戦花=エーデムリング物語外伝=
わたなべ りえ
戦花
第1話
母上様
お元気でしょうか? 私は元気です。
そこまで書いて、アルヴィの手は止まった。
第二リューマの地深く侵攻した、目立たぬ土色の軍事用の天幕の中でのひとときだった。
厚い天幕の布地があたりを暗くしている。布を通ったわずかな陽光だけでは、さすがにウーレン族とはいえ、字を書くのもやっとである。しかし、手が止まったのは別の理由からだった。
今日は、地獄の行軍だった。
岩の砂漠を越え、崖の谷間を抜けた。敵の裏に回るために命を賭けた。
そして明日、せっかく自然との賭けに勝った命を、捨てることになるかもしれない。味方の合図を待って、リューマの大軍に奇襲をかけることになっているのだから。
その合間の手紙だ。
血まみれの戦闘ばかりが続き、
目には、乾いた大地と血しか映らない。心優しきエーデム族の母を思い抱くには、アルヴィの手は血にまみれていて、気が重すぎた。
母の美しい緑の瞳を思い出すこともできないほどに、心はすでに枯れ果てている。伝えたい思いを綴るゆとりはすでになかった。
それよりも、おそらく……母は手紙を読んでもくれないだろう。
これがもしも、ウーレン王アルヴィラント・ウーレンの遺書となってしまっても。
母は、未だにアルヴィの決断を許せない。血を分けた兄を手にかけたことを、認めることができないのだ。
一度も目を合わせることもなく、うめくような声だけを残して、母はエーデムの玉座の間から、アルヴィの前から走り去ってしまった。
あれ以来、親子らしいやりとりはない。兄の葬儀の時にも、言葉らしい言葉もなく、それからは会ってもいない。
一度ペンを置き、天幕を出る。
気分転換が必要だ。
夕暮れが近づく。
アルヴィは疲れていた。
戦いの前に、過酷な自然に命を削られてしまったようだ。兵士も皆、疲れはてている。
眼下の平地に陣取るリューマ軍に気づかれぬよう、火を焚くことを禁じたせいもあるが、一小隊が野営しているようには思えない静けさだ。
誰もが天幕の中、もしくは岩陰の隙間、ひっそりとして動かずにいる。
誰かの、乾パンをかじる音が聞こえてくるほど、あたりは静かである。温かな食べ物があれば、少しは力も出ることだろうが、誰一人、王の決定に文句を言う者はいない。
これが最後の夜かも知れない。
誰もが、ただ体を休め疲れを残さぬよう、せめてウーレンの戦士らしい華々しい最期を遂げようと思っている。
ここまで、彼らを率いてきたのは、ウーレン王である自分だ。
死んだような静かな野営地を抜けながら、アルヴィは重苦しく感じた。
が。
アルヴィは、前を見据えた。
――いや、明日の夜は勝利の宴会だ。
そのバカ騒ぎのために、せいぜい休め……。
俺もそうする。
これは死ぬための戦いではない。
生きるための戦いなのだ。
岩だらけの荒れた場所だった。
地下水が湧き出ているところがあり、かろうじてきれいな水を確保できる。
顔を洗い、水を飲む。
岩の隙間を渡った風は、かすかに水の冷たさを運んで時に涼しい。ウーレン風に結ばれた燃えるような赤い髪が、左右に振れた。
岩が真っ赤に染められてゆく。その影は黒々と伸びている。もう、平地ではこの山陰に陽光は沈んだはずだ。
そこに、リューマ軍とウーレン軍がにらみ合っている。長い戦闘でお互いに消耗しきっている両軍は、簡単には動けずにいる。
だからこそ、我々は動いたのだ。命を賭けて。
敵の裏に回るために、死と隣り合わせの険しい道を選んだ。余力はまったくない。
まさに、ぎりぎりである。
ふと見上げると、岩壁の高いところ、わずかな岩の間に小さなスミレの花が咲いている。アルヴィの心は和んだ。
手折ろうか? いや。
せっかく咲いている花だ。そこにあることが望ましい。
それに、俺は疲れている。
早々と寝ることとしよう……と思ったときだ。
黒い人影が岩をよじ登り、紫の可憐な花を手折ってしまった。
ウーレン族にはよくある黒髪だが、夕陽に耳の飾り毛がますます赤く映える。アルヴィにはすぐに誰だかがわかった。
軍師のデューンだった。
彼は今日、王とは別の隊を率いてやはり別ルートの強行軍を続けた。
万が一の全滅を避けて、軍を二手に分けていたのだ。一方に何かがあっても、もう一方が無事であれば、勝機は残る。
おそらく、アルヴィの隊よりも厳しい行軍だっただろう。一緒だったはずのリラすら口も聞かずに回復に努めるくらいだから、デューンも体がきついはず。
疲れた体に鞭を打ってまで花が欲しいとは。顔に似合わない男である。
彼はするすると岩を下りた。愛しそうに花の香りをかいだとたん、アルヴィの姿に気がついたらしい。
「王、失礼を……」
デューンは、いかめしい顔をややしかめながら、丁寧に頭を下げた。
親友だと思っているのに、この男は王に礼儀を欠かさない。真面目といえば真面目なのだが、つまらないといえばつまらない男だ。
「別にお前は失礼なことをしてはいないぞ」
堅苦しさにうんざりした。
デューンは、少し不思議そうな顔をした。
「王が、先に花を手折ろうとしていたのでは?」
デューンの言葉に、アルヴィは目を白黒させた。
「なんで俺が花を摘む? 花なんか、どうでもいい。だいたい、なんでお前が花なんか摘むんだ?」
アルヴィの質問に、デューンは大真面目に答えた。
「花を摘むのは、心を伝えるべき人に捧げたいからに決まっている」
無表情のまま、戦略を述べるがままの語り口で言われると、思わず聞き間違いだったか……と思うような言葉だ。
大の男が平然とそのようなことを口にする。
アルヴィはふきだしてしまうところだったが、デューンはそれを何ともおかしくは思ってはいないらしい。
かすかに目を細め、花を見つめながら歌うようにつぶやいた。
「この花は、岩場に人知れず咲くよりも、あの人の胸元を飾るにふさわしい」
「ぶほっ! 真面目にか……?」
思わず呆れてしまった。
しかし、デューンは平然として胸に手を当てて、アルヴィに敬意を示した。
「今宵は、時間があまりありませんので、失礼を」
すっかり暗くなってしまうまで、アルヴィはしばらくそこにいた。
自分が知っているデューンという男を思い浮かべてみる。
冷静沈着。生真面目な男。文武に優れた優秀な軍師。
ウーレンの黒髪に赤い飾り毛の耳。血の色の目。まさにウーレンの貴公子。
ギルトラント王が魔の島を統一したときの立役者、軍師モアラの御曹司であり、宰相モアの血縁という由緒正しいウーレンの名門中の名門の出である。
そして、ウーレン貴族デルフューン家の娘・シーラとは、彼女が生まれる前から結婚が決められていた。
誰もが認める良縁の二人。
それを今更……花を捧げてどうするのだ?
アルヴィには、まったくよくわからなかった。
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