沖を食い入るように見つめていた。そして....


「キィィィィイイイイイイヤアアアアアアアアアアアア!!!」


まるで高周波の超音波発生器を、出力最大で直に鼓膜に当てられているかのような、恐ろしい程の巨大な絶叫を上げた。その不快かつ耳障りな高周波はヴァシュパとゼンベルの思考を完全に停止させ、2人共それから逃れようと耳を塞いだ。しかし空気の振動がそれを許さず、手で塞いでいるにも関わらずそれを突き抜けて鼓膜をビリビリと震わせてくる。ゼンベルは歯を食いしばりながら音の発生源に目を向けた。その影は頭を掻きむしるような動作をしながら、湖の沖に向かって絶叫を上げ続けている。その衝撃波とも呼べる強烈な音波は岩場に反射し、ジェット機の爆音の如くうねるような位相の崩れフランジエフェクトを引き起こしていた。鼓膜の表と裏がひっくり返されるような不快極まりない感覚に耐えながら、ゼンベルとヴァシュパはその影を睨みつけていた。


その殺意と怒号に満ちた絶叫がようやく止み、石畳の上に立つ影は項垂れるように上体を下げた。怒りを全てぶちまけたのか、肩で呼吸しているようで息が荒い。そしてその影は背後を振り返り、石畳の上から滑り落ちるように、入り江の砂浜へと降り立った。月明りに照らされ、そこで初めてその者の姿が露わになる。ゼンベルは見た。上半身には金色に光るブレストプレートを装備し、腰の両脇には鈍く光るエスパーダを一本と、真っすぐ伸びた刀身が途中から半月状に曲がりくねった巨大なクノペシュを一本ぶら下げている。そしてその外見を凶悪と決定付けているのが、頭部と下半身だった。その者の髪の毛は全てが蛇で構成されており、本体の意思とは無関係に無数の蛇が体をうねらせている。下半身は見るからに強靭そうな筋肉質の蛇体で、頭部から尾の先を含めると7メートル強はあるかと思われる。先ほどの絶叫とその者の胸部の膨らみから、女性であると判別できた。蛇の毛髪に気を取られがちだが、顔立ちは非常に美しく、月の光を浴びて砂浜に静かに佇んでいた。あの耳障りな絶叫さえなければ、ヴァシュパとゼンベルには神々しく映っていたことだろう。


その者が首を横に振り、諦めたように入り江の湖水に体を沈め、遠浅の湖岸をゆるゆると進み始めた、その時だった。突如その蛇体の背後にルカ・ミキ・ライルが姿を現した。ゼンベルは瞬きをしていなかった。にも関わらず瞬間的にルカ達3人はパッ!と姿を現し、白い砂浜に立っていたのだ。隣で見ていたヴァシュパもその様子を見て、空いた口が塞がらずにいた。ルカはその場から微動だにせず、その蛇体に呼び掛けた。


「...よう、蛇髪人メデューサ


突如呼びかけられた蛇体は歩みを止め、体をくねらせて(シュルン!)と滑らかに背後へ体を向けた。湖水に長い下半身を浸しながら、威嚇するようにユラリと上半身を高く上げて左右に振り、ルカを見下ろした。


「....何だ貴様?わらわの背後を取るとは」


「そんな事はどうでもいい。ここで何をしている?」


「貴様が知る必要はない。たかが人間風情が」


「へえ、人間に見えるんだ?」


「....まさか...妾の呪詛を砕いたのは、貴様らだと言うのか?」


ルカはそれには答えず、ニヤリと笑みを返した。それを見て蛇髪人メデューサは警戒する。左右に控えているミキとライルはその場から動かず、しかしいつ襲い掛かってもおかしくないような緩い殺気を蛇髪人メデューサに当て続けていた。ルカは問い返す。


蜥蜴人リザードマン達を皆殺しにするつもりだったのか?」


「知れた事を。貴様には関係ない、即刻この場を立ち去るがよい」


「そういう訳にも行かないんだよな、蛇髪人メデューサ。あの村とは友好関係を築けたんでね。答えないのなら、その時はお前が死ぬだけだ。言え、何が目的だ?」


「.....妾を殺すとな?クク、大言壮語も甚だしい。あんなちっぽけな竜牙ドラゴンタスク族の為に、その命をむざむざ投げ出そうというのか。しかしまあ....面白い。良いだろう教えてやる。全ては竜牙ドラゴンタスク族に伝わる秘宝の為よ」


「秘宝だと?」


「何だ、貴様らもそれを狙って来たのではないのか? ”酒の大壺”。どれだけ飲み尽くしても無限に酒が湧いてくるという、伝説のアイテム。妾はそれを奪いに来たまでじゃ」


「へー、あの酒がそうだったのか。で?お前はそこまでして酒が飲みたいのか、蛇髪人メデューサ?」


「...妾は酒は嗜まぬ。我が主があの大壺を欲しているのでな。献上する為の品よ」


「その主ってのは誰だ?」


「貴様如きが知る必要はない」


「.....成程。リュラリュース・スペニア・アイ・インダルン。西の魔蛇とか呼ばれているあいつか」


「?! 貴様、何故それを.....」


「さあ、何でだろうね?当ててみなよ」


ルカの赤い瞳が爛々と輝き、ニタリと極悪な笑みを浮かべた。その射抜くような目を見た蛇髪人メデューサは何かに気付き、顏がみるみる戦慄に染まっていく。


「わ、妾の心を読んだな....ただの人間ではあるまい、何者だ貴様!!」


「そこまで気づいていながら、まだ分からないの?読心術マインドリーディングを使える奴が、ただの人間な訳がないだろう」


読心術マインドリーディングだと....?ま、 まさか貴様、ヴァンパイアか?!」


「惜しい!惜しいねー。でもまあ、当たりって事にしといてやるよ。ついでだ蛇髪人メデューサ、もう一つ質問に答えろ。リュラリュースの配下に、お前と同じ種族は他にいるか?」


「フン!あのお方に仕える蛇髪人メデューサは妾ただ一人。誉れ高き我が一族の力、下等ヴァンパイア如きが及ぶとでも思っているのか!」


蛇髪人メデューサは両脇に差したエスパーダと禍々しいクノペシュを素早く抜刀し、腰を落として切っ先をルカに向け、2本の剣を水平に身構えた。


「そこまで分かれば十分。さて、残念だ。お前との話、楽しかったよ。だが今日ここでお前は死ぬ。逃れたければ、最初から全力でかかってこい」


そう言うとルカも2本のロングダガーを抜き、両方を逆手に握り身構える。


「クク、切り刻む前に名を聞こうヴァンパイアよ。我が名はジネヴラ・パル・エウリュアレー」


「ルカ・ブレイズだ。名乗っても意味がないと思うがな」


「笑止!魔法上昇オーバーマジック毒の刃ポイズンブレード鎧強化リーンフォースアーマー下級敏捷力増大レッサーデクステリティ抵抗突破力上昇ペネトレートアップ


「毒Procか。ならこっちは...武器属性付与・炎アトリビュート・フレイムアームズ暗い不屈の精神ダークフォーティチュード器用さの祈りプレーヤーオブデクステリティ殺害者の焦点スレイヤーズフォーカス


両者の体が光に包まれ、バフをかけ終わる。10秒程睨み合いが続いたが、先に仕掛けたのはジネヴラだった。全身の筋肉を強張らせ、蛇体の下半身をバネのように弾き飛ばしてルカに突進する。5メートルはあった距離が一瞬で詰まるが、ルカは腰を落とし身構えたまま微動だにしない。ジネヴラは左上方へ体を捻り、ルカに剣を振り下ろした。


痛恨の刀傷ペインフルカット!」


全体重をかけ、その巨体に似合わぬ素早さで5連撃の武技を放つが、(ガギギギギィン!)という鋭い音と共に、ルカはロングダガーで全ての攻撃を受け止めた。首を傾げながらジネヴラを見つめるルカの体は、最初の位置から小揺るぎもしていない。


「どうしたジネヴラ、こんなものか?」



「おのれ小娘、生意気な!回転斬撃ホイーリングスラッシュ!!」


今度は体を高速で右に回転させ、逆袈裟にルカの腰から上を狙っての7連撃を放つが、それも真正面からルカは全て受け切ってしまった。ジネヴラは後方に飛び退いて距離を取り、ルカの左右に立つミキとライルを確認するが、直立不動のまま加勢する様子がない。見ると攻撃を受けたルカの右腕に、緑色の靄のようなエフェクトがかかっていた。それを見てジネヴラは歓喜する。


「クハハハ、妾の毒を食らったな!そのまま苦しみもがきながら死んでいくがいい!」


しかしルカは平然と右腕をさすりながら、ジネヴラを見据えて独り言のように口を開いた。


「...んー、低位のProcだとダメージはこんなものか。Proc発生確率は5%といったところだな。わざわざパッシブディフェンスを切ってまで攻撃を受けてたんだけど...もういいか、毒素の除去ディスペルトキシン


ルカの体が青白く光り、右腕の靄が瞬時に掻き消えた。それを見てジネヴラは唖然とする。


「早く奥の手出さないと、こっちから攻撃するよ?」


「ふ、ふざけた真似を....よかろう。そんなに死にたければ殺してやる。麻痺パラライズ!」


(ビシャア!)という音と共に、ルカの体を灰色のエフェクトが包む。そしてジネヴラは目を見開き、続けざまに魔法を詠唱した。


石化の視線ペトリファイ!」


ジネヴラの両目から、射角30度・10メートルほどに渡って扇状に光が放たれたが、次の瞬間ルカの姿がその場から掻き消えてしまった。慌てて周囲を見渡すと、石畳のある右後方にルカは立っていた。


「...バカな!麻痺パラライズを受けて一体どうやってそこまで動いた?!」


「俺達に麻痺スタンは効かない。残念だったな」


「...クク、しかし妾の石化は苦手と見える。魔法上昇オーバーマジック石化の視線ペトリファイ!」


ルカは回避ドッヂで左へ躱すが、光を連続照射しながらジネヴラは素早くルカの後を追ってくる。その光は先程よりも広範囲に渡り、ライルとミキは光の届く範囲外まで後方に飛び退いたが、それには目もくれずジネヴラはルカのみを執拗に追い回した。しかしルカの鉄壁の回避ドッヂの前にはかすりもせず、息を切らして追うのを諦めた。


「ハァ、ハァ....おのれちょこまかと...貴様逃げるだけか?何故攻撃してこない!」


「それはね...──────」


ジネヴラの視界から唐突にルカの姿が消え去った。前方左右にも、後方を振り返ってもその姿は見当たらない。咄嗟に剣を身構えたその時、ジネヴラの背中にズシ!と何かがのしかかり、後方から蛇の髪を引っ張られて頭が上にのけ反った。無詠唱化した部分空間干渉サブスペースインターフェアレンスが解除され、ジネヴラの背中には胴体に足を絡ませたルカが抱き着いていた。首の後ろにはロングダガーを当てられ、体も強力に固定されたジネヴラはもはや身動き一つ取れない。ルカはジネヴラの耳元で囁いた。


「お前をこうしてノーダメージで捕える為さ。動きが鈍るのを待ってたんだ」


「くっ! わ、妾をどうするつもりだ」


「その前にもう一つだけ質問だ。お前の仕掛けた多重魔法陣、石化の大害カースオブペトリファクションを使って、村人達を徐々に弱らせてから殺すつもりだったのか?」


「な...何故お前が我ら蛇髪人メデューサにしか伝わっておらぬ秘術を知っているのだ?!」


「いいから答えろ」


「...そ、そうだ。リュラリュース様から命じられてな。いくら妾とて、蜥蜴人リザードマン達に徒党を組まれては、負けはしないにせよ万が一という事もある。村の大半が石化した頃を狙い、妾自らが襲撃をかけるつもりでいたのじゃ」


石化の大害カースオブペトリファクションは、一度その毒を口にしたら術者が解呪してもその効果が消える事は無い。そうだな?」


「そこまで知っているとは....お主は一体?」


「.....何故そんなバカな事をしたんだ。魔法陣が俺に破壊された時点で、こうなる事を予想もしてなかったのか?」


「クク...もちろん妾とて覚悟はしていたさ。だが我が主の命は絶対じゃ。あのお方には逆らえん」


「そうか。ジネヴラ・パル・エウリュアレー。お前に恨みはないが、ここで死ね」


「....ああ。楽に頼むぞ、ルカ・ブレイズ」


その刹那、目にも止まらぬ速さでエーテリアルダークブレードを滑らせ、音もなくジネヴラの首が瞬断された。両手に持った2本の剣が地面に落ち、上体が力を失ってその場に倒れ込んだ。それを見るが早し、ルカは中空に右手を伸ばして、アイテムストレージから銀色に輝く壺を3個取り出して地面に並べた。それを見て近寄ってきた二人に指示を飛ばす。


「ミキ!お前に分けた壺を2つとも全部出せ。ライル、蛇髪人メデューサの体を持ち上げて壷に注ぎ込め。猶予はは5分間だ、急げ!」


そう言うとルカは壷の蓋を開け、左手に持ったジネヴラの頭部切断面を壷の口に持っていき、未だドクドクと垂れる真っ赤な血液を中に注ぎ込んだ。ライルも、力に物を言わせてジネヴラの蛇体と上半身をまとめて持ち上げ、首切断面を壷の口に注意深く当てた。切断された直後とあり、まるで滝のように血が壷に注がれていく。


そして5つの壷にジネヴラの血液が満たされると、ルカは全ての壷に銀の蓋をした。その直径30センチ程の壷に手を置き、ルカは大きく溜息をついて納得したように頷いたが、その直後だった。背後に打ち捨てられたジネヴラの体が急激に燃え上がり、みるみるうちに炭化して灰となり、砂浜の上に脆くも崩れ去った。


「OK。ミキ、ライル、お疲れ」


「ミッションコンプリートですね、ルカ様」


「かの伝承は正しかったと言う事ですな」


ルカが胡座をかく左右に、ミキとライルもそっと片膝をついた。三人とも満足そうに、目の前にある5つの銀の壺を眺めている。一部始終を見ていたヴァシュパとゼンベルは、蛇髪人メデューサが倒されたのを見て恐る恐る岩陰を登り、ルカ達の様子を伺った。それに気付いたルカが、二人に向かって大きく手招きする。「もう安全だ」と言わんばかりの優しい笑顔を見て、ゼンベルははち切れんばかりに嬉しくなり、石畳を駆け下りた。


優しいルカが戻ってきた、それだけでゼンベルは嬉しかった。あの時の怖いルカはほんの一面に過ぎない、僕たちを守るために仕方なくやったことなのだと、子供心ながらに理解していた。そしてゼンベルの目の前で、自分ではとても敵わない──いや、どんなに強い蜥蜴人リザードマンでも太刀打ち出来ないような強敵を、言葉通り討ち滅ぼした。


ゼンベルは胡座をかくルカに抱きついた。感極まり、目には涙が滲んでいる。


「やったんだねお姉ちゃん!これで村のみんなも病気が治るんだね?」


「ああ、治るよゼンベル。もう安心していい」


「じゃあ早く村に帰ろう?祭司様もきっと心配してるよ」


「あー、それなんだけどゼンベル、もう少し待っていてもらってもいいかな?」


「いいけど、何で?」


「お姉ちゃんにも、大事な用があるんだ」


「うん、分かった」


ゼンベルはルカの隣に座り、空を見上げていた。月と星が砂浜を照らしているおかげで、暗闇の恐怖はない。そこにルカ・ミキ・ライルの3人が居てくれるのなら、尚更だった。右側の石畳から、ヴァシュパが砂浜に降りてきた。ルカ達3人が月明かりの下座る中で、ヴァシュパは目を疑う光景を目にする。


「おい、ルカ...その足の間に大事そうに抱えているものは一体何だ?」


そこにあったもの。それは先程ルカ自身が首を跳ねた蛇髪人メデューサの頭部だった。両手で顎を支え、脛の上に乗った切断面からは血が滴り落ち、そのせいでルカの座る地面が赤く円形に染まっていた。先程戦っていた時とは違い、その美しい顔は眠るように目を閉じ、頭部の蛇も微動だにしていない。そう言われてゼンベルも目を向けた。ルカばかりに目が行き、その禍々しい生首に改めて気が付いたことで、咄嗟にその場を立ち上がり後ずさった。2人が慌てているのを見て、ルカは何者かに話しかける。


「...おい、いい加減寝たふりはよせ。起きろ」


ルカが生首を揺すると、ジネヴラの目がゆっくりと開き、蛇の髪がざわざわと動き始めた。それを見てルカは生首の顔を自分の方に向けて持ち上げ、向かい合うようにした。蛇の髪がルカの腕に絡みついてきたところで、ルカは頭部を支える手にミシリと力を込めた。


「妙な真似をすればこのまま頭を粉々に砕く。いいな?」


「お主...気づいておったのか」


「まあな。以前...といっても随分昔だが、お前と同じ蛇髪人メデューサと戦った事があってな。蛇髪人メデューサにしか伝わっていない呪詛と、それを解呪するために必要な血の効果、そして首を切り落とせばその頭がアイテム属性に変わり、生き続ける事を知ったのは、その時だ。あれはいつだったか...もう130年以上前の話になる」


「何と、そこまで知っておったとは...。妾の、いや我ら蛇髪人メデューサの血は腐るのが早い。血は取り出したのか?」


「ああ。見えるか?お前の血を入れたこの銀の壺は、不廃の壺という特殊なアイテムでな。この中に物を入れれば、それが例えどんなに腐りやすいものでも何十年、何百年と保存できるんだ。ここより遥か南東にある、八欲王の空中都市ってわかるか?」


「無論、存じておる」


「なら話は早い。そこにある居城の宝物殿に侵入した際に、手土産として5個ほど頂戴してきたものさ。まさかこんな所で役に立つとは思っても見なかったが」


それを聞いたジネヴラの顔に、困惑の表情が浮かんできた。


「ルカ...といったな。お主、ヴァンパイアでないと言うのなら、一体何だというのだ?そのような長き時を生き長らえて、一体何をしようと言うのだ?」


「俺達はセフィロトという、言ってみればヴァンパイアの上位種族だ。しかしその本質は異形種であり、お前達と何も変わらない。何をするのかという質問だが、ジネヴラ。俺達は元々この世界の者じゃないんだ。分かりやすく言えば、別の世界から強制的にこの世界へと転移させられてきた。だから俺達は、元の世界に帰るための鍵を探して、長い旅を続けている。...済まない、この話は長くなる。もし俺達と共に来るなら、その時はお前に全てを話そう。だが来ないというのなら、残念だが痛みの無いようお前を消し去る。君が決めてくれていいよ、ジネヴラ」


それを聞いたジネヴラの頬に涙が伝った。ルカは赤子を抱えるように頭部を胸元へと抱き寄せ、マントの裾で涙を拭った。


「わ、妾もお前達と共に行っても良いと?」


「ああ、もちろんだジネヴラ」


「..しかし妾を連れて行くというのなら、乗り越えなければならない試練がある。ルカ、お前が妾を使いこなす力を持っているかどうかを、今ここで試さねばならぬのじゃ。下手をすれば命を落とすかもしれん。それでも良いのか?」


蛇髪人メデューサの仕来りってやつだね。いいよ分かった、受けて立つよ」


ルカは立ち上がり、湖のある方角へと体を向けた。


「良いか、まず妾の髪を持て。そしてお主の持てる魔力を妾に注ぎ込むのじゃ。妾はそれを吸い取り、その術者の持つ魔力の強さに応じて力を発揮するであろう」


「分かった、やってみる」


ルカが掴もうとすると、それを察したかのように蛇の髪がルカの指に絡みつき、頭部に固定された。そのまま持ち上げてジネヴラの頭を湖の沖に向かって掲げ、スゥッと息を吸い込み、魔法を使う感覚で右腕に意識を集中させ、体内の魔力を一気に流し込んだ。するとジネヴラの目がカッと見開き、射角50度近い広範囲に渡って石化の光線が断続的に放射された。ルカ自身は平然としており、腕を左右に振ってその射程距離を確認している。そして魔力の流れを止めて、ジネヴラの頭部を自分の胸元に寄せて即頭部を支えた。指に絡みついた蛇もそれに合わせるように解けていく。


「なるほど、射程100ユニットってとこかな。これだけ広範囲に石化できれば、かなりの戦力になるね」


「ル、ルカ!お主、体は何ともないのか?」


「ん?いやまあ、確かにMP消費は激しいけど、このくらいなら誤差の範囲内だね」


笑顔で答えるルカを見て、ジネヴラは驚愕の眼差しを送っていた。


「...お主の魔力を受けてみてよく分かった。ルカ、お前は我らでは想像もつかぬ力を秘めているのだとな。妾など到底足元にも及びはせぬ」


「じゃあ、試練は合格って事でいい?」


「もちろんじゃ。お前の力の前には、我が主リュラリュース様でさえ一撃の元に斬り伏せられよう。しかし今となってはそんな事はどうでも良い。お前がどこへ行くのか、お前が何をするのか、妾はこの目でしかと見届けたい。ルカ、お前を我が主と認める。妾を好きなように使ってほしい」


「よし、交渉成立だね。じゃあ俺達はあの村に戻るから、みんなを怖がらせるといけないし、アイテムストレージの中に入っていてくれるかな?」


「アイテムストレージ? 何の事が妾にはわからぬが、そこにいれば良いのだな。承知した」


ルカはジネヴラの即頭部を持ち中空に手を伸ばすと、暗黒の穴がポッカリと開いた。その中にそっとジネヴラの首を収め、穴が閉じる。


「ふー」と溜息をつくと、ルカは湖の中に入り、脛についたジネヴラの血を洗い流して砂浜に戻ってきた。完全に置いてけぼりにされた形で今までの様子を見ていたヴァシュパとゼンベルだったが、ルカはそれには構わず砂浜に置かれた不廃の壺を手に取り、アイテムストレージに収めていく。それが済むとルカは立ち上がり、ゼンベルたちの方へ振り返った。


「さて、帰ろうか!」


「帰ろうって...お前、その蛇髪人メデューサの首はどうするつもり....」


「この子は俺達が管理するから、心配ないよ。それに村人たちがこの首を見たら、みんな怯えちゃうだろう?」


「ルカお姉ちゃん、本当に大丈夫なんだよね?」


「ゼンベルもお姉ちゃんと蛇髪人メデューサの話聞いてたでしょ?もう大丈夫だからそんなに心配しないの」


「さっきの壺に収めた血で、村人たちの病気は治るんだな?」


「その通り。そうと分かったらほら、みんな馬車まで戻ろう。俺もさすがに眠いふぁ~あ」


ルカは大あくびをして馬車の方へ歩き始めた。それにミキ・ライル・ゼンベルと続いたが、ヴァシュパは心配そうに湖を見渡していた。しかし首を横に振って雑念を払い、ヴァシュパも後に続いた。



───竜牙ドラゴンタスク族の集落 3:50 AM



ルカ達は無事に村へと戻りゼンベルの家へ転がり込むと、心配していたゼンベルの両親達が出迎えてくれた。無事に帰ってきたゼンベルを見て両親は安心していたが、ルカは用意されていた枕に頭を乗せると、マントも脱がずに寝てしまった。


「ほらルカ様!マントくらいお脱ぎになってから寝てください」


「ん~、脱がせて~」


「全くもう...」


ミキは半ば呆れつつも、優しい笑みを浮かべながらルカの首元にあるカフスボタンを外し、スルリとマントを取り去った。そして麻の布団をかけると、ルカは寝息を立てて熟睡に落ちてしまった。それを見てライルが心配そうにミキに声をかける。


「...余程お疲れのようだな」


「ええ、あの首のせいかも知れないわね」


「しかし彼の地で得られた伝承は、これで誠と知れたわけだ」


「...アベリオン丘陵。ひょっとしたらあそこには、また行かなければならないかもしれない」


「そうだな。ミキ、お前も少し休んだらどうだ。寝ずの番で気を張っていただろう」


「今日は随分と優しいのね。あなたこそ体が動かせなくて逆に疲れたんじゃない?」


「ああ。暴れたりないが、ルカ様が自ら動いた結果が今日の成果だ。俺は体力が有り余っている、お前が先に休め」


「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらおうかしら」


「うむ。ヴァシュパ、済まないが俺に酒を少々いただけないだろうか?」


「あ、ああ!分かった、今すぐに持ってくる」


ヴァシュパが颯爽と外に出ていき、ルカが寝る隣にミキも横になった。ルカもそれを無意識に感じてか、ミキのいる方に寝がえりをうち、腰に手を回して抱き着くようにスヤスヤと寝息を立てていた。先程の光景を見てすっかり目が覚めてしまったゼンベルは、床に胡坐をかくライルの元に歩み寄り、隣に腰かけた。


「ねえ、ライルお兄ちゃん」


「ん?何だゼンベル」


「あの首を取りに、この村に来たわけじゃないよね?」


「それはそうだ。原因が蛇髪人メデューサだったのは単なる偶然。俺達がそれを知る余地はなかった」


「そ、そっか。なら安心した」


「何だ、そんな事を心配していたのか?」


「だってお兄ちゃん言ってたじゃん、伝承は本当だったとか何とか...」


「あの話か。いいだろう教えてやる。俺達はその昔、アベリオン丘陵という土地に行った事があってな。知っているか?」


「ううん、知らない」


「大人達に聞いてみるといい。きっと知っている。そこで俺達は、蛇髪人メデューサだけが住まう小さな集落を発見してな。その村の長に聞いた、蛇髪人メデューサに関するとある伝承があったんだ。聞きたいか?」


「うん!」


「”祖を打ち滅ぼさんとする者、必ずやその身に呪いを受けるであろう。祖を打ち滅ぼさんとする者、例え首の一つとなりとてその者に復讐を果たすであろう。呪いを解きたくば、その血を捧げよ。怨念を解きたくば、その手で殺した我が血族にその力を示さん。汝が力を我が血族が認めた時、祖はそなたの死と引き換えに我が血族の力を与えるであろう” とな。これが蛇髪人メデューサに伝わる伝承の一部だ」


「な、何か...すごい...」


ゼンベルの背中に悪寒が走りつつ、今まで起きた事と関連性がある事に気づき、妄想がどんどん膨らんでいった。そこへヴァシュパが酒瓶を持ってゼンベルの家に入ってきた。以前と違い、特大の酒瓶を抱えている。


「待たせたなライル、お前ならこのくらいが丁度良いと思ってな」


「済まないなヴァシュパ。さあ、お前も盃を取れ」


「ああ。でもまずはお前からだ」


ヴァシュパは床に置かれた盃をライルに手渡すと、トクトクと酒を注ぎこんだ。ヴァシュパは手酌で自分の盃に酒を注ぐと、ルカやミキを起こさない程度に、静かに乾杯した。ライルはそれを一気に飲み干し、それを見てヴァシュパもぐいっと盃をあおる。酒が進んできた所で、ヴァシュパが質問した。


「それで、明日はどうする?」


「当然、今日手に入れた血を村人達に一口ずつ飲んでもらう。そうすれば、石化のバッドステータスは解呪されるはずだ」


「そ、そうか。何やらお前達には世話をかけっぱなしだな。族長として申し訳が立たん」


「気にするな。全てはルカ様のご意思。俺達はただそれに付き従い、ルカ様をお守りするのみだ」


「それで、この後はどうするんだ。また旅に出るのか?俺達としては、いつまででもお前達にこの村にいて欲しいくらいなんだが」


「明日次第だな。とりあえずは、村人たちを全て治してやらなければな」


「そうだな。それが第一だ」


「よし。俺も酒が飲めたし、一寝入りするぞ。ヴァシュパ、ゼンベル、お前達も休め。明日は忙しくなるぞ」


「ああ、そうしよう。ゼンベル、お前も早く寝るんだぞ」


「うん、ありがとう族長」


ライルは部屋の左隅に横になり、ヴァシュパは自分の家に帰った。ゼンベルはルカのいる右隣に横になり、麻の布団をかけた。未だ全てが解決したという実感が湧かず、地に足がつかない気分だったが、ミキに抱き着いて寝るルカを見てそれが本当なのだと自分に言い聞かせ、ゼンベルも眠りに落ちた。


───竜牙ドラゴンタスク族の集落 12:50 PM



蜥蜴人リザードマンの村人達が井戸の前に列を組み、祭司の老婆が見守る中でルカ・ミキ・ライルがスプーンを持ち、直径30センチほどある銀色の壺から小さじ一杯程度にジネヴラの血を掬い、順々に村人たちに飲ませて行った。「苦い」という事で蜥蜴人リザードマン達は顔をしかめたが、呪詛にかかっていた者達の体が飲んだ瞬間銀色に輝き、感染と石化毒のバッドステータスが次々と解除されていった。それを飲んだ村人たちは体調が元に戻ったことを感じ、皆歓喜の声を上げている。念のため石化の効果が現れていない村人たちにも血を飲ませ、続いて身動きが取れないほど石化が進んだ家を一軒一軒周り、それぞれにジネヴラの血を飲ませた。やがて村内全ての治療が完了し、ルカ達は族長であるヴァシュパの家へと案内された。時刻は14:38。敷地はゼンベルの家よりも広く、集会所としても使えそうな間取りだった。そこにルカ達3人、ヴァシュパ、祭司、ゼンベルが床に座った。ヴァシュパが畏まり、床に拳を付いて深々と頭を下げた。


「感謝する、ルカよ。お前達がいなければ、俺達竜牙ドラゴンタスク族は確実に滅びていた。お前の知る過去の叡智に、俺達竜牙ドラゴンタスク族は深く感謝する」


「いや何、いいんだって。蛇髪人メデューサの事を蜥蜴人リザードマンが知らないのも当然だ。それよりもその、肝心な情報の事なんだけど...」


「ああ、当然だ。今俺の後ろに見えているあの壺こそが、竜牙ドラゴンタスク族に代々伝わる秘宝、”酒の大壺”だ」


ヴァシュパが振り返ると、部屋の最奥部が祭壇のようになっており、そこに高さ1メートルほどの大きなカーキ色をした壺が置かれていた。ルカがそこに歩み寄り壺の中を覗くと、アルコール特有のツンとした香りが漂い、中には透明度の高い酒が並々と湧き出でていた。


「ヴァシュパ、この壺を鑑定してみてもいい?」


「ああ、もちろんだ」


「ありがとう。道具上位鑑定オールアプレイザルマジックアイテム



---------------------------------------------------------


アイテム名 :酒の大壺


使用可能クラス制限 : ???


アイテム概要 : どれだけ汲みだしても尽きる事のない酒が湧き出でる大壺。酒を司る大神バッカスがその由来とされているが、詳細は不明。味はおざなりにも良いとは言えないが、その強力なアルコール度数と共に、戦意高揚を促すステータスバフが付与される。




CODE:1208

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脳裏に流れ込んでくる鑑定結果を見ながら、ルカはゆっくりと目を開けて目を瞬かせた。隣で見ていたヴァシュパが心配そうに声をかけてくる。


「どうだ、何かわかったか?」


「...え?あ、ああ。この壺の効能はヴァシュパが言っていた通りだ。しかしその後に、謎の数列が仕込まれている。ミキ、ライル、二人ともこの壺を鑑定しておいてくれ」


『畏まりました』


2人が鑑定をしている間、ルカは中空に手を伸ばしてアイテムストレージから茶色の手帳を取り出し、そこに今見たものを書き込んでいく。


「ルカ様、この最後の数字は一体?」


「分からない...2進法? それとも12進法?あるいは何かのパスワード? しかしそのどちらもこれだけでは意味を成さない。ヴァシュパ、恐らくだがこの酒の大壺以外に、蜥蜴人リザードマンにのみ伝わる秘宝があるんじゃないか?」


それを聞かれてヴァシュパは驚いた。


「何故それが...いや、お前達には隠し立てする必要もないか。お前の言う通り、蜥蜴人リザードマンの秘宝は全部で4つある。一つはこの酒の大壺、その他に白竜の骨鎧ホワイトドラゴンボーン凍牙の苦痛フロストペイン賢者の魔石タリスマニックストーンがある」


「この酒の大壺以外で、秘宝の在処は分かっているか?」


「一つを除いてな。まず白竜の骨鎧ホワイトドラゴンボーン鋭き尻尾レイザーテール族が、凍牙の苦痛フロストペイン緑爪グリーンクロウ族が、そしてもう一つの賢者の魔石タリスマニックストーンは、黄色の斑イエロースペクトル族とも朱の瞳レッドアイ族とも言われているが、俺達でもこの詳細は明らかではない」


それを聞いてルカの目が輝いた。


「それだけ聞ければ十分だ、ありがとうヴァシュパ。ちなみに秘宝以外での蜥蜴人リザードマンに関する伝承は何かあるかい?」


「いや、その他には何もない。別段お前達に伝えるべき伝承と言ったことはこれくらいだ」


「そっか、感謝するよヴァシュパ。それじゃ村人たちの様子でも見てこようかな。おばあちゃんついてきてくれる?」


「もちろんじゃ。同行するぞルカよ」


そうしてルカ達3人と祭司の老婆はゼンベルの家を後にし、呪詛にかかった皆の様子を確認していった。最初はルカを軽蔑していた蜥蜴人リザードマン達も心を開き、皆がルカ達に感謝の言葉を述べていた。


そしてその夜は快気祝いの大宴会となり、ルカも皆に魚をメインとした刺身の手料理を振舞う等で大いに盛り上がっていた。高々と木で組まれたキャンプファイヤーを囲みながら、皆が踊り、歌い、誰もがルカ達を英雄と認めるに疑いの余地はなかった。


その中にルカも参加したのだが、不思議な四角錐をした透明のクリスタルを宙に放り投げると、そのクリスタルはキャンプファイヤーの火の上で宙に浮かび停止し、そこから重厚かつリズミックなアフリカンドラムを主体とした音楽が大音響で流れだしてきた。ケルティックサウンドにも似たそれに合わせてルカが舞い始める。その動きは徐々に激しくなっていき、情熱的かつ人間とは思えないような鋭い動きに蜥蜴人リザードマンの皆が引き込まれ、そして次の瞬間、蜥蜴人リザードマン達はその極地に達する。


ルカの鮮烈な歌声が広場一帯を満たした。その歌の意味は蜥蜴人リザードマン達には分からなかったが、ルカの激しくも美しいダンスがその意味を物語っており、蜥蜴人リザードマン達はそこから意味を汲み取り、マントを羽衣のようにはためかせながら笑顔で歌うその様は、正に漆黒の女神とでも言うべき姿を呈していた。勇気が体内から湧き出でてくるような旋律。その太く鮮烈な声はただただ美しく、蜥蜴人リザードマンのみならず、ミキとライルの琴線にも染み通る心地よいものだった。片やその歌声に癒され、片や高揚してルカと共に踊りだす蜥蜴人リザードマン達と共に、熱狂が渦巻いた。初めて聞く音、初めて聞くルカの歌声。それを聞いてミキとライルは涙し、ヴァシュパとゼンベルは興奮のあまりルカの舞う隣で共に踊りだす。そして全てを歌い上げた瞬間、大喝采が起きた。


皆に手を振り、ルカは照れながらミキとライルの元へ戻ると、酒をぐいっとあおった。ルカのそれに負けじと、蜥蜴人リザードマン達も木でできた即席の打楽器を用意し、トライバルなサウンドが広場を満たしていく。ゼンベルが目を輝かせながら駆け寄ってきた。ルカはそれを受け止めて、胡坐をかいた足の間にゼンベルを座らせた。


「すごいやルカお姉ちゃん!!僕何か感動した!」


「ありがとうゼンベル。そんなに喜んでもらえるとは思ってなかったよ」


「ううん、凄かったよ!やっぱりお姉ちゃんは何でも出来るんだ」


「フフ、そんな事はないけどね。蜥蜴人リザードマンに伝わっている歌とかはないの?」


「あるよ。子守歌みたいなものだけど」


「えー聞きたい!お姉ちゃんに聞かせて」


「うんいいよ。フンフーンフンフーン、フフフーンフンフーフン....」


ゼンベルが鼻歌を歌い始め、ルカはそのコードを先読みし、メロディに合わせて合唱し始めた。それはルカの予想に反して、想像していたものとは違い非常に美しいメロディだった。やがて歌い終えると、ルカはそのメロディのあまりの美しさに魅かれ、涙を流すほどだった。


「はい終わり。....ってルカお姉ちゃん、何で泣いてるの?」


「...え?!ああ、ごめんねゼンベル、お姉ちゃんも感動しちゃった。こうやって他種族に伝わる曲って、やっぱりすごいんだね、うん。気にしないで、大丈夫」


ルカはゼンベルを抱きしめ、自分の泣き顔を見られないようにゼンベルの肩に顔を埋めた。そうしている内に、ヴァシュパもルカ達の方へ歩み寄ってきた。


「飲んでるかルカ?.....って、お前泣いてるのか?」


「ああいや!ごめんねヴァシュパ大丈夫、気にしないで。ちょっと疲れちゃっただけよ」


「そ、そうか、ならいいのだが。何ならもう休むか?」


「あー、そうさせてもらおうかな。ミキとライルもいいね?」


「畏まりました」


「それでは俺も休ませてもらおう、ヴァシュパ」


「わかった。じゃあ先にゼンベルの家で休んでてくれ。俺も後で顔を出す」


「OK、ありがとう」


そう言うとルカ達3人は立ち上がり、ゼンベルの家へと足を運んだ。やがて宴も終わり、ゼンベルとその両親が帰ってきた時、ルカ達3人は横になり、寝息を立てていた。それを見て安心したゼンベルは、ルカの右隣に横になり、目をつぶった。


そしてその翌朝ゼンベルが目を覚ますと、ルカ達3人の姿が無かった。まさかと思い家の外に出るが、馬車の姿も見当たらない。ゼンベルは再度家の中を見渡すと、きれいに畳まれた麻の布団と共に、その脇に銀色に光る壺が2つ置かれていた。そしてその壺の下には、何かの紙切れが挟まっている。ゼンベルは恐る恐るその紙切れを開くと、そこにはこう書いてあった。


────────────────────────


Dear ゼンベル


色々とありがとう。君と一緒に居れたこの数日間は楽しかった。そして君を助けた事は間違いじゃなかった。次にいつ会えるか分からないけど、その間元気で過ごしてね。



Dear ヴァシュパ


俺達の事を信じてくれてありがとう。貴重な情報を教えてくれた事に感謝する。



Dear 祭司様


おばあちゃん、ここに置いた不廃の壺の中には蛇髪人メデューサの血が入っている。もし万が一、今後同じような病気に見舞われた人たちに使ってあげてほしい。



それじゃあ、またね。



                          Luca・Miki・Ryle



────────────────────────



これを見たゼンベルは手紙を握りしめて外に飛び出し、一目散に村の門を開き、その向こうに広がる湿地帯を見渡した。しかしどこにも馬車の影は無い。どうして良いかわからず、ゼンベルはヴァシュパの家まで走り、家の中に飛び込んで彼を叩き起こした。ヴァシュパは前日の酒が残っており寝ぼけ眼だったが、ゼンベルの大声と手紙の内容を見て飛び起き、一緒にルカ達を探した。しかしもうそこにいる事はなく、祭司の老婆にもその手紙を持っていったが、祭司は首を横に振り、彼らを諭した。


「真の英雄というのはこういうものじゃ。フラッと立ち寄り、そこにある問題を解決し、フラッと去っていく。奴らにも次の目的があるのじゃろう。多めにみてやれ、ヴァシュパ、ゼンベル」


「でも...でも祭司様、何故急に?!」


意図せずして、ゼンベルの目は涙で満たされていた。そのゼンベルを老婆は抱き寄せる。


「...良いかゼンベル。お前もいつかは大人になる。この手紙にしたためられているのは、お前が立派な戦士になって欲しいという願いじゃ。それにあの3人の事だ、村人総出で見送られるなどという事は避けたかったのじゃろう。そういう気持ちを分かってこそ、立派な大人になり、真の戦士となれることなのじゃ。分かってやれ」


「でも、でも!最後のお別れくらい一言言いたかったのに...」


「ゼンベル、あの3人の事だ。またいつかフラッと出てきて、お前の前に姿を現すさ。悔しかったら、お前も英雄になれ。この村を救うほどのな」


ヴァシュパはしゃがみこみ、ゼンベルの背中をさすった。そしてその15年後、逞しく成長したゼンベルは胸に旅人の烙印を押され、外の世界へと旅立つ事になる。



─── 現代 鋭き尻尾レイザーテール族の集落 21:30 PM



「何と、そのような話があったとはな。興味深かったぞゼンベルよ」


「ああ陛下。これが族長である俺と、この隣にいるヴァシュパ長老がルカ姉ちゃんと出会った話の全てだぜ」


「陛下、お分かりいただけたじゃろうか。このルカ様が陛下と共に現れたという事が、もはや祖霊のお導きとしか思えないというわしの思いが」


「うむ...ルカよ、今の話は全て誠なのだな?」


アインズにそう促され、ルカは大事そうに両手で持っていた盃に目を落とし、口元に微笑を湛えながらコクンと頷いた。そして頭を上げると、ルカは斜向かいに座るザリュース・シャシャの腰に目を向けた。


「その腰に下げているのは、もしかして凍牙の苦痛フロストペインかい?」


「え、ええそうですが」


「良ければ、それを鑑定させてもらってもいいかな?」


「もちろん構いませんとも。どうぞお受け取りください」


ザリュースが料理を挟んでルカに手を伸ばし、凍牙の苦痛フロストペインを手渡した。そして目をつぶり、魔法を詠唱する。


「ありがとう。道具上位鑑定オールアプレイザルマジックアイテム



───────────────────────────


アイテム名:凍牙の苦痛フロストペイン


使用可能クラス制限:ファイター


使用可能スキル制限:片手剣 75%


攻撃力 : 680


効果 : 氷属性付与(80%)、氷属性Proc発動確率10%、移動阻害(スネア)発動確率10%,

命中率上昇80%、付随攻撃力+50



耐性 :氷結耐性80%



アイテム概要 : ヨトゥンヘイムの永久凍土より切り出したとされる氷の刃。装備者の氷結耐性を大幅に上げると共に、魔力を消費して周囲を凍てつかせる氷の嵐を引き起こす(30unit  3times / day)。




CODE:6821

───────────────────────────



ルカはゆっくりと目を開くと、アイテムストレージに手を伸ばして茶色のメモ帳とペンを取り出し、その内容を書き記していった。そしてそのメモ帳を、斜向かいに座るミキ、ライルにも渡して回し読みする。そしてルカの手元に手帳が戻ってくると、右隣に座るアインズが顔を覗かせてきた。


「何だお前達、何を読んでいる?」


「ああごめん、今のゼンベルの話の中で、酒の大壺を鑑定した話があったでしょ?その鑑定結果の中にある、リザードマンの四至宝に仕込まれた謎の数列が、今全部揃ったんだ」


「本当かそれは?」


「うん。酒の大壺が1208、白竜の骨鎧ホワイトドラゴンボーンが9526、賢者の魔石タリスマニックストーンが3174、そしてそこの凍牙の苦痛フロストペインが6821。...フフ、皮肉だよね。現実世界へ戻った後に全部揃っちゃうなんて」


「その数字に何か意味があると思うか?」


「分からない。とにかくこれは後日検証してみよう。ごめんねヴァシュパ、ゼンベル、話の腰折っちゃって」


「何を言われますかルカ様。あなたの元気なお顔が見れてこのヴァシュパ、喜びの極みでございますぞ。ささ、どんどんお飲みくだされ」


「ありがとう。それにしても痩せすぎじゃない?最初見た時誰だか分からなかったよ」


「ホホ、これは耳が痛い。例の持病を患ってから、一気に痩せ細ってしまった次第ですじゃ。ミキ様、ライル様も昔と寸分違わぬ姿でお変わりなく。心底嬉しく思いますぞ」


「様だなんてそんな、昔と同じでいいんですよヴァシュパ」


「俺もだ。呼び捨てで構わない」


「あなた達は我らが四至宝を守ってくれた大事なお方。我ら竜牙ドラゴンタスク族は皆あなた達3人に今でも深く感謝しております。そのような大恩あるお方に呼び捨てなど以っての外。ここは一つこの爺めの我儘をお許しくだされ」


「まあ、無理にとは言いませんが...」


そこへゼンベルが話に割って入ってきた。


「まあまあ、そんな話はいいじゃねえか長老!それよりルカ姉ちゃん、急に姿を消してから、あの後一体何処へ行っちまったんだ?」


「ん?えーとね、あの時はトブの大森林の調査が途中だったから、まずはそこを片付けて、その後はヴァシュパから聞いた蜥蜴人リザードマンの四至宝を探しに行ったかな、確か」


「探しにって、他の部族の村に入ったのか?」


「こっそりとね。透明化スニークしたまま手っ取り早く村を回って、四至宝の鑑定だけをさせてもらったの。だから他の村人たちは誰も気付いていない。その後に凍牙の苦痛フロストペインを探したんだけど、どの村にもそれらしきものが見つからなかったんだ。それが今になって、そこにいるザリュースが凍牙の苦痛フロストペインを持って現れた。恐らくだけど、所有者を転々としていたんだろうね。でも目的を果たしてしまった今の私達にとっては、あまり意味がないとも言えるけど」


「そうだったのか....てぇ事は昔姉ちゃんの言っていた、この世界の謎を解く鍵ってのも見つかったんだな?」


「まあ、全ての謎が解けた訳じゃないけどね。元の世界へ帰るという一番の目的は達したよ」


「へへ、そいつぁめでてえや。酒が美味くなるってもんよ」


「ありがとうゼンベル」


ルカとゼンベルは、改めて盃をぶつけて乾杯した。そこへ何事かを考えていたアインズが、ふと思い出したように質問した。


「そう言えばルカ、お前が蛇髪人メデューサを倒した時の下りなんだが」


「うん、何?」


「その蛇髪人メデューサの主人は、リュラリュース・スペニア・アイ・インダルンと言っていたな?」


「そうだよ。まあ話した事は無くて、姿形しか知らないけどね」


「そうか。そのリュラリュースなんだが...今はエ・ランテルで入国管理官をやってもらっていてな」


「えー!そうなんだ」


「ああ。良ければ今度会ってみるか?その蛇髪人メデューサの首がどういう反応をするかも見てみたいしな」


「分かった、私は全然構わないよ」


「決まりだな」


そうして宴もたけなわとなり、集会所に集まっていた蜥蜴人リザードマン達も解散した。アインズとルカ達3人は、コキュートスが指示して建てさせた2階建ての豪華なゲストハウスに案内され、各々に個室が用意されていた。その建物の周囲にはエイトエッジアサシンやシャドウデーモンが目を光らせ、警備面でも万全の体制が取られている。そして深夜、皆が寝静まった頃、アインズは一人ゲストハウス手前の階段に座り、夜空を見上げて物思いに耽っていた。とそこへ不意に、そっと肩に何かが触れるような感触が襲った。咄嗟に右を見上げると、そこには中腰で微笑むルカの姿があった。


「...何だルカか、脅かすな。透明化スニークで近寄るのは、あまり趣味がいいとは言えないぞ」


「ごめんごめん。部屋にいたんだけど、一応足跡トラックで周囲を警戒してたからさ。...眠れないの?」


ルカはそのまましゃがみ、アインズの隣に腰掛けた。


「元々この体に睡眠は必要ないからな。それに、丁度お前の事を考えていた」


「私の事?」


「ああ。不思議な縁だ、と思ってな。お前に会わなければ、俺は一生この世界で生きていたのだと思うと、何というかこう、足元の覚束ない妙な気分になってな。今日の事にしてもそうだ。ゼンベル・ググーの話を聞いて、お前が本当に200年という長い歳月をこの世界で過ごしたのだという実感が、改めて湧いてきたというか...その、言いたい事が分かるか?」


それを聞いてルカは目をぱちくりさせたが、やがてゆっくりとその表情は微笑へと戻り、アインズの右手を握った。


「フフ、嘘だと思ってた?」


「違う違うそうでは...いや、正直僅かでもそういう気持ちがあったのかも知れん。しかしそれは今日、第三者からの証言でそう言った気持ちが粉々に打ち砕かれた。そこに戸惑っている、と言った方が正しいか」


「そう思うのも仕方ないよ。当時の私は、ガル・ガンチュア、そして虚空への入り口を探そうと躍起になっていた。でも現実世界へ帰還できた今となっては、そんな必死になって急ぐ必要があったのかな?って、今でも時々考えてしまう事がある。だから、昔の私を知っている人達からの話を聞くのは、少し抵抗があるんだ。当時の気分が甦ってきてしまうからね」


微笑みながらも寂しそうに俯くルカの顔を見て、アインズは握られた指を絡めた。


「だが今こうして、お前は俺の隣にいる。それは、お前がこの世界から脱出しようと懸命に足掻いてくれた結果とは言えないか?そして俺達は、2550年の世界という途方もない、しかし確固たる現実を共有している。全てはお前が急いでくれたからこそだと思うぞ」


「...いつの間にか私が慰められちゃってるね」


「フッ、お互い様だ」


「さて、明日は早いしそろそろ休もうか」


「そうだな、そうしよう」


アインズとルカは階段から立ち上がり、皆を起こさぬよう静かに自室へと戻っていった。



───翌朝 10:00


ゲストハウスの入り口前で皆が集合し、アインズ・コキュートス・ルカ・ミキ・ライル・ゼンベルの6人はそれぞれの武装を整えていた。昨日と同じく雲一つない晴天が広がり、少し強めな涼しい風が吹き抜ける。それぞれの準備が完了すると、ルカはゼンベルに質問した。


「ゼンベル、トブの大森林の西寄りって話だけど、それってもしかして昔ゼンベルが倒れていた場所の辺り?」


「いや、それよりもっと奥だぜ。ルカ姉ちゃんに助けてもらった地点から、俺の足で2時間ってとこだな」


「OK、その周囲にも変化がないか探索したいから、とりあえずは森の入口までショートカットしよう。それでいい?アインズ、コキュートス」


「ああ、問題ない。時間短縮できるに越した事はないからな」


「ルカ様ノオ望ミノママニ」


「よし、じゃあ行こうか。転移門ゲート


漆黒のトンネルが口を開けると、まずは先行してルカが穴の中へと進んだ。それに続いて5人も足を踏み入れる。



───湖南西・トブの大森林西部入口 10:15 AM



ゼンベルは我が目を疑った。本来であれば集落からトブの大森林まで半日はかかる所を、一瞬で移動してきたからだ。


「...すげえなルカ姉ちゃん、こんな魔法見た事も聞いた事もねえや」


「フフ、それよりもほら、案内役しっかりと頼むよ。ミキ、ライル、足跡トラックはどう?」


「クリア」


「同じくクリア」


「OK、先に進もう」


前衛にはコキュートスとライル・ゼンベル、中衛にルカ、後衛にアインズとミキという布陣で進んでいく。そうして4時間近く歩いた頃、暗く生い茂った森の最奥部に巨大な木の幹が見えてきた。そしてその大樹の前まで着き、アインズとルカ、コキュートス・ミキ・ライルはその何かを見上げて絶句する。


「お、おいルカ...これはまさかひょっとして」


「....何でこれがここにあるの?」


「ワ、分カリマセヌ。シカシ見間違ウハズモゴザイマセン、コレハ...」


そこにあったもの。それは過去にアインズとルカ達が見た、虚空へと続くカオスゲートの入口にある漆黒のモノリスだった。高さ15メートル、横幅5メートル程の石碑で、磨き抜かれた表面には解読不能な文字が刻んである。しかしカオスゲートの時と異なり、最下部に台座がない。ゼンベルを除く全員がそれを見て驚愕していた。


「ルカ、この文字が読めるか?」


「いや、恐らく字体からして、前に見たエノク語で書かれていると思う」


ルカは石碑に手を触れてみるが、カオスゲートと異なり何の反応もない。


「これを読めるとすれば、私の知る限り一人しかいない。みんなちょっとここで待ってて、すぐに戻るから。転移門ゲート


暗黒の穴が口を開けると、ルカはその穴に飛び込んでいった。



───エ・ランテル 冒険者ギルド2階 組合長室 14:20 PM



エ・ランテルが魔導国の下に統治されてから安定期に入り、冒険者ギルドはかつての活気を取り戻しつつあった。ギルドへの依頼を山のように抱え、その書類審査や冒険者達への依頼割り振り等でプルトン・アインザックは処理に追われていた。そこへ何の脈絡もなく、組合長室のソファー右隣に暗黒の穴が開いた。プルトンは咄嗟に部屋の左奥にあるクローゼットの中より片手剣を取り出し、腰を落として身構えたが、その中から漆黒のレザーアーマーを装備した黒マントの女性が飛び出してきた。


「ル、ルカか?!」


「そうだよプルトン、久しぶり。元気だった?」


その笑顔を見て、プルトンは納刀し剣をクローゼットに戻した。そしてルカの前に歩み寄ると、お互いに抱き締め合った。昔と変わらぬフローラルな香りがプルトンの鼻孔を満たし、懐かしさを感じさせた。


「ああ、もちろん元気だとも。お前がいない間に色々あったがな。それもようやく落ち着いてきたところだ」


「そうか、なら良かった。早速で悪いんだけど、私と一緒に来てくれるかな?」


「来てくれるって...今からか?」


「うん。すぐに済むから武装しなくても大丈夫だよ。転移門ゲートが閉じちゃうから、早く行こう?」


「こ、こらちょっと待て!俺はまだ書類の整理が...」


「それは後ででも出来るでしょ。プルトンにしか出来ない事があるんだ、お願い」


そう言ってルカは強引にプルトンの手を引っ張り、2人は転移門ゲートへと飛び込んだ。そして着いた先にいたのは、ミキにライル・蜥蜴人リザードマン・そして何よりエ・ランテルの支配者であるアインズウールゴウンと、その配下であるコキュートスであった。それを見てプルトンは仰天する。


「こっ、これは魔導王陛下!まさかあなたがルカと共にいるとは知りもせず、失礼を致しました!」


「組合長、わざわざ来てもらって済まない。頼みたい事というのは、この石碑の事だ。どうやらエノク語で書かれているらしいのでな。この翻訳を頼みたいのだよ」


「石碑ですと?」


そう言うとプルトンは大樹の方を向き。その上を見上げた。そこにはルカに引き連れられて過去に見た、虚空の入口・カオスゲートと同じような漆黒の石碑だった。


「なっ...何故モノリスがここに?!いやそれよりも、周囲を見る限りここはトブの大森林のようですが....」


「そうだ。蜥蜴人リザードマン達が発見してな。突如としてこの場にモノリスが現れたらしい」


「そうでしたか。それでルカ、お前は何故魔導王陛下と共にいるのだ?」


「えーと私、アインズウールゴウン魔導国の大使になったから。よろしくね」


「...話が急展開過ぎてついていけないが、まあいい。これを翻訳すれば良いのだな?」


「うん、お願い」


プルトンは石碑に彫られた文字を、上段から言葉に出して読み始めた。



──────────────────────────────



話を元に戻そう。2210年、以前より世界政府からアナウンスのあった電脳法改正を機に、我々は装いも新たにDMMO-RPG・ユグドラシルⅡを発売した。この改正で、味覚、聴覚、視覚、感覚、嗅覚の5感全てをアクティブにする事が合法となり、当然ユグドラシルⅡにもこの仕様が盛り込まれた。ここでは主にDWYDに囚われた鈴木悟から得られた貴重なデータの実証実験と、フェロー計画に基づきアップデートしたメフィウスとユガの動作確認を行う場となった。また同年、老衰により劣化した鈴木悟の情報を保護する為、当時最先端であった電脳化手術を彼の脳に施す事になった。彼の手術が無事成功した事を受けて、申請が降りなかった私への電脳化手術も執り行われる事になった。私の体も老いたが、世間での私への呼び名は(ヴァンパイア)だった。確かに心臓のバイパス手術を受けた事もあるし、体内の血液全交換も一度だけ受けた事があるが、ただ一度だけだ。それが妙な形で広まってしまい、このように残念な渾名を頂く事となってしまった訳だが、当時極秘の技術だった電脳化処置の隠れ蓑としては、十分役に立ってくれたと言わざるを得まい。ユグドラシルⅡでは鈴木悟に行ったような肉体の拉致は行われなかった。何故なら、五感を長期間アクティブにした際の影響に関しては、十分過ぎるほどデータが取れていた為だ。私はあの時のような罪悪感に悩まされないで済むことを、誰にともなく感謝した。



そして2220年、遂にフェロー計画が実行に移された。その理由は、タングステンとチタンの結晶を超低温で結合させた超合金(アンオブタニウム)の発見と、ワームホール航行が実用段階に入った事だった───当然軍内部でだけだが。


世界に極秘裏で打ち上げられたワームホール型宇宙船(フェロー)が、ワームホールを使用して640光年離れたオリオン座のベテルギウス・ブラックホールに約3年で到着し、その人工衛星(フェロー1)が2223年にベテルギウス・ブラックホール周回軌道に入った。その後2224年に、アンオブタニウムで作られた有線式の曳航型パラボラアンテナをブラックホールの事象の地平面に接触させた。そこから得られた熱と圧力をエネルギーに変換するというアンオブタニウムの特性を活かし、有線で繋がれたパラボラアンテナから衛星本体に膨大な量のエネルギーを供給し、ユグドラシルAIとプレイヤーの脳波を含むデータを乗せた高周波パルスレーザーをブラックホールの中心に照射・光速を超えて内部の5次元到達後、わずかに反射する極限にまで圧縮された時間跳躍の相互データをパラボラアンテナで抽出し、ブラックホールにより光速を超えたデータ速度を失わせることなく、複数の軌道衛星により地球までブースト転送・レイテンシー補正をかけることにより、将来的に増設される全ての時代のユグドラシルサーバで、速度差のない安定したプレイを行う事が可能になった(各個のインターフェース速度による性能差は除外)。



──────────────────────────────



「以上がこの石碑に書かれた翻訳だ。ルカ、何のことか分かるか?」


ルカとアインズは顎に手を添えたまま碑文を見つめ、考え込んでいる様子だったが、プルトンに質問されて中空から手帳を取り出し、今聞いた碑文の内容を書きながら返答した。


「いや、私にも分からない。だが順に追ってみよう。”我々は装いも新たにDMMO-RPG・ユグドラシルⅡを発売した”と言っているという事は、この碑文はカオスゲートの時と同じく、ユグドラシルの開発者であるグレン・アルフォンスが書き記した可能性が高い」


「更に付け加えれば、俺の名も出てきている。DWYDとは、恐らくダークウェブユグドラシルの略だろう。コアプログラムであるメフィウスとユガの名前も明言されている事から、恐らくはグレン・アルフォンスでほぼ確定だろうな」


アインズも顎から手を離し、話に加わった。ルカがさらに話を進める。


「そしてアインズの脳核を電脳化したのは、文脈を見る限りエンバーミング社が行った」


「そうだな。そして俺の電脳化が成功した事を受けて、グレン・アルフォンスも同様に電脳化の処置を施された。という事は、俺と同じく今も彼は生きている可能性が高い」


「そうだね。所々に出てくるフェロー計画というワードも引っ掛かる。アンオブタニウムというレアメタルに関しては、2550年代では希少ではあれど、珍しくもなくなっている。自然資源ではなく、人工資源だからね。ただ、研究者としての視点で言わせてもらえば、他に類を見ない強靭性と価値は未だに高い。熱や圧力を電力に高効率で変換するという点で、この碑文に書いてある事は嘘じゃない。プロキシマbではタングステンとチタンが豊富に取れる為に、加工して地球に輸出したりしているんだ。そのアンオブタニウムで宇宙船フェローと人工衛星フェロー1を作り、640光年彼方のベテルギウスブラックホールに向かった。そしてそこでは、ブラックホールをエネルギーの供給源として、ユグドラシルのプレイヤーやAIのデータをパルスレーザーに乗せてブラックホールに打ち込み、極限にまで圧縮されたデータの反射を捕らえて地球までのデータ転送実験を行った」


「ルカ、お前が俺を助け出してくれた時は、プロキシマbから地球まで遠隔リモートリンクしてバイオロイドを操り、助けてくれたんだよな?」


「そうだよ」


「ではここに書かれているブースト転送とやらも、あながち不可能では無い訳か」


「うん。それと”各個のインターフェース速度による性能差は除外”とまで言い切っているね。つまりグレン・アルフォンスは、将来的に脳内に埋め込まれるCPUが、半導体素子から生体量子コンピュータに置き換わる事を予言していたとも受け取れる」


「全く...一度顔を拝んでみたいものだな」


「そうね、それに時間跳躍なんて言葉もあるし。ブラックホールの内部は、ここに一部書かれている通り最奥部は5次元空間が広がっていると考えられているけど、その内部を解明した者なんて当然誰もいない。ただ、5次元空間では時間もエネルギーとして捉えられる。三次元と四次元が混在し、未来から過去へ、過去から未来へと絶えず変動し続けていると思われる空間、それが5次元という世界なんだよね」


「何だか頭がこんがらがる世界だな」


「うん、5次元は人智を超えた世界だよ。それにこの碑文、文頭と文末が不自然だと思わない?」


「そうだな、俺もそれが気になっていた。まだ話の続きがあるような文体だ」


「という事は、他にもまだ...」


「ああ、ここと同じく新たにモノリスが出現している可能性が高い」


「アインズ達の事と平行して、探す価値はありそうだね」


「そうだな、お互い気にかけておこう」


メモが終わった手帳をアイテムストレージに収め、ルカはオートマッピングスクロールを取り出して、現在地にマーカーを設置した。横で話を聞いていたプルトンとゼンベルは、ポカンと口を開けながらアインズとルカの話を聞き流していた。きっと魔法でも唱えているように映ったのであろう。アインズがバサッとローブを翻し、皆の方へ振り返った。


「コキュートス、それとゼンベル!ご苦労であった。お前達を集落まで送り届けよう。ルカ・ミキ・ライルは組合長をエ・ランテルまで頼む。助かったぞ組合長。その後ルカ達とコキュートスはナザリックにて私達と合流し、作戦会議だ。いいな?」


『了解!』


アインズとルカは二手に分かれて転移門ゲートを開き、トブの大森林西部奥地を後にした。



────────────────────────


■魔法解説


体内の精査インターナルクローズインスペクション


体内のバッドステータスをリスト化して検出する魔法。但しどの状態異常かを示すのみで、具体的にどの魔法によるバッドステータスなのか詳細は確認できないため、あくまで応急処置として使用される事が多い。一部損傷等のバッドステータスは、体内の状況を確認できる



損傷の治癒トリートワウンズ


魔法を受けた者の自然治癒力を300%にまでブーストさせ、傷や損傷を受けた体に対し、本来あるべき姿に戻す治癒魔法。位階上昇化により魔法の効果パーセンテージが上昇する



治癒手ブレッシングオブザの恩恵ヒーリングハンズ


HP総量の50%を回復し、軽微なバッドステータスも合わせて回復するパーセントヒール。リキャストタイムが非常に短いため、より戦闘向きのヒールとして使われる事が多い



病気の除去ディスペルディジーズ


バッドステータス(感染)を除去する魔法。感染したモンスターのLVが高い場合は、その度合いにより位階上昇化等の補助が必要



石化ディスペルの除去ペトリファクション


バッドステータス(石化)を解除する魔法。石化自体が致命傷になるため、通常用途として魔法最強化と併用される事が多い



闇の追放バニッシュザダークネス


継続系の呪詛バッドステータスを全消去できる魔法。また呪詛系DoTの解呪も行える



毒素の看破ディテクトトキシン


あらゆる毒素の含有を見破る魔法。物体や容器に入った水等であれば手に触れずとも感知できるが、川等の流動する液体等に関しては直接手に触れて魔法を唱えなければ感知出来ない



足跡トラック


周囲2キロ程度のモンスター・プレイヤーの所在位置を把握できるMP消費無しのレーダー型魔法。また現在地がX軸とY軸による数値で表示される為、敵の正確な位置の把握及び味方との連携・合流に有効活用できる。主にPvP、GvGでの使用に最適な魔法でもある



危機感知デンジャーセンス


あらゆる種類のトラップを50ユニットの範囲内で感知できる魔法。トラップ効果範囲は視覚的に黄色く光る事で術者はその範囲を知る事が出来る



読心術マインドリーディング


相手の心の声を聞き取る事が出来るが、雑念まで入り混じってくるため、その深層心理までは聞き取れず不確定要素が多い。あくまで参考程度に使用する魔法



毒の刃ポイズンブレード


装備している武器に低位の毒属性Procを付与する魔法



武器属性付与・炎アトリビュート・フレイムアームズ


装備した武器に最高位の炎属性Proc効果を付与する魔法



暗い不屈の精神ダークフォーティチュード


敵から受ける物理攻撃ダメージを30分間15%まで下げるヴァンパイアの特殊魔法



器用さの祈りプレーヤーオブデクステリティ


パーティー全体の器用さ(DEX)を600上昇させる魔法



殺害者の焦点スレイヤーズフォーカス


敵の麻痺に関わる魔法や攻撃を完全に無効化する魔法。60分間有効



毒素の除去ディスペルトキシン


あらゆる毒属性のバッドステータスを解除する魔法。相手のレベルにより、位階上昇化等の補助が必要



石化の大害カースオブペトリファクション


術者のHPとMP総量の70%と引き換えに設置可能な魔法陣。この魔法陣の周囲は(感染)と(石化毒)に侵され、石化に対しては術者が魔法陣を解除してもその毒を取り込んだ者の中に残り続ける。尚この石化毒は呪詛判定とみなされ、術者である蛇髪人メデューサの血液を飲む以外に解呪は不可能である。また蛇髪人メデューサは殺害後、頭部切断以外は約5分間で体が消滅してしまう為、その間に血液を保存する為の特殊なアイテムが必要となる




■武技解説


痛恨の刀傷ペインフルカット


対象に高速5連撃を浴びせ、斬撃体制を30%まで引き下げる片手剣専用武技



回転斬撃ホイーリングスラッシュ


対象に高速7連撃を浴びせ、防御力を40%まで引き下げる片手剣専用武技




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