細川顕氏「旗幟彷徨」

夕月 日暮

第1話「藤井寺合戦」

 河内国の藤井寺は、狂騒に包まれていた。


(これを狂騒と言わず、何と言えば良いのか)


 潰走しつつある自軍の兵たちの頼りない様を目にしながら、顕氏は精一杯怒りを抑えていた。


 細川顕氏は、京を支配下に置く室町幕府の重鎮である。

 室町幕府の将軍・足利尊氏の信任厚く、これまで様々な戦で武功を立ててきた。

 顕氏は足利氏の支流である細川氏の、そのまた支流だった。にもかかわらず、彼は河内・和泉・讃岐の守護を任されていた。


 この時期、室町幕府は南朝との戦乱の真っ只中にある。

 そういう戦乱において、守護に任命されるということは、その地域の司令官としての働きを期待されている、ということだった。

 河内・和泉は幕府の本拠地である京にも、南朝の本拠地である吉野にも近い。

 そういう重要な国を任される程の男、それが細川顕氏だった。


 しかし、その勇将が率いる軍勢が今や潰走しつつある。


 敵は、小勢だった。

 油断していたわけではない。敵情は確認した。

 敵は遠い。加えて顕氏たちの軍勢は四国・中国からかき集めた者たちだった。長旅で、皆疲れていた。


「あれだけ離れているのだ、まだ戦にはなるまい。存分に働くためにも、今はまず休め」


 顕氏の判断に異を唱える者はいなかった。

 それは至極当然の判断だったからだ。


 ただ、敵の大将・楠木正行は尋常な男ではなかった。

 戦にはなるまいと顕氏が判断した距離を、正行率いる軍勢は度し難い速度で駆けてきた。

 気づけば、乱戦になっている。


「者ども、退くな! 敵は小勢ぞ!」


 敵の太刀を浴びそうになりながらも、顕氏は自らの軍勢を鼓舞した。

 しかし、その声は喧騒でかき消されていく。


 戦場を支配していたのは、楠木正行の狂気だった。

 数の差をものともせず、全軍が死兵となって幕府軍の中に切り込んでくる。

 幕府軍はこの『狂』に気圧された。

 数を恃んで楽な戦をしようと考えていた者が大半だった顕氏軍は、正行軍の勢いに耐える術を持たない。


「こんな遠国で死んでたまるかよ!」

「話が違う、南朝はまだまだ戦えるではないか!」


 割に合わない。

 そんな怨嗟の声をまき散らしながら、顕氏軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。


「父上、此度の戦はもはや決しました。今は逃れましょう」

「逃れるだと。政氏、貴様いつからそのような腰抜けになった」

「言っている場合ではございませぬ。生きていれば、かつての御所様のように巻き返すこともできましょう」


 子息である政氏の言葉で、顕氏の脳裏にかつての記憶が浮かび上がった。

 足利軍は、奥州から攻め寄せてきた軍勢に散々打ち破られ、もはやこれまでかというほどに追い詰められたことがある。

 しかし、落ち延びた先の九州で勢いを盛り返し、今度は敵軍を散々に打ち破って、京に帰還した。


「わしは、平家にはなりたくない」

「我らは平家ではありませぬ。平家を打ち破りし源氏の一族ではないですか」

「血筋など、あてにならぬ。今日のわしがあるのは、積み重ねてきた武功と御所様の御蔭。ただそれだけだ」


 顕氏は、遮二無二戦場を駆け巡る若き楠木の当主を一瞥し、それ以上は何も言わずに戦場を後にした。

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