Hot Buttered Rum

『……別れようかな……』


 クリスマスの日、僕や曾祖母、祖父母のクリスマスプレゼントを持って来て開口一番、母は突然そう呟いた。


『なに? 何かあったの?』

『また浮気してる……多分、だけど……』

『ったく……! 何考えてんだよ、父さんは!』


 曾祖母に怒られてから、母は時々曾祖母の家に来ては、まるで今までの毒を吐き出すように、ポツポツと愚痴や父のことを話すようになった。


 浮気していたこと。

 話を聞いてくれないこと。

 育児を手伝わないこと。

 僕たちが生まれた時から、女の子はいらないと言っていたこと。

 圭を庇ったり、父が気に入らないことがあると殴られたこと。


 などなど、どう考えても呆れてしまう父の話をたくさんしてくれた。


『たが、お前も大概、呆れたヤツだな』

『おばあちゃん……』

『圭を犠牲にしてまで、そんなヤツと一緒にいたかったのか?』

『恋人だった時も、結婚した当初も、あたしには本当に優しかったの。でも、だんだん本性を現して来て、気付いた時は遅かった』

『気付いた時に、うちに来ればよかったじゃないか』

『……そうだね。でも、あの時はあの人のこと、すごく愛してたから。どんなあの人でも愛せる自信があったし、側にいたかったから、耐えられた。でも……もう耐えられない。あの人は、圭に会うつもりはないみたい。だけど、あたしは圭に会いたい……』


 馬鹿め、と溜息をつきながら、曾祖母はそう言った。


『男の言うがままに葎を選び、圭を虐待し、手離したお前が、圭に許される、とでも?』

『許されるとは思ってない。でも、それでも、一目だけでも会いたい……会って謝りたい。……圭に癒されていたことを思い出したから』

『圭が会ってくれるか、わかんないよ? 僕だって、今は会えないから』


 僕がそう言うと、母はえ、という顔をした。


『どういうこと? 同じ会社内にいるんでしょう?』

『あれ? 言ってなかったっけ? 圭はすごく優秀な秘書みたいで、先月の初めに親会社の専務が迎えに来て、親会社に行っちゃったよ』

『あの子……秘書をしているの……?』

『あ、それも言ってなかったね。うん。僕、圭に仕事を教えてもらったんだ。僕のこと嫌いなはずなのに、そんな感情は一切出さないで、丁寧に教えてくれたよ』

『そう……』


 それきり母は黙ってしまったけど、圭の話が聞けたからなのか、母は嬉しそうに目尻を下げていた。



 ――それからの僕はまた母と話すようになり、時々、僕が知っている圭の仕事ぶりを、母に教えてあげるようになった。



 ***



「羽多野、この翻訳を頼んでいいか?」


 お正月休みが明けて何日かたった。そう室長に言われて書類を受けとると、英語とスペイン語に翻訳、と書かれていた。


 圭が穂積に行ってしまったあと、僕は独学でスペイン語とドイツ語の勉強を始めた。けど、独学ではわからないことも多く、発音があってるかもよくわからなかったから流行りの勉強ツールを使ってみたけど、ビジネス用語は僕が思うほどのものはなかった。

 せっかく身近なところにお手本がいるからと、甘いと怒られるかなと思いつつも室長に『教えてください』と言うと、圭が作ったという翻訳ツールをくれたうえ、『ドイツ語は圭のほうが得意なんだが』と言いながらもビジネス用語の発音なんかを教えてくれたのだ。


「ちょうど手が空きましたので、構いませんよ」

「すまん、助かる。もうちょっとすると客が来るから、どうしようかとは思ったんだが」

「お客様なら仕方がないですよ。逆に、不慣れな僕でいいんですか?」

「不慣れだからこそ慣れてもらわにゃならんし、秘書課でスペイン語ができるのは、穂積に行った圭を除くと今は小田桐部長にくっついていったやつと、羽多野と俺しかいないからな。急ぎとは言っても今日中に提出する書類だから慌てる必要はないが……そうだな……三時までに提出してくれ」

「わかりました」


 頷くと、僕は翻訳に取りかかる。今日は珍しいことに、普段は企画室にいる三島さんが秘書課にいて、室長と相談しながら書類仕事をしていた。

 それに、最近の室長はすこぶる機嫌がいい。クリスマスを過ぎたあたりから本当に機嫌がいいのだ。

 時々鼻歌まで歌いだして、室長を良く知っている先輩たちが『槍が降るかも』とか『天変地異の前触れか』とか『あの、鬼の在沢が……』と言いながら、戦々恐々としていたっけ。


 集中していると、扉のノック音がした。室長が言ってたお客様かなと思い、コーヒーでも出そうかと思って席を立ったところで「こんにちは」と思わぬ人物――圭が秘書課に顔を出したので、びっくりする。

 久しぶりに見る、圭の顔。相変わらずの無表情なんだけど、どこか雰囲気が和らいでいる気がする。


「三島さんも羽多野君もお久しぶりです」


 挨拶をすると圭は室長の前に座り、専務から預かったという書類と、「秘書課の皆さんでどうぞ」と紙袋も一緒に渡していた。こういった圭の心遣いは、見習わなければと思う。

 書類を読んでいる間に、久しぶりにコーヒーを淹れてくれと言った室長に圭は快く返事をし、僕たちにも飲むかと聞いてくれたので、三島さんと揃って


「「是非!」」


 と言うと、圭はすぐに席を立った。そう言えば僕はコーヒーを入れようとしてたんだっけと思い出し、「手伝います」と言って圭と一緒に給湯室へ行く。

 手伝いながら、準一級を合格したことと、ドイツ語のわからないところをどうやって聞こうとかと思い悩み、「あの、さ……」と、やっと声をかけられたのは、圭がコーヒーメーカーのスイッチを入れた時だった。でも、出てきた言葉は、合格したことでもドイツ語のことでもなくて。


「あのUSBの中身だけどさ……勉強したよ」


 という言葉だった。


「まさか、あんなことになってるなんて知らなくて……。その……僕の独り善がりだった。ごめ……」


 ごめんなさい。そう言うつもりだったのに。


「葎」


 僕の言葉を遮って、久しぶりに……本当に久しぶりに、圭に僕の名前を呼ばれてびっくりする。まさか名前を呼んでもらえるとは思わなかったから、ちょっと嬉しい。

 圭は僕に向き直って僕の顔を見上げたけど、顔は無表情のまま。でも、常にある僕たちに対する怒りや憎しみが和らいでいる気がするのは気のせい、だよね、きっと。そんなことを考えていると。


「もう終わったことです。過去には戻れない。そして葎が私にしたことも、あの人たちが私にしたことも、許すことはできない……それはわかりますよね?」


 そう言われた。確かに許されることじゃない。僕も、両親も。


「できることなら、二度と関わってほしくない。でも、職場にいる以上関わらないわけにはいかない」

「……うん」

「許すことはできないけれど……でも、仕事を認めることはできる」

「……っ」


 それは、その言葉は、僕にとっては思ってもみない言葉だった。それだけでも嬉しかったのに、母が癒され、僕も癒されたあの仕草さを……右手を上げて左頬をピタピタと軽く優しく叩くあの仕草を、圭はしてくれたのだ。

 それだけで僕は泣たくなってしまい、思わず顔を歪ませてしまった。


「まだまだ半人前ですから、今すぐ認めるわけには行きませんが……」

「わかってる。追いつけるように努力、する」

「……」


 追い付けるように頑張りたい。追い付けなくても、せめて一人前と認めてもらえるくらいにはなりたい。


「姉弟じゃなくても……赤の他人でもいいから、せめて、同僚でいさせて……っ」


 僕は圭をギュッと抱き締める。今はそれだけでいいから、それだけで充分だから。

 心の中でそう言い、小さな声で「ごめん」と圭から離れると、カップの用意を始める。圭が落ちきったコーヒーを入れてくれて、それを持って行こうとしたので


「あとは僕がやるから。先輩に持って行かせるわけには行かないでしょ?」


 と言って、コーヒーを持って給湯室を出た。

 やっと、謝ることができた。でも、それだけで許されるなんて、これっぽっちも思っていない。


 でも。


 頑張るから。圭の足元にも及ばないかもしれないけど、『仕事を認めることはできる』と言ってくれた、圭に答えたいから。


 コーヒーを配り終え、自分の席に戻ってコーヒーを一口啜る。やっぱり美味しい。僕が入れたのと、味が違う。

 そう言えば、さっき圭は豆を二種類使っていたっけ。

 コーヒーメーカーなら家にもあるし、帰りに別の豆を買って家で研究してみようかなと考えていると、圭が秘書課戻って来て室長の前に座ったので、今度こそ合格の報告とドイツ語と思って側に行ったんだけど……。


「圭、専務に『わかった』と伝えてくれ」

「畏まりました」


 封筒を受け取って鞄にしまうと、突然三島先輩が「在沢……その指輪……」と言い出した。


(指輪?)


 さっき一緒にいた時は、圭の顔ばかり見ていて気付かなかった。


「俺が言ってもいいか?」

「構いません。では失礼します」


 圭の言葉にハッとなり、圭をみるとゆっくりと秘書課を出て行ってしまった。


「ちょっ、室長! 『俺が言っても』って……そもそも、あの指輪! 左薬指に嵌まってたじゃないですか!」

「え?! そうなんですか?!」


 左手薬指なら、婚約だよな……てか、恋人いたんだ……とぼんやり考えていたら。


「恋人にもらったやつですか? というか、在沢に恋人がいたなんて知らなかったんですけど」

「ん? あれか? まあ、確かに恋人にもらったやつだがな。あれは、婚約指輪と結婚指輪だ。三島の位置からなら、二本してたのが見えただろ?」

「見えました。見えましたけど! まさかって思ってて……」

「あ、在沢さんが……結婚?! いつの間に?! 相手は?!」

「穂積 泪。穂積エンタープライズ一の切れ者と噂の、あの穂積専務だ。圭の相手の名前はまだ伏せとけよ?」


(穂積専務って、あの人か。あの人ならいいか。って…………)


「「えええええっ?!」」


 室長はそう言うとニヤリと笑い、僕は三島先輩と一緒に綺麗にハモり、二人で驚きの声を上げた。


 どこから聞き付けてきたのか、圭が婚約、もしくは結婚したとの噂が流れ、秘書課は……特に、室長は大変そうだった。

 三島先輩によると、圭に好意を持っていた男性陣や、『無表情の圭を笑わせる会』とかいうよくわからないネーミングの会の圭の女性ファン(?)たちが圭の婚約、もしくは結婚の話が事実かどうかを室長に確かめようと詰めかけ、室長は仕事にならなかったのだ。

 『無表情の圭を笑わせる会』という会の女性に、なんでそんなネーミングなのとさりげなく聞いてみた。


『そのままの意味よ。在沢さんは、笑うとすっごく可愛いの! 疲れてる時にあの笑顔を見ると、なぜか癒されるのよ! 所謂ギャップ萌えよ♪』


 そう言って、一緒にいた女性たちと『ねーっ♪』と圭の話に花を咲かせていた。


 結局、室長は『まだ伏せとけよ』と僕たちに言ったにも拘わらず、どんなに『結婚したから』と言っても『相手がわかるまで帰らない』と詰めかけた人に言われ、仕事にも支障をきたすし収拾がつかないと判断したらしい。


「圭は穂積エンタープライズの穂積専務と結婚したから。仕事の邪魔だ、とっとと自分の部署に戻れ!」


 そう言い放ち、さっさと秘書課から追い出すと疲れたように椅子に座り込んでしまった。書類と一緒に圭からもらったお茶菓子とお茶を持って行くと「ありがとう」とお菓子を摘まみながら、書類に目を通し始めた。


「室長、書類を見ながらお茶を飲んでいると、お茶をこぼしますよ?」


 僕がそう言うと、お茶を持ち上げようとしていた室長の手がピタリと止まり、驚いた顔で僕を見た。


「……一瞬、圭に言われたのかと思った」

「はい?」

「圭にもよくそう言われて怒られたからさ。やっぱ、似るもんなのかね……」


 最後は独り言のように言った室長の顔は、なぜか綻んでいる。僕はそれがなんとなく嬉しかった。


『ある程度のことを諫めるのも秘書の仕事です』


 そう言った圭。僕は室長の秘書じゃない。

 でも。

 室長の顔を見る限り、諫めたのは間違いじゃない。そう思えた。



 ――その日の帰り。長期出張に行ってるはずの政行を見た気がしたけど、多分他人の空似だよなと思って、政行かどうか確かめもしなかった。

 それが本当に政行だったのだと、後日、僕は政行の所業と一緒にそれを知ることになる。


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